第2話 悪魔の揺らぎ(ブルーノート)
大聖堂を満たすパイプオルガンの前奏は、数千本の鉛管を通じて吐き出される、寸分の狂いもないハ長調の主和音だった。
それは無風の湖面のように波立たず、澄み切った冬空のように冷涼で、人間という生々しい生き物が入り込む余地などどこにもない、完璧な幾何学模様。
オルガン奏者の指が鍵盤から離れ、余韻が石壁を伝って減衰していく。
次の一拍。
本来ならば、そこに落ちるべき音は決まっていた。
天上の玉座を仰ぎ見る、純白のソプラノ。澄み切った完全五度の跳躍。聖歌庁が「白銀の祈念歌」と名付け、帝国の民に神への恭順を強いるために定めた、無菌室の音符。
マクシミリアン伯爵が、冷徹な細い目をさらに細め、手元の名簿にペン先を当てた。
周囲に並ぶ貴族の生徒たちが、息を詰めて見守る。首席候補であるクラリス・ド・ヴァレンヌもまた、白磁のような首筋を硬直させ、斜め前に立つ平民の特待生の背中を見つめていた。
――レア・ヴィットの喉仏が、わずかに上下した。
開かれた唇から漏れ出たのは、祈りの言葉ではなかった。
吐息。
肺の最も深い、淀んだ底から引きずり出されたような、熱く、重く、湿り気を帯びた空気の塊。
「…………ああ、…………ん」
最初の一音は、音階にすら乗っていなかった。
それは言葉になる以前の呻きであり、眠りから覚めた獣が喉の奥を鳴らすような微かな低音のハミングだった。
だが、その濁った音が大聖堂の静謐に落ちた瞬間、空気がざらりと擦れ合った。清浄を誇る礼拝堂の空間に、一滴の黒いインクが落とされたかのように。
「な……?」
伴奏台に座るオルガン奏者が、怪訝そうに眉を跳ね上げた。
譜面と違う。入りが遅い。音程が定まっていない。
奏者は己のリズムを守るべく、第二小節の厳格な和音を鳴らそうと鍵盤に指を振り下ろした。
だが、その鍵盤が底を打つより疾く――レアの喉が、真の第一声を解き放った。
「――Hmmmm, Lord have mercy on my bones……」
低音から、一気にずり上がるように這い上がった節回し。
それは、教会の純正律が絶対に認めることのない、禁忌の音程だった。
短三度と長三度のあいだ。嬰記号でも変記号でも表記しきれない、わずかに半音下へと気怠くぶら下がる、濡れた音――ブルーノート。
ピシ、と音が立ちそうなほどの衝撃が、石造りの空間を駆け抜けた。
均整の取れた冷たい美しさを愛でていた貴族たちの耳朶に、泥にまみれた人間の素肌が直接叩きつけられたのだ。
綺麗に調律されたハープの弦を、油で汚れた指先で乱暴に引き絞ったような、不穏で、官能的で、どこまでも痛切な歪み。
「な、何だ、その節回しは……!?」
オルガン奏者の指がもつれ、不格好な不協和音を立てて止まった。
伴奏が途切れた。
しかし、伴奏が消えたことなど、歌っているレアにとっては小石が転がった程度のことに過ぎなかった。
(邪魔よ。――そんな冷たい笛の音、最初からいらない)
レアは目を閉じた。
譜面台など、もはや視界の片隅にもない。
彼女の脳裏に広がっていたのは、大聖堂の豪奢なステンドグラスではなく、生まれ故郷である煙突街の光景だった。
太陽の光すら遮る黒い煤煙。
石炭の粉塵で肺を病み、夜通し咳き込みながら毛布の端を握りしめていた母の痩せ細った指。
凍てつく冬の夜、暖炉に焚く薪すら買えず、飢えと寒さを紛らわせるために、路地裏の長屋で誰ともなく口ずさみ始めた労働歌。
運河で石炭船を引く男たちが、泥水を跳ね上げながら足を踏み鳴らし、重い荷に軋む背骨を支え合うために吐き出していた、地べたの祈り。
――神よ、救いたまえなどと、誰が祈るものか。
神など、煙突街の路地裏には一度たりとも降りてきやしなかった。
そこにいたのは、明日を生き延びるために、自らの肉体を擦り減らし、互いの体温を分け合って叫び続ける、生身の人間だけだ。
「――Got a heavy, heavy burden, down in the dirt……!」
レアの喉から、腹の底から突き上げるような地声の唸りが放たれた。
裏声を使った無機質なソプラノではない。
胸郭を、肋骨を、骨盤までもを響鳴板として使った、圧倒的な厚みを持つソウルの咆哮。
掠れたエッジボイスが混ざり、声帯が激しく擦れ合って生み出されるその音圧は、物理的な質量を伴って礼拝堂の空間を満たしていった。
ドォン、と重い音が響いた。
レアの履いた粗末な革靴の踵が、白亜の石畳を力強く踏み鳴らした音だ。
一拍、二拍。
彼女自身の肉体が刻む、心臓の鼓動よりも生々しいストンプ。
「あ……、あ……」
合唱団の最前列で、クラリス・ド・ヴァレンヌがよろめくように半歩後ずさった。
両手で、自らの喉元をぎゅっと掻き抱いている。
呼吸が、できない。
レアの歌声が放たれるたびに、大聖堂の空気が根こそぎ吸い取られていくような錯覚に襲われる。
それは、クラリスがこれまで「音楽」だと信じ込まされてきたすべての概念を、土足で踏み荒らし、粉々に粉砕する暴力だった。
狂っている。下品だ。教理に反している。
頭の片隅で、教え込まれた貴族の常識が警告を発している。だが――それ以上に、クラリスの全身の毛穴が開き、粟立っていた。
(なに、これ……? どうして、こんな……胸が、痛い……!?)
