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第1話 石造りの鳥籠

石を穿ち、天を突くように築かれた大聖堂の空気は、春先だというのに冬の湖底のように冷え切っていた。


尖頭アーチの窓を彩るステンドグラスからは、七色の光が差し込んでいる。だが、その光に温もりなど欠片もない。埃一つ落ちることを許さぬ清廉潔白な白亜の床に、幾何学模様の冷ややかな影を落としているだけだ。

ここはオルレアン帝立聖楽院、中央礼拝堂。

帝国の精神を司る聖歌庁の膝元にして、大陸全土から選りすぐられた貴族の俊英たちが集う、格式と伝統の総本山である。


堂内に満ちているのは、無機質で、寸分の狂いもない合唱の調べだった。


――『白銀の祈念歌』。

聖歌庁が定めた純正律に基づく、神への絶対的な服従を誓う典礼曲。

倍音の濁りすら徹底的に排除され、個々の歌い手の体温や感情、息遣いの一切を削ぎ落とした旋律。それは音楽というよりも、冷徹な数式で組み上げられた氷の彫刻に近かった。喜びもなければ、悲哀もない。ただ「神の調和」という名の秩序を模倣するためだけに編まれた、沈黙よりも重苦しい無音の延長線。


その合唱の最前列中央で、ソプラノの主旋律を執っているのは、クラリス・ド・ヴァレンヌだった。

名門ヴァレンヌ公爵家の直系であり、聖楽院の歴史において「十年に一人の神童」と持て囃される首席候補。

プラチナブロンドの髪を完璧な夜会巻きに結い上げ、背筋を定規で引いたように伸ばした彼女の横顔は、陶磁器の人形のように美しい。その唇から紡ぎ出される高音は澄み渡り、教会の天井高くへと吸い込まれていく。


だが――そのすぐ斜め後ろ、アルトの列の端に立つレア・ヴィットの耳は、欺けなかった。


(……喉が、鳴いている)


レアは顎を引き、感情を殺した無表情の仮面を貼り付けたまま、クラリスの喉仏のわずかな震えを見つめていた。

常人の耳には「天上の響き」としか聴こえない完璧な純正律。しかし、その純白のヴェールの下で、声帯は悲鳴を上げていた。感情を殺し、息の自然な対流を押し殺し、ただ機械のように一定の周波数を保ち続ける不自然な発声。首筋に浮き出た細い青筋が、限界に近い緊張を物語っている。


譜面通りの最後の長音(ロングトーン)が、礼拝堂の石壁に吸い込まれるように消えた。

静寂。

咳払い一つ許されない静寂のなかで、クラリスが小さく胸元を押さえたのを、レアは見逃さなかった。

薄い唇が微かに震え、彼女の喉から、押し殺した乾いた咳が零れ落ちる。


「……ゴホッ、……ッ」


扇を広げたような微かな衣服の擦れ音とともに、審査員席の空気がピシリと凍りついた。

壇上に据えられた豪奢な紫檀の長机。そこに並ぶ十数名の審査員たちの中央で、一人の男が冷ややかに眼鏡のブリッジを押し上げた。


帝立聖楽院院長にして、聖歌庁筆頭審問官――マクシミリアン・ド・ランカスター伯爵。


銀色に染まり始めた髪を完璧に撫でつけ、黒と銀の典礼服に身を包んだ男だ。その双眸は、慈悲深い聖職者のそれではなく、異端者を処刑台へ送る冷酷な執行官の光を宿していた。


「……ヴァレンヌ嬢」

マクシミリアンの低く乾いた声が、静寂を切り裂いた。

「音程、純正律の保持、神への恭順。技術的には及第点だ。だが、最後の息の乱れは何だね。祈りの場に、肉体の生々しい雑音を持ち込むことは許されない。調和の美とは、不浄なる人間性を削ぎ落とした先にあるものだと、日頃から教えているはずだが」


「……申し訳、ございません。院長閣下」

クラリスは深く頭を垂れた。その青白い指先が、ドレスの襞を痛いほど握りしめている。

名門の令嬢として、完璧な淑女として育てられた彼女にとって、この叱責は全人格の否定にも等しい屈辱だったろう。だが、反論など許されない。ここではマクシミリアンの言葉こそが教理であり、絶対の法なのだから。


「よろしい。合唱団員は自席へ戻りたまえ」

マクシミリアンが手元の羊皮紙の分厚い名簿に羽ペンを走らせる。カリカリという硬い筆音が、広い堂内に響き渡る。

生徒たちが一糸乱れぬ所作で一礼し、ひな壇へと下がっていく。

その列の最後尾、粗末な制服の裾を揺らしながら歩くレアの背中に、マクシミリアンの冷淡な声が突き刺さった。


「――待ちなさい。特待生レア・ヴィット」


レアの足が止まった。

周囲の貴族の子女たちが、息を呑んで視線を交わし合う。侮蔑、好奇、そして憐憫。あらゆる色の視線が、針のようにレアの背中に突き刺さる。


「これより、卒業記念公演の単独審査を行う。前へ」


「はい、閣下」

レアは静かに振り返り、歩み出た。

床を踏む革靴の音が、硬く乾いた音を立てる。

彼女が纏っているのは、他の生徒たちのような絹混の上等な制服ではない。支給品として使い古され、幾度も繕われた毛織りの黒いワンピース。袖口は擦り切れ、裾は短くなっていたが、その背筋だけは誰よりも真っ直ぐに伸びていた。


