第19話 首席令嬢の窒息
白大理石の暖炉の奥で、厳選された樫の薪が音もなく青白い炎を揺らしていた。
煙も出さず、爆ぜる音一つ立てぬよう乾燥させられた特注の薪。部屋の隅々に至るまで、完璧な調和と静謐が支配している。
ここは帝都第一区「光輪地区」の南西、大陸屈指の名門と謳われるヴァレンヌ公爵家の本邸。その三階の東翼に位置する、令嬢クラリス・ド・ヴァレンヌの私室だった。
壁を覆うのは、淡い銀鼠色のダマスク織りの壁紙。床には毛足の長い羊毛の絨毯が隙間なく敷かれ、外の足音や馬車の軋みといった外界の雑音の一切を拒絶している。窓のカーテンは重厚な絹二重織りで、わずかな隙間もなく閉じられていた。
完璧な無菌室。
外界の汚れも、泥の臭気も、庶民の吐息すらも入り込むことを許されぬ、豪奢な石の檻。
その部屋の中央、全身を映し出す豪奢なロココ調の姿見の前に、クラリスは一人、直立不動で立っていた。
纏っているのは、就寝前だというのに乱れのない純白のシルクの室内着。
プラチナブロンドの長い髪は一筋のほつれもなく撫でつけられ、背筋はまるで鋼の針金を埋め込まれたかのように、垂直に伸びている。両腕は下腹部の前で重ねられ、足先は外側へ正確に四十五度開かれている。
帝立聖楽院の教科書に記された、最も模範的な「純正律発声の基本姿勢」。
――すぅっ。
クラリスは、鼻腔から細く、冷たい空気を吸い込んだ。
肩を上げてはならない。胸郭を不格好に膨らませてもならない。神の調和を讃える歌い手は、呼吸すらも目に見えぬ静謐のなかで行わねばならないと、幼少期から何万回と教え込まれてきた。
「…………アーーーーーーーーーー」
開かれた薄い唇から、澄み切った高音が紡ぎ出された。
変イ音。
聖歌庁が定めた純正律に基づく、一切の揺らぎを排した完全なる直線。
ヴィブラートは厳禁。息の生々しい擦れ音も厳禁。
感情を殺し、ただ調律された金属のリードのように、一定の周波数を空間に張り詰めるだけの音。
だが――三拍、四拍と伸ばしたその刹那。
ギチリ、と。
彼女の喉仏の奥で、錆びた針金を乱暴に引き絞ったような、鋭利な痛みが走った。
「っ…………ゴホッ! オエッ、ゴホッ、ゴホッ……!」
旋律は無残に引き裂かれ、クラリスの喉から濁った咳が噴き出した。
姿勢が崩れる。
クラリスは両手で自らの喉元を掻き抱くようにして、床の絨毯の上へと膝から崩れ落ちた。
激痛だった。
声帯の肉が、針の山で擦り合わされているかのような焼けるような熱。気管の奥から込み上げてくる鉄錆の匂い――微かな血の味が、舌の付け根に広がっていく。
「ハァッ……ハァッ、う……ぐ……」
クラリスは荒い息を吐きながら、絨毯の毛足に爪を立てた。
冷や汗が額から滲み出し、白磁のような頬を伝い落ちる。
限界だった。
彼女の声帯は、もう何週間も前から、悲鳴を上げ続けていたのだ。
帝立聖楽院の首席候補。
十年に一人の神童。
そう呼ばれ続けるために、彼女が払ってきた代償のすべてが、いまや毒となって彼女の喉を内側から食い破ろうとしていた。
感情を交えず、個を殺し、神の調和を模倣する「無機質な合唱」。
聖歌庁筆頭審問官であるマクシミリアン伯爵が教義とするその歌唱法は、人間の生身の骨格と呼吸の自然な対流を、力づくで歪めることによってしか成り立たない。