クラリスの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
悲しいのではない。悔しいのでもない。
完璧な淑女を演じるために、喉の激痛を隠して押し殺してきた「自分」という存在の芯を、レアの声が容赦なく鷲掴みにして揺さぶっているのだ。
自分は、あんな風に息をしたことがあっただろうか。
あんな風に、自らの痛みを、怒りを、生の執念を、世界のすべてに向けて叩きつけるように叫んだことがあっただろうか。
ない。一度たりとも。
彼女が歌ってきたのは、死人の歌だった。感情を去勢され、美しく飾り立てられただけの、中身のない抜け殻。
「ヒッ……!」
「な、何なんだ、この声は……!」
傍聴席に座っていた貴族の生徒たちの間から、悲鳴に近いざわめきが上がった。
ある者は耳を塞ごうとし、ある者は椅子から滑り落ちそうになりながら、金縛りに遭ったようにステージを見つめている。
不快なのではない。恐ろしいのだ。
理性を麻痺させ、これまで信じてきた「高貴な秩序」を根底から揺るがす、抗いがたい熱狂の奔流。
石畳を伝い、靴底を通じて、彼らの背骨へと直接レアの唸り声が這い上がってくる。全身の血液が、レアのリズムに合わせて脈動を始める。
大聖堂という、千年の歴史を持つ冷徹な石の鳥籠が、一人の少女の喉によって、いまや野生の熱狂が渦巻く奈落へと変貌していた。
レアは、歌っていた。
喉が熱い。胸が張り裂けそうだ。
だが、苦痛など微塵もなかった。
これだ。この感覚だ。
幼い頃、母の膝の上で聴いた、あの生々しい響き。
他人の顔色を窺い、飢えを恐れて頭を垂れていた日々の屈辱が、声の奔流となって口から吐き出されていく。
メロディはもはや既存の賛美歌の面影を残していなかった。
フレーズの終わりごとに、気怠く崩れ落ちるようなヴィブラート。かと思えば、次の瞬間には教会のドーム天井を突き破るような、圧倒的なハイトーンの絶叫へと駆け上がる。
ゴスペル。ソウル。人間の業と祈りが溶け合った、剥き出しの絶唱。
「――I’m gonna rise, gonna break these chains of stone……!」
最後のシャウトが放たれた。
神聖なる大聖堂のステンドグラスが、その音圧に共鳴してチリチリと微細な音を立てて震える。
レアは顎を上げ、天井のキリスト像を真っ直ぐに見据えたまま、すべての息を吐き尽くした。
――スゥッ。
歌が、終わった。
静寂が戻ってくる。
だが、それは先ほどまでの「神聖な静寂」ではなかった。
暴風雨が過ぎ去った後の荒野のような、熱を帯びた、重苦しく息苦しい沈黙。
誰も口を開けない。息をすることすら忘れ、数十人の貴族たちが、ただ壇上のレアを見つめて硬直していた。
レアの肩が、激しく上下している。
額には汗が滲み、黒髪のひと房が頬に張り付いていた。
息は荒く、喉の奥には血の味が微かに広がっている。
だが――彼女の双眸に宿っていたのは、追放への恐怖でも、犯してしまった過ちへの後悔でもなかった。
(……ああ)
胸の奥から、ふつふつと湧き上がってくるものがあった。
それは、笑い出しそうになるほどの全能感。
見たか。
気取った貴族どもが、神の調和とやらを盲信するエリートたちが、私の声一つで息を呑み、怯え、涙を流している。
私の喉は、こいつらの退屈な世界を、たった一曲で粉々に引き裂くことができるのだ。
生存のために媚び諂っていた三年間が、あまりにも下らなく思えた。
恐怖など、最初から抱く必要はなかった。
力を持っているのは、あちら側ではない。
この喉を持ち、この魂を鳴らすことができる――私の方なのだから。
その沈黙を、激しい破壊音が打ち破った。
バァンッッ!!
