第17話 仮面の中の共犯者
帝都第五区、歓楽街『夜の帷』の夜は、欺瞞と泥に塗れた欲望がもっとも華やかに花開く時間だ。
けばけばしいネオンのごとき魔導ガス灯が濡れた石畳を紫や紅に染め、安劇場の呼び込みと客引きの怒号、違法カジノの回転盤が刻む乾いたクリック音が路地に充満している。だが今夜、その歓楽街の路地裏深く、普段は人影の途絶えるはずの死角に、異様な人の奔流が渦巻いていた。
かつての地下闘技場――いまや〈アリーナ・ノワール〉と名を変えた巨大な地底の擂鉢へと通じる正面大階段。
そこには、開場の一刻前から、煙突街や港湾地区、中層の職人街から押し寄せた三百人を超える平民たちが、肩と肩をぶつけ合い、吐く息で白く濁った熱気の霧を作り出していた。
木綿の作業着、油の染みた前掛け、革のチョッキ。誰もが手の中に、なけなしの銀貨を一枚ずつ固く握りしめている。
銀貨一枚。下層の人間にとっては数日分のパンと酒に化ける大金だ。しかし、彼らの濁った瞳に迷いなど微塵もなかった。一度あの子の歌を耳にしてしまった魂は、その熱を再び浴びなければ凍えて死んでしまうという、飢えにも似た渇望に突き動かされていた。
「押すんじゃねえ、順番だ! 中へ入りゃあ全員見通せる擂鉢になってるんだ、慌てるな!」
入口の鉄格子を背にして、巨躯のマルゴ・デルーが鉄パイプを床に打ち鳴らしながら怒声を飛ばす。
階段を雪崩れ落ちていく男たち、女たち。
石造りの階段席を駆け下り、擂鉢の最底辺に設けられた広大なスタンディングエリアを瞬く間に埋め尽くしていく。
足音の地鳴り、興奮に震えるざわめき、換気口から吹き上がる煤煙の匂い。
かつて拳闘士が流した血の跡を覆い隠すように、三百人の体温が地底の空気を一気に煮沸させていく。
だが――その地獄の釜のような喧騒の真裏。
歓楽街の排水溝に面した、一般の地図には記載すらされていない袋小路の通用門では、まったく異なる種類の闇が蠢いていた。
カタ、カタ、カタ……。
車輪に油を差し、蹄鉄にフェルトを巻きつけた黒塗りの辻馬車が、音もなく狭い裏路地に滑り込んでくる。一台、また一台。
紋章を削り落とし、御者には目深にフードを被らせた、正体不明の馬車たち。
馬車の扉が静かに開くたび、中から降り立つのは、深い夜色のマントに身を包んだ男女だった。
裾から覗くのは、泥水など一度も踏んだことのない最高級の絹の靴、磨き上げられた仔牛革のブーツ。
そして――。
通用門の奥、薄暗いランプの光の下で控えていたベルナールの部下たちが、無言で銀のトレイを差し出す。
トレイの上に並べられているのは、白磁のように滑らかな白地に、細やかな銀の唐草模様が彫り込まれたベネチアンマスク。
顔の上半分を完全に覆い隠し、瞳の奥だけを覗かせる銀の仮面。
マントの人物たちは、誰一人として言葉を発しなかった。
金貨三枚――平民の半年分の給金に相当する黄金の重みをトレイの上に無造作に落とすと、迷うことなくその仮面を顔へとあてがい、後頭部で絹の紐を固く結び合わせる。
その瞬間、彼らは帝国の名門貴族でも、軍の高官でも、富豪の令息でもなくなった。
ただの、名前を奪われた「共犯者」へと変貌するのだ。
仮面をつけた影たちは、一階の平民フロアとは完全に遮断された専用の隠し階段を静かに上がり、二階の吹き抜け回廊へと吸い込まれていく。
回廊を覆う、二重の漆黒の紗幕。
その幕の隙間を潜り抜けた先にあるのは、真紅のビロードを敷き詰めた五十席のボックス席だった。
(……狂っている)
その最前列、中央寄りの特等席に身を沈めながら、ユーグ・アルマンは胸の中で激しく毒づいた。
