第18話 夜の免罪符
地底の擂鉢を焼き尽くさんばかりに渦巻いていた熱狂が、やがて潮が引くように冷たい夜気へと受け渡されていく。
〈アリーナ・ノワール〉のこけら落とし公演が終わった直後、すり鉢の底から地上へと続く階段は、興奮で足をもつれさせた平民たちの重い足音で埋め尽くされていた。
誰もが汗まみれで、喉を枯らし、虚脱したような笑みを浮かべていた。
互いの肩を叩き合い、掠れた声で今夜の絶唱のフレーズを口ずさみ、夢遊病者のように夜の街へと吐き出されていく。泥水をすすって生きる彼らにとって、今夜手に入れた熱狂は、明日から再び始まる過酷な労働という名の懲役を耐え抜くための、唯一無二の命綱だった。
だが、その喧騒とは対照的に――二階の吹き抜け回廊からは、物音ひとつ漏れ聞こえてこなかった。
黒い二重の紗幕に守られた五十のボックス席。
明かりが落とされたままの薄暗い通路を、仮面をつけた貴族たちが、幽霊のように音もなく滑り出していく。
一階の平民たちとは一度も視線が交差することのない、裏路地直通の隠し階段。
白と銀のベネチアンマスクをつけた彼らは、誰一人として連れ合いと口を利こうとしなかった。己の正体を暴かれることを恐れるように、あるいは、仮面の下で剥き出しにしてしまった自らの獣の顔を、他人に直視されることに耐えかねるように、足早に闇の中を駆け抜けていく。
通用門の前に待機していた、紋章を削り落とした辻馬車が、一人、また一人と客を飲み込み、夜の帳の中へと蹄の音を消しながら去っていった。
◇
同時刻、ステージ裏の奥深くに設けられた、かつての拳闘場支配人室――いまや〈アリーナ・ノワール〉の事務室となった部屋の中。
ドンッ、と。
分厚い樫の木の天板を軋ませて、頑丈な鉄金具のついた樫木の金庫箱が、無造作に叩きつけられた。
「……おいおいおい、冗談だろ……」
銀狐の毛皮の外套を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を乱暴に捲り上げたベルナール・ジルが、煙草を口から落としそうになりながら立ち尽くしていた。
彼の琥珀色の双眸は、見開かれたまま、卓上にぶちまけられた「収穫」から一秒たりとも離れずにいる。
金貨だ。
それも、数枚や十数枚といった生易しい数ではない。
帝立造幣局の刻印が燦然と輝く、純度九割を超える黄金の硬貨。それが、ステージの松板の上から箒と真鍮のチリトリで掻き集められ、木箱の縁から溢れんばかりに山を築いていた。
その脇には、一階の平民たちが投げ入れた銀貨の山と、数千枚に及ぶ銅貨の詰まった麻袋が、まるで穀物倉庫のように積み上がっている。
「集計が出たよ」
マルゴ・デルーが、煙管の煙をふうと吐き出しながら、手元の羊皮紙をベルナールの胸元へと突きつけた。
「一階スタンディング、入場者三百二十名。入場料は銀貨一枚で、銀貨三百二十枚。二階仮面VIP席、五十席満席。入場料は金貨三枚で、金貨百五十枚。……それから、ステージへ投げ込まれたおひねり。金貨が七十二枚、銀貨が百四十枚、銅貨が数え切れないほど。酒と煙草の売上を合わせて、今夜の一晩の総売上――」
マルゴは獰猛な笑みを浮かべ、決定的な数字を口にした。
「金貨にして、約二百五十枚さ。……〈黒猫座〉の豚小屋で、アタシらが一ヶ月間、骨身を削って稼ぎ出していた純利益を、たった一晩、わずか二時間足らずで叩き出しやがったよ」
「……二百五十枚……!」
裏社会で何千回と修羅場をくぐり、巨額の賭け金を動かしてきたはずのベルナールが、喉仏を上下させて唾を呑み込んだ。
五百人の箱。
