第30話 ルージュ座、開場
都市の境界線が、人間の熱量によって完全に融解していた。
第一区の白亜の高台から下町の泥の底へと続く、中央区を貫く幅二十間の大幹線道路。普段ならば、貴族の紋章を掲げた馬車が優雅に車輪を軋ませ、平民が歩道の端で頭を垂れて道を譲るだけの冷徹な階級道路が、今夜ばかりは身動き一つ取れない巨大な人間の河と化していた。
馬車の車列が百頭以上も連なり、蹄鉄が石畳を踏み鳴らす甲高い音が波のように重なる。御者たちが苛立ちのあまり鞭を鳴らすが、前方を埋め尽くす平民たちの黒々とした人の波は、一寸たりとも押し戻せない。
港湾の荷揚げ人夫、石炭掘り、織物工場の女工、中層の靴職人、仕立て屋の針子、小商人、そして変装した貴族の従僕たち。何千という人間が吐き出す熱い呼気が白く濁った霧となって夜気を満たし、中央高架橋の巨大な石造りのアーチを温めるほどだった。
群衆の視線の先――六本の硬質安山岩の巨柱に支えられた正面ファサード。
かつて三十年ものあいだ灰にまみれて打ち捨てられていた旧帝室小劇場の正面頭上に、漆黒の木地を真紅の炎の文字で切り裂いた看板が、真鍮の鋲を煌めかせながら威風堂々と掲げられていた。
――〈ルージュ座(Théâtre Rouge)〉。
その巨大な真紅の看板を照らし出すのは、下町の金工職人たちが夜を徹して組み上げた無数の魔導ガス灯だった。放たれる強烈な深紅の光が、劇場のファサードを夜空に浮かび上がらせ、まるであの石造りの城そのものが、帝都の心臓部に穿たれた燃え盛る傷口であるかのように錯覚させた。
「押すな! 順番を守れ!」
「一階スタンディングの当日券はすでに予定枚数を終了している! 列を崩すな!」
正面玄関の石段の上、怒声を張り上げていたのは、帝都警備隊の制服を身に纏った兵士たちだった。
だが、その隊列の先頭に立ち、抜身の指揮刀の鞘を地面に突き立てて群衆を統制していたのは――警備隊第3小隊長、ユーグ・アルマン子爵その人だった。
彼の紺青の詰襟軍服には銀の飾緒が凛と垂れ、ヘーゼル色の双眸は冷徹な指揮官の光を湛えている。表向きは「違法集会および群衆雪崩の警戒鎮圧任務」。上層部に対してはそう報告し、正規の警備部隊を配置していた。
だが、その実態は正反対だった。
ユーグは自らの職権を最大限に行使し、劇場の周囲に完璧な警備線を張り巡らせることで、競合する他の興行主の妨害工作や、聖歌庁の密偵による不当な立ち入りを完全に遮断していたのだ。
彼の軍服の内ポケットには、すでに最前列中央席の特製真鍮メダルが、皮膚を焦がすほどの熱を持って収められていた。
「小隊長殿、開場の時刻です!」
部下の伝令が駆け寄る。
ユーグは懐中時計の蓋を音もなく閉じ、低く、しかし通る声で命じた。
「大扉を開放せよ。……一人たりとも怪我人を出すな」
ギィィィィィッ――!!