彼もまた、今夜は紺青の軍服を着ていなかった。
仕立ての目立たない黒のウールコートを纏い、顔には銀の仮面をしっかりと装着している。
非番の夜。宿舎の机に手帳を置き、誰にも行き先を告げず、裏通りの闇に紛れてこの場所へと足を運んだ。
軍務に対する明らかな背信。秩序の番人であるべき警備隊の小隊長が、金貨三枚を叩いて違法劇場の特等席に座っているという、悪夢のような現実。
周囲を見渡せば、同じように仮面をつけた貴族とおぼしき男女が、息を潜めて座っていた。
誰も隣の客の顔を見ようとしない。
扇を広げて口元を隠す淑女。肘掛けに指を食い込ませて身じろぎもしない紳士。
互いに相手が社交界の誰であるかを察していながら、絶対にその名を呼んではならないという暗黙の共謀。
紗幕の隙間から階下を見下ろせば、一階の平民たちは地獄の亡者のように密集し、床を踏み鳴らして開演を待ち望んでいる。
あの下賤なドブネズミどもと同じ空間で、同じ熱気を吸い込んでいるという事実。
かつてのユーグであれば、生理的な嫌悪感で胃を痙攣させていたはずだった。
だが――仮面の下で、彼のヘーゼル色の瞳は、異様なまでの興奮に潤んでいた。
(顔を隠している……。誰も私を知らない。この暗闇の中では、私がアルマン家の次男であることも、帝国の軍人であることも、何の意味も持たないのだ……)
それは、身悶えするほどの背徳の安堵感だった。
重厚な名誉の鎖から解き放たれ、ただ一人の飢えた生き物としてここに存在できるという、底知れぬ免罪符。
――そして。
その二階回廊の最も奥、人目を避けるように柱の影に配置されたボックス席の片隅にも、ひとつの小さな影が縮こまっていた。
平民の粗末な外套を羽織り、フードを深く被ったその身体は、名門ヴァレンヌ公爵家の令嬢――クラリス・ド・ヴァレンヌだった。
彼女の顔にも、銀の仮面がしっかりと結びつけられている。
だが、その仮面の下で、白磁のような細い首筋は激しく波打ち、胸元を掻き抱く指先は小刻みに震えていた。
(本当に……来てしまった……)
聖楽院の寄宿舎を抜け出し、忠実な侍女の手引きで馬車を乗り継ぎ、この闇の底へと足を踏み入れた。
見つかれば破滅だ。公爵家の名誉は地に堕ち、マクシミリアン伯爵によって異端審問の地下牢へ叩き込まれるだろう。
喉が、ズキズキと痛む。
昼間、学院の礼拝堂で無理な高音を強いられた声帯は、いまも熱を持ち、微かな血の味を口内に漂わせていた。
だが、恐怖よりも、痛切な痛覚よりも――クラリスを支配していたのは、あの日大聖堂で聴いた「悪魔の揺らぎ」を、もう一度その肌に浴びたいという、狂気にも似た渇望だった。
彼女は手すりを両手で強く握りしめた。
木製の笠木が、彼女の細い指の力でミシリと音を立てる。
待っている。
あの少女が、この奈落の底に現れる瞬間を。
その時だった。
ふっ、と。
擂鉢の天井をかすかに照らしていた、数少ない真鍮ランプの火が一斉に落とされた。
完全な暗転。
一階の三百人の平民たちのざわめきが、ピシリと凍りつく。
二階の貴族たちの扇を揺らす音すら途絶え、巨大な地下空間から、一切の光と音が吸い取られた。
五百個の心臓が打つ鼓動だけが、暗闇の底で重なり合って微かな地鳴りを作る。
――カツン。
闇を裂いて、硬質な靴音が一つ、響いた。
カツン、カツン、カツン……。
ステージの袖から中央へと、迷いのない足取りが近づいてくる。
張り巡らされた松の無垢材が、その歩みの重みを正確に受け止める乾いた響き。
刹那――。
シュッ、と鋭い摩擦音とともに、ステージの真上から、一筋の光が真っ直ぐに舞台の中央を射抜いた。