放置されてカビを生えさせていた地下闘技場の跡地が、一夜にして帝都のどの高級銀行の支店よりも濃密な現金の濁流を生み出したのだ。
ベルナールは震える指先で金貨の山に手を突っ込み、その冷たく重い感触を確かめた。
そして、部屋の隅の長椅子に腰掛け、冷たい水で喉を潤していた少女――レア・ヴァーミリオンを、戦慄と畏怖の入り混じった眼差しで見つめた。
「……参ったぜ」
ベルナールは乾いた笑いを漏らし、両手を広げてみせた。
「完敗だ、レア。俺は歓楽街の興行をすべて知り尽くしているつもりだったが……アンタは本物の怪物だ。男を愛人にして囲おうだなんて、とんだ思い上がりだったよ。……アンタのこの頭ん中には、一体何が詰まってやがるんだ?」
完全なる脱帽。
強欲で冷酷なプロモーターが、己の優位を完全にかなぐり捨て、一人の少女に平伏した瞬間だった。
部屋の脇では、ジュディットが自慢げに胸を張り、腰の鋏をパチンと鳴らしていた。
「言ったろ、ベルナール! あたしの仕立てた真紅のドレスと、レアの喉があれば、この帝都の男どもなんて財布ごとひれ伏すんだよ!」
ピアノの調律を終えて戻ってきたノアも、包帯の巻かれた指で煙草に火をつけながら、珍しく満足げに口元を緩めていた。
だが。
黄金の山に囲まれ、仲間たちが歓喜に沸くその中心で――レア・ヴァーミリオンだけは、眉一つ動かしていなかった。
彼女は真紅のドレスの裾を整え、ゆっくりと立ち上がった。
机の上に積まれた金貨の山へと歩み寄り、その頂点にあった一枚の金貨を、冷たい指先でつまみ上げる。
「何がそんなに嬉しいの、ベルナール」
レアの低く、静かな声が室内に落ちた。
歓声がピタリと止む。
「……何が、だと? 金貨二百五十枚だぞ、レア。貧民街の一家が一生贅沢に暮らせる額だ。喜ばない興行主がこの世のどこにいるってんだ」
「私は、金持ちになりたくて歌っているんじゃないわ」
レアは金貨を指先で弾いた。
ピィン、と高らかな金属音が響き、硬貨は再び金の山の中へと沈んでいく。
レアの切れ長の黒い瞳には、歓喜の影など微塵もなかった。
そこにあるのは、凍てつくような冷徹さと、底知れぬ漆黒の闘志。
「金なんて、ただの『弾薬』よ」
「……弾薬?」
ベルナールが眉をひそめる。
「ええ。あの高台にそびえ立つ帝立聖楽院と、聖歌庁の教条主義者ども――あいつらの分厚い城壁を叩き潰すための、大砲の弾よ」
レアは窓のない地下の壁の向こう、第一区の白亜の大聖堂がある方角を見据えた。
脳裏に蘇るのは、自分を「悪魔の節回し」「ドブネズミ」と罵り、冷たい雨の中へ放り出したマクシミリアン伯爵の冷酷な顔。
感情を殺し、神の調和という名の偽善で民衆を縛り付け、世界の文化の頂点に君臨しているあの老人たち。
「この程度の小金で満足して、歓楽街の成金として収まる気なんて毛頭ないわ。……帝都中の金を毟り取って、劇場を買い叩き、街中の耳を私の歌で奪い尽くす。あいつらが築き上げた退屈な秩序を、根底から覆してやるまでは、一銭の金だろうと私を満足させることはできないのよ」
少女の細い背中から立ち上る、途方もない覇気。
その言葉に、ベルナールは背筋を冷たいものが駆け抜けるのを感じた。
金に目が眩んだ小娘などではない。
この少女は、帝国の千年の歴史が育んできた「文化」そのものを人質に取り、国家を丸ごと呑み干そうとしているのだ。
「……恐ろしい女だ」
ベルナールは煙草の煙を吐き出し、深く、深く頭を垂れた。
「分かったよ、ディーヴァ。俺の取り分の三割を除いた残りは、すべてアンタの軍資金として地下金庫に保管しておく。……次の弾薬の使い道は、アンタの指図通りにするぜ」