三十年の封印を解かれた重厚な樫の木の大扉が、左右へと押し開かれた。
その瞬間、堰を切った濁流のように、群衆が歓声とともに赤い城の体内へと雪崩れ込んでいった。
◇
大扉をくぐり抜けた観客たちが最初に目にしたのは、息を呑むほどに前衛的で、暴力的なまでに美しい「真紅の小宇宙」だった。
「……な、何だ、ここは……」
港湾の屈強な荷揚げ人夫が、帽子を脱ぎ捨てて立ち尽くした。
壁面の隅々に至るまで張り巡らされた、最高級の真紅のシルクベルベット。
照明は豪奢なガラスのシャンデリアではない。ジュディット・モレルの設計により、真鍮の板を叩き出して作られた百数十基のブラケットランプが等間隔に配置され、鈍い黄金色の光が、真紅の布地の上に揺らめく影の綾を落としている。
一階フロアは、余計な椅子をすべて排除した五百人収容の広大なスタンディングエリア。松の無垢材が敷き詰められた床は、足を踏み鳴らせば腹の底へと重厚な振動を返すように計算され尽くしていた。
そして――頭上を見上げれば。
二階と三階に広がる馬蹄形のバルコニー席。
そこには、一階の喧騒から完全に視覚を遮断するように、漆黒の二重紗幕が張り巡らされていた。
裏口の専用通用門から、指紋照合メダルを使って極秘裏に入場した三百名の貴族たち。
白磁に銀の唐草模様を彫り込んだベネチアンマスクをつけた彼らは、紗幕の奥に身を沈め、身分を隠しながら、階下の平民たちの熱気を全身に浴びて息を殺していた。
平民の剥き出しの熱狂と、貴族の隠された背徳。
光輪地区の大聖堂では決して交わるはずのなかった二つの階級が、このひとつの劇場のなかで、完璧な調和をもって融合していた。
総収容人数、八百名。
満員札止め。空席など一席たりとも存在しない。
二階バルコニーの最前列、中央ボックス席の影。
濃灰色のウールコートを着たギルバート・ヴァレンヌは、銀縁眼鏡を押し上げながら、膝の上の手帳に最後の数字を書き留めていた。
『――開場完了。総入場者数:一階平民フロア五百二十名、二階・三階仮面指定席三百名。
入場料収入:銀貨五百二十枚、金貨九百枚。
初期投資回収率:初夜にして四割二分を達成。……帝国興行史上、最大規模の純利益を記録』
カリカリと走る万年筆の先が止まる。
ギルバートはパタンと手帳を閉じ、胸ポケットへと滑り込ませた。
その唇の端には、冷徹な数字の神に仕える官僚特有の、狂気じみた満足の笑みが浮かんでいた。
完璧だった。
ベルナールのような裏社会のダニに上前を撥ねられることもなく、すべての利益がレアの手元へと直結している。この城は、名実ともに自給自足の独立した要塞として完成したのだ。
その時。
ふっ、と。
天井の真鍮ランプの灯火が、機械的な制御によって一斉に絞られた。
完全なる暗転。
八百人のざわめきが、まるで巨大な刃物で一網打尽に切り落とされたかのように、一瞬で消滅した。
衣服の擦れる音ひとつない。
ただ、八百の心臓が打つ脈動と、八百の肺胞が吸い込む熱い湿気だけが、密閉された劇場の空間を極限まで圧縮していく。
――カツン。
暗闇の底を穿つ、硬質な靴音。
カツン、カツン、カツン……。
舞台袖から中央へと、迷いのない足取りが近づいてくる。
張り替えられたばかりの無垢板が、その歩みの重みを正確に受け止める乾いた響き。
刹那――。
バシュッッ!!
天井の天窓の直下に据え付けられた特製の白熱魔導灯が、轟音とともに点火された。
垂直に落ちる一筋の真紅のピンスポットライト。
その光の円環の真ん中に、彼女が立っていた。
「…………っ!」
二階の紗幕の奥で、三百人の貴族たちが同時に息を呑んだ。
一階の平民たちが、あまりの威容に胸を鷲掴みにされて言葉を失う。
そこに立っていたのは、もはや下町の歌姫などという生易しい存在ではなかった。
身に纏うのは、ジュディット・モレルが全霊を賭して縫い上げた、深紅と漆黒の最高傑作。
光を吸い込む夜色のベルベット。
胸の下から横隔膜、肋骨のラインにかけて大胆に刻まれたスリットからは、息を吸うたびに鮮血の裏地が妖艶に覗く。
コルセットの締め付けを一切排したそのシルエットは、少女の骨格の美しさと、引き締まった筋肉の躍動をそのまま戦う鎧として主張していた。
首元は大胆に開かれ、華奢な鎖骨と、白く引き締まった喉仏が露わになっている。
膝上で短く切り落とされた前裾から伸びる引き締まった脚、そして床の上へと長く引かれた真紅のトレーンが、スポットライトを浴びて生き物の炎のように揺らめいていた。
レア・ヴァーミリオン。
泥水の中から咲き誇り、自らの手で城を手に入れた、孤高のディーヴァ。
彼女はマイクスタンドも持たず、ただ円形ステージの中央に仁王立ちになり、八百の客席を、そして二階の紗幕の奥を、冷徹な黒い瞳で見据えた。
その双眸に宿る尊大な光に射すくめられ、客席の誰もが金縛りに遭っていた。
ドォォォォォンッッ!!