審査員席の中央で、紫檀の分厚い机が跳ね上がるほどの勢いで叩かれた。
立ち上がったのは、マクシミリアン伯爵だった。
その顔は、日頃の冷徹な仮面をかなぐり捨て、怒りと屈辱で土気色に染まり、激しく引き攣っていた。
「え、演奏を止めろと言ったはずだ……! 貴様、貴様ァッ!!」
マクシミリアンの細い指が、震えながらレアを指弾する。
その声は怒りのあまり裏返り、普段の高雅な威厳など見る影もない。
「何という不浄……! 何というおぞましい醜悪さだ! 神聖なる大聖堂で、あのような情欲を煽る下品な節回しを晒すとは……! 音を揺らし、調和を乱し、獣のような唸り声を上げるなど、断じて音楽ではない!」
マクシミリアンは激しく息を乱しながら、傍聴席の生徒たちを見回した。
生徒たちは彼の怒声に怯え、身を縮めている。しかし、その瞳の奥には、まだレアの歌声から醒めきらない異様な光が燻っていた。それを敏感に察知したマクシミリアンは、さらに激昂し、唾を飛ばした。
「理性を狂わせ、神への敬虔を忘れさせる……あれは悪魔の節回しだ! 人間を畜生へと堕落させる、呪われた不協和音だ! このようなものを我が院の卒業公演で響かせることなど、断じて許されるはずがない!」
罵詈雑言の嵐。
聖歌庁の威信を笠に着た、絶対的な断罪。
かつてのレアであれば、この言葉の前に平伏し、許しを乞うていたかもしれない。
だが、今のレアは、乱れた呼吸を整えながら、マクシミリアンを冷ややかに見据え返していた。
その眼差しに、一欠片の揺らぎもない。
むしろ、醜く取り乱す男を憐れむような、冷酷な光すら宿している。
その態度が、マクシミリアンの最後の理性を焼き切った。
「レア・ヴィット! 我が院は寛大にも、泥水で育った貴様に学問の機会を与えてやった! だが、所詮は貧民街のドブネズミか……! どれほど白銀の衣を着せようと、その身に流れる下賤な血までは洗い流せぬと見える!」
マクシミリアンは名簿を乱暴に引き裂くと、床へと叩きつけた。
羊皮紙が無惨に散らばる。
「貴様のような者が、神聖なる帝国の音楽を汚すことは万死に値する! 貴様を即日、帝立聖楽院より除籍とする! 身分証を没収し、二度とこの敷地に足を踏み入れることを禁ずる! 失せろ! 泥の街へ戻り、野垂れ死ぬがいい!」
追放宣告。
三年間の努力、首席としての未来、宮廷への推薦――そのすべてが、一瞬にして露と消えた瞬間だった。
堂内に、息を呑む気配が広がる。
誰もがレアの絶望を予想した。膝から崩れ落ち、泣き叫び、許しを請う姿を思い浮かべた。
しかし。
レア・ヴィットは、動かなかった。
崩れ落ちるどころか、その口元に、フッと小さく、冷笑が浮かんだのだ。
「……悪魔の節回し、ですか」
静かに発せられたレアの声は、マクシミリアンの怒声よりも遥かに通り、大聖堂の隅々まで染み渡った。
マクシミリアンが息を詰める。
「ええ、結構です。閣下の仰る通り、私の歌は神様のためのものじゃありませんから」
レアは顎を上げ、堂々と胸を張った。
「生きている人間のための歌です。――あんたたちの薄っぺらな額縁には、最初から収まる器じゃなかったのよ」
「き、貴様……っ!」
「さようなら、院長閣下。どうぞその冷たい墓場で、死人の歌を永久に数え続けていらしてください」
レアは踵を返した。
一礼すらしない。
擦り切れた制服の裾を翻し、白亜の通路を堂々と歩き始める。
その足取りには、追放者の惨めさなど微塵もなかった。まるで、窮屈な鳥籠の扉を自ら蹴破り、大空へと飛び立つ大鷲のような傲慢な威厳。
その歩みの途中、レアの視線が、合唱団の列で立ち尽くすクラリスと交錯した。
クラリスは、両手で胸元を押さえたまま、濡れた瞳でレアを見つめていた。
その瞳に宿っていたのは、軽蔑ではなかった。
恐怖。そして――自分には決して手の届かない「絶対的な自由」を見せつけられた者だけが抱く、狂おしいほどの羨望。
声帯を軋ませ、人形のように生きる公爵令嬢の魂が、レアの背中に向かって無言の救いを求めて叫んでいるようだった。
レアは、クラリスに対して憐れみの色を見せることはしなかった。
ただ、嘲るような、挑発するような視線を一瞬だけ投げかけ、そのまま前を向く。
(欲しければ、奪いに来なさい。お人形さん)
ドン、と重い音を立てて、大聖堂の正面扉が開け放たれる。
外には、鉛色の雲が垂れ込める帝都の空。
冷たい風が吹き込み、レアの黒髪を乱暴に掻き揚げた。
背後から、マクシミリアンの「衛兵を呼べ! 叩き出せ!」という狂乱の叫び声が追いかけてくる。
だが、その声はもう、レアの耳には届いていなかった。
石造りの階段を、一歩、また一歩と降りていく。
胸の中には、燃え盛るような火塊があった。
すべてを失った。身分も、肩書も、明日のパンすらも。
だが――自らの喉という、世界で唯一無二の武器を取り戻した。
冷たい雨の粒が、頬を叩き始めた。
レア・ヴィットは、雨に煙る帝都の街並み、その最下層に広がる煤煙の街を見下ろし、不敵に喉を鳴らした。