息を押し殺し、首筋の筋肉を硬直させ、裏声の極限で音程を固定し続ける過酷な拷問。
それを三年ものあいだ、一日たりとも休むことなく続けた結果、クラリスの喉の筋肉は慢性的な炎症を起こし、組織が硬化し、もはや本来の声を出すことすら叶わなくなっていた。
「……お前は、ヴァレンヌ公爵家の誇りなのだからな」
脳裏に、厳格な父公爵の冷徹な声が蘇る。
父は一度たりとも、クラリスの歌を聴いて微笑んだことはなかった。ただ、マクシミリアン伯爵から届けられる成績表の「首席」の二文字だけを一瞥し、満足げに頷くだけだった。
『我がヴァレンヌ家は、帝室に最も近い血統。神への敬虔を示し、秩序の美を体現することこそが、お前の存在意義だ。泥の血を引く特待生ごときに後塵を拝することなど、一秒たりとも許されん』
そして、学院の講堂で、冷ややかな視線を投げかけていたマクシミリアン伯爵の声。
『ヴァレンヌ嬢。わずかでも感情の揺らぎを見せてはならない。情欲や痛覚を滲ませる歌は、人間を畜生へと堕落させる悪魔の所業だ。神が求めるのは、清浄なる沈黙の調和なのだから』
首を絞める縄。
名門の血筋。親の期待。学院の規律。教会の教理。
何重にも編み上げられた純白の絹糸が、彼女の喉首に幾重にも巻き付けられ、息をするたびに、歌おうとするたびに、じわりじわりと気管を締め上げていく。
失声の恐怖。
もし声が出なくなれば、自分はどうなるのか。
人形としての価値を失い、父からは見捨てられ、社交界からは憐憫の目で嘲笑され、修道院の奥深くへと幽閉されるのだろうか。
だが――。
絨毯の上で震えるクラリスの胸を掻きむしっていたのは、その現実的な恐怖だけではなかった。
もっと深く、もっと救いようのない、魂の絶望。
(……聴こえてしまう……)
クラリスは耳を塞ぎ、頭を抱えた。
遮断された部屋の静寂の底から、あの音が蘇ってくるのだ。
あの日。
大聖堂の最終選考で、特待生レア・ヴィットが解き放った、あの「悪魔の揺らぎ」。
半音下へと気怠く滑り落ちるブルーノート。
肋骨を、背骨を、全身の骨という骨を鳴動させて放たれた、生身の魂の叫び。
そして――数日前。
忠実な侍女の手引きで、身分を隠して潜入した歓楽街の地下闘技場跡地、〈アリーナ・ノワール〉のこけら落とし。
真紅のドレスを纏い、五百人の群衆を足元に従えて咆哮した、あのレアの姿。
あの夜、二階の暗闇の中で浴びた衝撃は、クラリスが生まれてから積み上げてきた十七年間の価値観を、根底から粉々に叩き壊してしまっていた。
(あれが……歌だ。あれこそが、生きている人間の声だ……!)
あの歌を聴いてしまって以来、クラリスの耳には、自分が歌う賛美歌も、学院の合唱団が紡ぐ寸分の狂いもない純正律も、すべてが「死人の骨の擦れ合う音」にしか聴こえなくなっていた。
美しい旋律。均整の取れた和音。
だが、そこには体温がない。痛みが存在しない。明日を生きようとする執念も、理不尽に抗う怒りも、何一つ入っていない。
ただ、冷たい石の床の上に並べられた、白骨の標本。
自分はこれまで、神を讃えるためと信じ込まされ、自らの喉を削りながら、そんな死体の山を築く手伝いをさせられていたのだ。
(偽物だ……。私の歌は、全部……偽物だった……!)