「頼むわ」
レアは短く応じ、部屋の扉へと向かった。
その足取りには、一分の揺らぎもなかった。
◇
〈アリーナ・ノワール〉のこけら落としから数日のあいだに、帝都の上流階級の社交界には、目に見えない「亀裂」が走り始めていた。
舞台は、第二区や第三区に立ち並ぶ、名門貴族たちの豪奢なサロン。
シャンデリアが眩い光を放ち、磨き上げられた寄木細工の床の上で、絹やレースのドレスを纏った淑女たちと、胸元に勲章を輝かせた紳士たちが、優雅に紅茶やシャンパンのグラスを傾けている。
室内には、聖歌庁が公認した室内楽団による、端正で無機質なハープシコードの調べが流れていた。感情の起伏を排し、誰もが穏やかに微笑み、天気の話や宮廷の形式的な噂話を囁き合う、退屈極まりない日常。
だが――その上品な仮面舞踏会の水面下で、奇妙な符牒が囁かれ始めていた。
「……ねえ、ヴァレンヌ伯爵夫人の夜会で、あの方が身につけていらした小箱、ご覧になった?」
「ええ。白磁に、銀の唐草模様の細工……」
「やはり、あの方も行かれたのね。……第五区の、あの『夜の帳』の奥へ」
扇の陰で交わされる、密やかな囁き声。
噂は、風よりも速く、毒のように貴族たちの耳朶を侵食していた。
――第五区の地下に、天国と地獄が同居する秘密の神殿がある。
――そこでは、誰もが銀の仮面を被り、名前を捨てて、剥き出しの獣になることが許される。
――舞台に立つ真紅の歌姫の第一声を聴いた瞬間、どんな気高き淑女も理性を焼き切られ、涙を流して足を踏み鳴らす。
最初は、眉唾物の都市伝説として笑い飛ばされていた。
下賤な歓楽街の吹き溜まりに、貴族が足を踏み入れるなどあり得ないと、誰もが表向きは蔑んでみせた。
だが、その噂を耳にした若き貴族や、窮屈な結婚生活に窒息しかけていた令嬢たちの胸には、抗いがたい棘となって突き刺さっていた。
そして――「あの仮面」の存在が、決定的な火をつけた。
ある夜の舞踏会で、近衛騎士団の若手将校が、胸ポケットからハンカチを取り出した際、誤って一枚の真鍮のメダルを床に落とした。
メダルに刻まれていたのは、酒杯の上で丸くなる黒猫と、銀の唐草模様。
〈アリーナ・ノワール〉の二階VIP席に入場した者だけに配られる、秘密の通行証。
それを見た周囲の若手貴族たちの目が、一瞬にして色を変えたのだ。
軽蔑ではない。
羨望と、焦燥。
「あいつは、すでにあの『夜の免罪符』を手に入れたのか」という、強烈な嫉妬。
昼間のサロンでは「あんな下層民の喚き声など」と眉をひそめてみせる貴族たちが、夜になると、己の従僕に金貨を握らせて第五区の裏路地へと走らせるようになった。
噂が噂を呼び、金に糸目をつけない貴族たちの間で、二階席のチケットと銀の仮面を持つことが、退屈な社交界における「最高級の裏のステータスシンボル」へと変貌していったのだ。
夜会は、目に見えて荒れ始めていた。
時計の針が午後九時を回る頃になると、先ほどまで談笑していた貴族たちが、揃いも揃って落ち着きを失い始める。
「急な頭痛が」「領地からの急報が」と、もっともらしい口実を並べ立て、馬車を呼んで夜会を中途退席する者が続出する。
そして彼らの馬車が向かう先は、例外なく――歓楽街の薄暗い袋小路、あの地下へと通じる通用門だった。
◇
そして、その異変は。
帝都の頂点に座し、すべての文化と精神を監視する「巨塔」の頂にも、確実に届きつつあった。
帝立聖楽院、中央大聖堂の最上階――聖歌庁筆頭審問官執務室。
天井まで届く重厚な本棚には、神聖なる典礼音楽の教理書と、異端審問の記録が整然と並んでいる。