静寂を粉砕したのは、舞台奥のコンサートグランドピアノが叩き出した、地底を揺るがす巨大な不協和音だった。
ノア・カレヴィの両腕が、鍵盤の上を狂ったように跳ね回る。
そして――それに呼応するように、木製反響板の影から、重厚極まりないリズム隊が地鳴りを響かせた。
太い皮を張ったバスドラムが心臓を直接蹴り上げ、ウッドベースが低く唸りを上げ、ブラスのホーンセクションが鋭利な咆哮を空間に突き立てる。
ズン、チャッ、ズン、チャッ――!
床が激震する。
八百人の足の裏へ、そして石壁を通じて貴族たちの背骨へと、重低音の衝撃波が這い上がっていく。
教会の整然とした純正律とは対極にある、腰を揺らし、理性を泥酔させる野生のビート。
舞台袖の暗がり。
そこには、質素な黒いドレスを纏い、胸に手を当てて立ち尽くすクラリス・ド・ヴァレンヌの姿があった。
彼女の隣には、下町の女性たちで結成されたコーラス隊が並んでいる。
クラリスは、舞台中央のレアの背中を見つめ、誇らしげに唇を引き結んでいた。
自分の居場所は、あそこだ。
冷たい大聖堂の鳥籠ではなく、あの真紅の女王の背後こそが、自らの命を鳴らすための唯一の聖域。
そして――レアが、顎を跳ね上げた。
すぅっ――。
彼女の薄い胸郭が、極限まで開く。
ドレスのスリットが開き、真紅の布地が鮮血のように広がる。
彼女の喉仏が、大きく跳ね上がった。
「――LISTEN, YOU STONE WALLS!!」
大気が、物理的に爆発した。
「ッッ――!?」
八百人の鼓膜を、脳髄を、頭蓋骨を、目に見えない巨大な鉄槌が一撃で粉砕した。
音が、違っていた。
かつての〈黒猫座〉の狭い地下室の反響でもない。
〈アリーナ・ノワール〉の擂鉢の底に閉じ込められた重低音の唸りでもない。
地上にそびえる八百人収容の巨大な音響建築。
反響板と深紅のベルベット、そして十五メートルの吹き抜け天井によって極限まで増幅されたその絶唱は、もはや地底の呻きではなく――帝都の空を、雲を、大気そのものを真っ二つに切り裂いて響き渡る、天空の雷鳴だった。
「――I WAS BORN IN THE DUST, BUT I STAND IN THE RED!!」
レアが靴底を高く振り上げ、松の無垢板を力任せに踏み抜いた。
ダンッッ!!
ストンプ。
ドレスの真紅の裾が宙を舞い、鮮烈な軌跡を描く。
ドラムの打撃音と、少女の踏み鳴らした足音が完全に同期し、劇場全体が鐘の内側のように共振する。
舞台袖から、クラリスの澄み渡るソプラノが、そして女性コーラス隊の力強いゴスペル・ハーモニーが、レアの咆哮を包み込むように雪崩れ込んできた。
純正律の無機質な高音ではない。
レアから盗み取った正しい呼吸法によって、豊かな倍音と体温を宿したクラリスの美声が、泥臭いブルースのグルーヴと完璧に融合し、劇場の空間を極上の熱狂で満たしていく。
一階の五百人の平民たちが、一瞬にして爆発した。
「うおおおおおおおおっ!」
「レア! レア・ヴァーミリオンッ!!」
五百人が一斉に飛び跳ね、拳を突き上げ、地鳴りのような歓声を上げる。
そして――二階の仮面席。
紗幕の奥にいた三百人の貴族たちが、もはや身分を隠すことすら忘れ、総立ちになって手すりへと身を乗り出していた。
紳士たちが燕尾服の胸元を引きちぎって絶叫し、淑女たちが涙で銀の仮面を濡らしながら、手袋を脱ぎ捨てた素手で狂ったように拍手を打ち鳴らす。
最前列のユーグは、軍服の襟元を握りしめ、金縛りに遭ったようにステージの光を見つめていた。
ギルバートは、立ち上がり、満足げに微笑みながら、自らの手で惜しみない拍手を送っていた。
チャリンッ! ジャララララッ!!