ジュディットが調合した、煤の出ない特製の白熱ランプ。
その円形の光の輪の中に――彼女が立っていた。
「…………っ!」
二階の紗幕の奥で、無数の息を呑む音が同時に上がった。
ある貴族は扇を取り落とし、ある淑女は胸元に手を当てて硬直した。
そこに立っていたのは、煙突街の薄汚れた孤児ではなかった。
身に纏っているのは、深紅と漆黒のシルクベルベットで仕立てられた、息を呑むほどに前衛的で妖艶なドレス。
光を吸い込む夜色の身頃。
胸の下から横隔膜にかけて大胆に刻まれたスリットの隙間から、鮮烈な血の色の裏地が覗いている。
コルセットの締め付けを一切排したそのシルエットは、少女の引き締まった胸郭と肋骨の美しさをそのまま戦う武器として主張していた。
首元は大きく開かれ、華奢な鎖骨と、白く引き締まった喉仏が露わになっている。
膝上で短く裁断されたスカートの前裾から伸びる脚は、獲物を狙う牝豹のようにしなやかで、背後へと長く引かれた真紅のトレーンが、琥珀色の光を浴びて炎のように揺らめいていた。
レア・ヴァーミリオン。
闇の底に咲いた、一輪の猛毒の華。
彼女は一切の媚びを含まぬ冷徹な眼差しで、すり鉢の客席を、そして二階の紗幕の奥を、ゆっくりと見据えた。
その瞳に宿る尊大な光に射すくめられ、五百人の観客は、誰一人として瞬きすらできなかった。
ドォォォォンッ――!!
静寂を粉砕したのは、小型グランドピアノの低音部が叩き出した、地底を揺るがす不協和音だった。
ノアの指先が、鍵盤を殴りつけるように跳ね回る。
そして、それに呼応するように――ステージの背後、木製反響板の影から、かつてない重厚なリズムが炸裂した。
ドスッ、タアンッ! ドスッ、タアンッ!
下町の荒くれ者たちから集められた、急造のリズム隊。
太い皮を張った低音のバスドラムと、真鍮のシンバル、そして低く唸るウッドベースが、ノアのスウィングに絡みつき、心臓を直接鷲掴みにするような、暴力的なファンキー・ビートを叩き出し始めたのだ。
ズン、チャッ、ズン、チャッ――!
床が震える。
松板を通じて、一階の平民たちの足の裏へ、そして二階の石壁を通じて貴族たちの背骨へと、重低音の衝撃波が這い上がっていく。
教会の整然とした行進曲とは対極にある、腰を揺らし、理性を泥酔させる野生の脈動。
そのグルーヴの頂点で、レアが顎を上げた。
すぅっ――。
彼女の胸郭が開き、ドレスのスリットから真紅の布地が大きく広がる。
そして。
「――Da-ba-da, 'skat-n-shout, OH YEAH――!!」
鼓膜を劈くような、第一声。
それは言葉ですらなかった。
喉の奥で転がされた子音と母音の衝突――即興のスキャット。
ハスキーな唸りから、一気に天井のアーチを突き破るようなハイトーンへと駆け上がる、理性を焼き切る音の散弾銃。
声帯のエッジが擦れ合い、生々しい歪み(オーバードライブ)を伴ったその絶唱は、木製の反響板によって何倍にも増幅され、すり鉢状のホール全体へと雪崩れ込んだ。
「ひっ……!」
二階のボックス席で、誰かの悲鳴が上がった。
貴婦人たちの手から、豪奢な羽扇がポロポロと床へ転がり落ちていく。
防ぎようがなかった。
耳から入ったその声は、頭で考える暇すら与えず、彼女たちの胸骨を直接打ち抜き、肺の中の空気を強制的に吐き出させたのだ。
「――WELL, the night is black, but the fire is RED!!」
レアが靴底を高く振り上げ、ステージの松板を力任せに踏み抜いた。
ダンッッ!!