ステンドグラスから差し込む月の光は青白く、暖炉の火すら小さく絞られたその部屋は、冬の霊廟のように冷え切っていた。
紫檀の豪奢な執務机の奥。
マクシミリアン・ド・ランカスター伯爵は、羽ペンを走らせる手を止め、冷ややかに目の前に立つ男を見上げた。
「……もう一度、言ってみたまえ」
マクシミリアンの声は、低く、乾いた氷のようだった。
机の前に直立不動で控えているのは、聖歌庁の典礼査察官――黒い法衣を纏った男だった。査察官は額に脂汗を滲ませながら、手元の羊皮紙を握りしめている。
「はっ……。今週に入り、第二区および第三区で開催された主要な貴族夜会において、異常な事態が頻発しております」
査察官は恐る恐る言葉を紡いだ。
「夜会の途中で、退出を申し出る貴族の数が急増しております。一昨夜のロシュフォール公爵邸の舞踏会では、主客である若手貴族の実に三分の一が、開宴からわずか一刻で姿を消しました。……昨夜のヴァレンヌ公爵邸のサロンでも同様です」
「理由は何だ」
マクシミリアンが冷たく問う。
「体調不良や私用を理由にしておりますが……査察局の調べによりますと、彼らの馬車はすべて、第五区――歓楽街の裏手へと向かっております」
「第五区だと?」
マクシミリアンの細い眉が、不快そうに跳ね上がった。
「あのような、泥水と悪徳にまみれた吹き溜まりに、帝国の中枢を担う貴族の子女たちが群がっているというのか。……一体、何が目的だ。闇賭博か? それとも違法な薬物か?」
「それが……」
査察官は言葉を濁し、視線を泳がせた。
「……音楽、でございます」
「何?」
「かつて官憲の手入れで閉鎖された地下闘技場の跡地に、無認可の巨大な見世物小屋が開場したとのこと。そこで……夜な夜な、仮面をつけた貴族たちを集め、公序良俗を著しく乱す禁忌の歌唱を聴かせていると」
査察官が震える手で差し出した報告書。
そこに記されていた単語を目にした瞬間――マクシミリアンの双眸の奥に、凍りつくような殺気が走った。
『――歌い手は、黒髪の若い女。自らをレア・ヴァーミリオンと名乗る』
『――その節回しは純正律を完全に逸脱し、聴く者の理性を狂わせる不浄の響きを持つ』
パキリ、と乾いた音が室内に響いた。
マクシミリアンが握りしめていた最高級の白鳥の羽ペンが、彼の指の力によってへし折れていた。
黒いインクが、羊皮紙の上に醜い染みを作って広がる。
「……レア・ヴィット」
マクシミリアンの唇から、呪詛のような呟きが漏れた。
忘れもしない。
大聖堂の卒業審査において、神の調和を冒涜し、悪魔の節回しを轟かせて自分を嘲笑った、あの煙突街のドブネズミ。
即日除籍とし、泥水の中へ叩き落として野垂れ死にさせたはずの小娘。
「死に損ないのネズミめが……。路地裏の溝を這い回るだけでは飽き足らず、歓楽街に巣食い、貴族の耳まで毒で汚そうというのか」
マクシミリアンは立ち上がった。
典礼服の裾が冷ややかに揺れ、彼の背後に巨大な影を落とす。
「典礼査察官」
「は、はっ!」
「第五区の治安を管轄する帝都警備隊に、正式な照会をかけよ。なぜあのような不浄の巣窟が放置されているのか、小隊長どもは何をしているのかと問い質せ」
マクシミリアンは折れた羽ペンを屑籠へと投げ捨て、窓の外――夜の帳に沈む帝都の街並みを見下ろした。
その瞳の奥には、教条主義の狂信者だけが持つ、冷酷無比な断罪の光が宿っていた。
「神聖なる帝国の秩序を乱す毒花は、根ごと引き抜いて焼き払わねばならん。……あの小娘の喉を、二度と音を立てられぬよう引き裂いてやる」
聖歌庁の巨大な影が、いま、歓楽街の闇へと向かって、音もなくその爪を伸ばし始めていた。