金貨と銀貨の雨が、二階と三階の手すりを越えて、ステージの松板の上へと滝のように降り注ぐ。
その狂乱の嵐の真ん中で。
汗に濡れた前髪を振り乱し、真紅のスポットライトを全身に浴びながら、レア・ヴァーミリオンは歌い続けていた。
(聴きなさい、帝都)
彼女の胸の内で、傲慢極まりない凱歌が響いていた。
(これが、私の声よ。……誰の指図も受けず、誰の愛玩物にもならず、私の骨と肉体一つで手に入れた、生きた人間の産声よ!)
名実ともに、帝都の夜のカルチャーの支配者として君臨した瞬間。
八百人の絶叫が、天井の天窓を突き破り、夜の帝都の空へと解き放たれていく。
第2幕の、完全なる戴冠。
――だが。
◇
その熱狂の渦から遠く離れた、帝都第一区「光輪地区」の頂。
夜霧に濡れた冷たい大理石の回廊。
天空を突くようにそびえる帝立聖楽院の中央大聖堂、その最上階にあるバルコニーの欄干に、一人の男が立っていた。
純白の典礼服の上に、黒い審問官のマントを羽織った長身の影。
帝立聖楽院院長にして聖歌庁筆頭審問官、マクシミリアン・ド・ランカスター伯爵。
彼の細い指先には、真鍮の双眼鏡が握られていた。
双眼鏡のレンズの先――数キロメートル離れた中央高架橋の袂。
漆黒の夜空を不吉な深紅に染め上げる、あの〈ルージュ座〉の巨大な光。
そして、風に乗って微かに届いてくる、地鳴りのような群衆の歓声と、大地を震わせる野蛮な不協和音の残響。
「…………」
マクシミリアンは、無言のまま双眼鏡を下ろした。
その白皙の顔は、月の光を浴びて氷の彫刻のように青白く、血の気が失せていた。
彼の足元には、典礼査察局が提出したばかりの分厚い報告書が散らばっていた。
旧帝室小劇場の払い下げ記録。
出資者として名を連ねる名門貴族の令嬢たちの名簿。
そして――舞台の中央で、何千人もの民衆と貴族を熱狂させている、あの黒髪の少女の肖像画。
「……レア・ヴィット」
マクシミリアンの唇から、凍てつくような呪詛が漏れた。
指先が小刻みに震える。
屈辱。
嫌悪。
そして――自らが生涯を捧げて築き上げてきた「神の調和」という名の秩序が、泥水の中から這い上がってきたドブネズミ一匹の喉によって、根底から侵食されつつあることへの、底知れぬ恐怖。
「悪魔の毒花が……ついに、地上に根を張ったか」
マクシミリアンは足元の報告書を、磨き上げられた黒い革靴の踵で、力任せに踏みにじった。
羊皮紙が無残に引き裂かれ、夜風に舞い散る。
彼は冷酷な瞳を細め、赤く染まる夜空を睨みつけた。
その瞳の奥には、教条主義の狂信者だけが宿す、一切の妥協を排した殲滅の意志が燃え盛っていた。
「見逃しはせん。……もはや、法と神の鉄槌を下すほかない」
マクシミリアンは身を翻し、暗闇に沈む大聖堂の回廊へと歩み去った。
「典礼憲兵隊を総動員せよ。……あの不浄の城を、二度と音を立てられぬよう、灰燼に帰してやる」
真紅の城の開場。
それは同時に、帝国の巨大な宗教・文化権力との、逃れようのない全面戦争の火蓋が切って落とされた瞬間でもあった。