審査台の前に立ち、無言で一礼する。

マクシミリアンは、手元の書類から視線を上げ、値踏みするようにレアの全身を上から下へと舐め回した。その瞳の底にあるのは、貧民街のドブネズミを見るような、隠しようもない嫌悪と蔑みだ。


「レア・ヴィット。煙突街の生まれでありながら、特待生選抜という特例をもって我が院の門を潜って三年。実技の数値だけを見れば、貴族の生徒たちを凌駕する成績を収めているようだが……」


マクシミリアンは書類を机に放り出すと、指を組んで冷笑を浮かべた。


「下層の出でありながら、よくぞ我が院の規律を学んだものだ。だが、泥水で育った獣が、どれほど磨き上げられた器の真似事をしようと、その本質まで神聖なものに成り代われるわけではない。……わかるかね?」


堂内の空気が、さらに一段階冷え込む。

傍聴席に座る貴族の生徒たちの間から、微かな忍び笑いが漏れた。

「身の程知らずの特待生」「所詮は煙突掃除の娘」――口には出さずとも、その視線が雄弁に語っている。


レアの胃の腑の底で、重く黒い鉛のような塊が蠢いた。


(……知っているわよ)


爪が手のひらに食い込む。

煙突街。帝都の最下層、陽の光すら届かないすり鉢状の吹き溜まり。

石炭の煙と下水の饐えた匂いが充満し、冬になれば路地裏で凍死者が転がる街。そこで生まれ育ったレアにとって、この聖楽院の特待生枠は、餓死を免れるための唯一の脱出口だった。

生き延びるために、母の形見の泥臭い労働歌を封印した。

生き延びるために、貴族たちの冷笑に耐え、彼らの好む無機質で無味乾燥な「死人の歌」を完璧に模倣してきた。

拍子を崩さず、音程を揺らさず、感情を殺して、ただ譜面通りの音符を正確に並べる機械。そうして手に入れた首席の座。ここで認められ、宮廷聖歌隊への推薦を勝ち取らなければ、明日には再びあの泥水の中へ逆戻りだ。


「課題曲は合唱と同じく『白銀の祈念歌』だ。お前の独唱によって、この三年間で培った恭順の成果を証明してみせなさい」


マクシミリアンが顎で合図を送ると、脇に控えていた伴奏者がパイプオルガンの鍵盤へと指を乗せた。


譜面台の上に置かれた、一枚の楽譜。

そこに並ぶ均整の取れた音符の列を見つめた瞬間――レアの喉が、激しい拒絶反応を起こした。


息が、吸えない。


まるで、冷たい鉛の枷を喉首に嵌められたような息苦しさ。

胸郭が強張る。肋骨の内側で、何かが激しく暴れていた。

それは、飢えに震えながら死んでいった母が、最期の夜に掠れた声で口ずさんでいた泥まみれのブルースの記憶だった。

港湾で重い荷を担ぐ男たちが、汗を飛び散らせながら足を踏み鳴らして歌っていた、生の執念を剥き出しにしたリズムだった。


(ここで歌えば、生き残れる。この譜面通りに、感情を殺して、冷たい音を並べれば……)


理性がそう囁く。生存本能が、頭を垂れろと命じる。

だが、その冷たい譜面を見つめれば見つめるほど、レアの全身の血が逆流するように沸騰していった。


(――こんな死人の歌を歌うために、私は生き延びてきたんじゃない)


音楽とは、神に怯えて縮こまるための祈祷文なのか?

歌とは、貴族どもが自らの退屈を紛らわせるための、無菌室の飾り物なのか?

違う。

歌とは、腹の底から湧き上がる血の叫びだ。生きていることの痛覚であり、理不尽に踏みにじられた者が、それでも立ち上がるために喉を震わせる咆哮のはずだ。


「どうした、ヴィット。前奏が始まるぞ」

マクシミリアンの苛立ちを含んだ声が響く。


パイプオルガンが、荘厳で冷ややかな主和音を奏で始めた。

神聖なる調和を促す、狂いのない純正律の前奏。

生徒たちが息を呑み、クラリスが痛ましげな瞳でレアを見つめている。


レアは、目を閉じた。

深く、深く、肺の底の底まで、大聖堂の冷たい空気を吸い込む。

肺胞が張り裂けんばかりに満たされた空気が、彼女の骨を、血を、そして三年間押し殺し続けてきた野生の魂を震わせる。


目を開けた時、レアの瞳の奥にあった卑屈な影は、完全に消え去っていた。


彼女の口唇が、静かに開かれる。

そこに置かれた譜面など、もはやその視界のどこにも映っていなかった。

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