ストンプ。
ドレスのスリットが開き、跳ね上がった裾が真紅の軌跡を描く。
ドラムのビートとレアの足音が完全に重なり、ホール全体が激震する。
一階の平民たちが、一瞬にして爆発した。
「うおおおおおおおおっ!」
「レア! レアァッ!!」
三百人が一斉に飛び跳ね、拳を突き上げ、地鳴りのような歓声を上げる。
そして――何よりも劇的だったのは、二階の仮面席だった。
当初は、身分を気にして背筋を伸ばし、隣の客を警戒していたはずの貴族たちが。
レアの放つ、抗いがたい熱狂の奔流に晒された瞬間、彼らの中の「理性」という名の薄皮が、木っ端微塵に吹き飛んだのだ。
「あ……、ああっ……!」
最前列の紳士が、息を荒げながら立ち上がった。
正体を隠すための銀の仮面。
その仮面があるからこそ、誰も自分が誰であるかを知らない。
公爵家の面目も、教会の戒律も、ここには届かない。
その絶対的な匿名性が、彼らの心の奥底に眠っていた野生の衝動を、完全に解き放ってしまったのだ。
「素晴らしい……! 何という声だ……ッ!」
別の貴族が叫び、手すりをバンバンと叩いた。
隣の淑女は、涙で仮面を濡らしながら、コルセットで締め付けられた胸元をかきむしり、なりふり構わず歓声を上げている。
足を踏み鳴らす者。
燕尾服の襟元を引きちぎる者。
身分を捨て、理性を脱ぎ捨てた貴族たちが、一階の平民たちと何ら変わらぬ狂乱の獣となって、ステージ上の少女に向かって手を伸ばしていた。
チャリンッ! ジャララララッ!!
乾いた、しかし重厚な金属音が、二階の回廊からステージへと降り注ぎ始めた。
銅貨ではない。
銀貨ですらない。
仮面をつけた貴族たちが、財布の底から掴み出した本物の「金貨」を、雨のようにステージへと投げ落としているのだ。
光を浴びて黄金の軌跡を描き、円形ステージの松板の上で跳ね回る、無数の金貨。
一枚で平民が数ヶ月暮らせるその富の結晶が、ゴミ屑のように、ただ彼女の歌をもう一小節聴くためだけの代価として投げ捨てられていく。
ステージの中央で、レアは汗に濡れた前髪を振り乱しながら、全身でその黄金の雨を受け止めていた。
口元に、冷酷で、狂喜に満ちた笑みが浮かぶ。
見たか。
あのお上品な貴族どもが、仮面の下で醜く顔を歪め、私の足元に金を投げ打ってひれ伏している。
世界を支配しているのは、教会の神でも、貴族の血筋でもない。
この私の喉だ。
その熱狂の嵐の最中。
レアの鋭い視線が、二階の最前列――狂乱する紳士たちの間で、直立不動のまま息を呑んでいる、ひとつの仮面の男を捉えた。
ユーグ・アルマン。
彼は叫ぶことも、金を投げることもできず、ただ両手を手すりにかけたまま、金縛りに遭ったようにステージのレアを見つめていた。
仮面の目のスリットの奥で、ヘーゼル色の瞳が、熱病に冒されたように潤んでいる。
レアは歌いながら、その男に向かって、わずかに顎をしゃくって見せた。
(――また来たのね、私の騎士様)
言葉はなくとも、その視線だけで通じ合っていた。
ユーグの喉仏が、苦しげに上下する。彼はもう、この暗闇から逃れることなど一生できないのだ。
――そして。
レアの視線が、さらに奥の闇へと滑った。
二階回廊の最も端、柱の陰。
そこに、ひときわ小柄な、平民の外套を着た仮面の影があった。
「…………っ」
その少女は、手すりを両手で強く握りしめたまま、全身をガタガタと震わせていた。
フードの隙間から零れ落ちた、わずかなプラチナブロンドの髪。
手すりを掴む指先は白く鬱血し、その仮面の下から、大粒の涙が顎を伝って滴り落ちているのが、照明の反射で見えた。
声も出せず、拍手もできず、ただ圧倒的な絶唱の前に、自らの全存在を打ちのめされて震えている小鳥。
レアの胸の内で、冷ややかな、しかし確かな歓喜が跳ねた。
(……見つけたわよ、クラリス)
大聖堂で、自分を見下ろすよう教え込まれていた、首席候補の公爵令嬢。
あのお人形さんが、自ら泥の檻へと這い降りてきたのだ。
網には、すべてがかかった。
「――NOW SING WITH ME!! SCREAM YOUR SOUL OUT――!!」
レアの最後の一撃が放たれた。
五百人の絶叫が地下空間を埋め尽くし、〈アリーナ・ノワール〉は、帝都の歴史上かつてない熱狂の坩堝となって爆発した。
夜は、まだ始まったばかりだった。