涙がとめどなく溢れ出し、絨毯の毛足を濡らしていく。
声が出ないのではない。
彼女の心が、もうあの死人の歌を歌うことを、生理的に拒絶していた。
譜面を見つめるだけで喉が痙攣し、賛美歌の歌詞を口にしようとするだけで胃液が逆流する。
本物を知ってしまった魂は、二度と無菌室の毒親に飼い慣らされることはできないのだ。
コト、と。
部屋の奥、ドレッサーの脇にある隠し扉が、微かな軋み音を立てて開いた。
「……お嬢様」
現れたのは、若い侍女だった。
クラリスが幼い頃から身の回りの世話をしてきた、唯一、心を許せる腹心の娘。
侍女は床に崩れ落ちているクラリスの姿を見るや、顔色をサッと青ざめさせ、駆け寄ってきた。
「お嬢様! いけません、床にそのような……! またお喉が痛むのですか!? 今、温かい蜂蜜湯をお持ちいたします――」
「いらないわ、アンヌ」
クラリスは掠れた声で、侍女の手を押し止めた。
床に手をつき、震える膝に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。
鏡に映る自分の顔を見る。
涙で濡れ、髪は乱れ、瞳の周りは赤く腫れ上がっている。公爵令嬢としての気品など、どこにも残っていない。
だが、その瞳の奥には、これまでの従順な人形の目には決して宿ることのなかった、狂気にも似た光が灯っていた。
「……アンヌ。頼んでいたものは?」
クラリスの問いに、侍女のアンヌは息を呑み、怯えたように視線を泳がせた。
「お、お嬢様……本気なのですか? あのような場所へ、二度も足を運ぶなど……! もし旦那様に知られれば、お嬢様はおろか、私の命すらございません!」
「知られなければいいのよ」
「ですが! あそこは歓楽街の最底辺、人殺しや博徒どもが群がる地下の見世物小屋です! 前回は奇跡的に無事に戻れましたが、二度目など……! それに、あの大聖堂を追放されたレア・ヴィットという娘は、いまや聖歌庁からも目をつけられている危険人物です! 関われば、公爵家が――」
「公爵家が何だというの!?」
クラリスの喉から、押し殺した叫びが迸った。
声帯の痛みに顔を歪めながらも、彼女はアンヌの両肩を、華奢な指先で痛いほどに掴み取った。
「公爵家の名誉のために、私はこの喉を潰して死ねというの!? 父様のため、マクシミリアン伯爵のために、息もできないまま人形として飼い殺されろというの!?」
「お、お嬢様……」
「私はもう……あの死人の歌を歌えないのよ、アンヌ!」
クラリスの瞳から、再び大粒の涙が零れ落ちる。
だが、その声は力強かった。
絶望の底で、唯一見つけた蜘蛛の糸を必死で手繰り寄せる者の、剥き出しの執念。
「あの場所へ行かなければ……あの子の歌を、もう一度聴かなければ、私は窒息して死んでしまう! 私を殺したいのなら、今すぐ父様に言いつけなさい! それができないなら――持ってきなさい、アンヌ!!」
主従の立場を越えた、命の叫び。
普段は物静かで、誰の言いなりにでもなっていた深窓の令嬢が見せた、鬼気迫る気迫。
アンヌは息を呑み、震えながら後ずさった。
そして、クラリスの瞳に宿る本物の覚悟を悟った瞬間、観念したように深く頭を垂れた。
「……申し訳ございません、お嬢様」
アンヌは隠し扉の奥へと戻り、数秒後、大きな布包みを抱えて戻ってきた。
絨毯の上に広げられたのは、下町の中流階級の娘が着るような、飾りのない茶色いウールのワンピースと、泥除けの黒い外套。
そして――。
布包みの最も底から現れたのは、白磁に細やかな銀の唐草模様が彫り込まれた、ベネチアンマスクだった。
顔の上半分を覆い隠す、あの「夜の免罪符」。
クラリスは震える指先で、その冷たい仮面を手に取った。
滑らかな陶器の感触。
この仮面を被れば、自分はヴァレンヌ公爵令嬢ではなくなる。
神の調和を強要される首席候補ではなく、ただの一人の、歌に飢えた魂になれるのだ。
「馬車は?」
「……裏門の通用口に、紋章のない辻馬車を一両、待機させております」
アンヌが涙声で答えた。
「御者は、私の生家の従兄です。口は堅い男ですが……どうか、どうかお気をつけください」
「ありがとう、アンヌ」
クラリスは純白のシルクの室内着を脱ぎ捨てた。
コルセットは着けない。
息を詰まらせるクジラの骨の拘束具を放り出し、粗末なウールのワンピースに袖を通す。
肋骨が解放される。
まだ喉の痛みは消えないが、胸郭が自由に広がる感触だけで、微かな安堵が全身を満たしていく。
最後に、黒い外套を羽織り、銀の仮面を顔へとあてがった。
後頭部で絹の紐を結ぶ。
姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、もはやヴァレンヌ公爵家の「完璧な人形」ではなかった。
暗闇の底で燃え盛る猛毒の華に魅入られ、己の命を取り戻すために夜の街へと駆け出そうとする、一人の共犯者の姿。
(待っていて、レア)
仮面の目のスリットの奥で、クラリスの濡れた青い瞳が、強く、鋭く光った。
(私は、奪いに行くわ。……あなたから、生きるための息の仕方を)
隠し扉が、静かに開かれた。
クラリス・ド・ヴァレンヌは、音もなく暗がりへと足を踏み出し、二度目の〈アリーナ・ノワール〉――狂乱の地底へと向かって、夜の闇へと消えていった。




