第5話「思い出の欠片」
——本当は、この世界へ逃げてきたんですの。
思いもよらぬ言葉に、あなたは頭を打たれたような衝撃を受けた。
「エレノア……」
すぐには返す言葉が見つからなかった。
逃げるなんて無責任だと責めることも、そんな役目は捨ててしまえばいいと、上辺だけの励ましの言葉をかけることも簡単だろう。
けれどそれはきっと——。
フィナンツェという国も、女王として生きてきたエレノアの覚悟も、見ないふりをすることになる。
夕闇の中で、エレノアは俯いていた。
つい先ほどまであなたにすがっていた小さな手は、いまはきゅっと握りしめられている。
「……逃げたって、いいんじゃないかな」
ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
エレノアが顔を上げる。
「ずっと逃げ続けることはできないかもしれない。でも、苦しくなったときくらい、少し距離をとってもいいと思う」
「だけど……私は女王ですもの」
「女王だって、怖いものは怖いよね?」
エレノアはハッと目を見開いた。
「嫌なことを嫌だと思うのは、悪いことじゃないよ」
あなたは、言葉を選びながら続けた。
「少なくとも、自分の気持ちまでなかったことにしなくても……いいんじゃないかな」
「私の、気持ち……」
確かめるように呟いて、エレノアは胸元へ手を当てた。
しばらく考え込んだあと、その表情にかすかな微笑みが浮かんだ。
「あなたは、不思議な方ですわね」
「そうかな?」
「ええ。私にそんなことを仰る方は、今まで誰もいませんでしたもの」
エレノアは目元に残っていた涙を指先で拭った。
そして、少し照れくさそうに笑う。
「この世界へ来て、よかったですわ」
その笑顔を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
なぜそんな気持ちになったのかは、自分でも分からない。
ただ、これからエレノアが故郷へ帰り、顔も知らない誰かと結婚するのだと考えると、何か大切なものが手の届かないところへ行ってしまうような気がした。
「エレノアってさ……」
あなたは、口にしかけた言葉を一度飲み込んだ。
聞いてどうするのだろう。
自分は、この世界の人間ですらないのに。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「好きな人はいないの?」
エレノアの肩が、小さく揺れた。
ゆっくりと顔を上げ、大きな栗色の瞳があなたを捉える。
ほんの一瞬。
何かを伝えたそうに、エレノアの唇がわずかに開いた。
しかし、彼女は言葉を押し殺すようにうつむくと、そっと視線を逸らして林の向こうの夕空を見つめた。
「——いませんわ」
その声は、風に消えてしまいそうなほどに小さかった。
「そっか」
それ以上、あなたは何も聞けなかった。
エレノアも何も話さない。
静かになった林の中を、二人は再び歩き始めた。
先ほどまでつながれていた二人の手が、再び触れ合うことはなかった。
* * *
林を抜けるころには、夕日はほぼ山の向こうへ沈んでいた。
空の端に淡く残った光が、遠い山々の輪郭を紫色に染めている。
その先にあったのは、深い闇に包まれた湖だった。
「さあ、着きましたわ」
エレノアが足を止めた。
湖畔には古びた木の桟橋があり、水面へ向かって細く延びていた。
それ以外には何もない。
街の明かりも、人の姿も見えなかった。
「ここが、とっておきの場所?」
「ええ」
エレノアは、自信ありげにうなずいた。
あなたは暗い湖を見渡した。
「真っ暗で何も見えないけど……」
「もう少しだけ、お待ちになって」
そう言って、エレノアは桟橋の先へ歩いていった。
小さな背中を追って、あなたも慎重に古い板を軋ませながら進んだ。
桟橋の端に着き、二人が並んで腰を下ろすと、辺りはすっかり夜の気配に包まれた。
遠くで、かすかに虫の鳴く音が聞こえる。
「あなた、靴をお脱ぎになって」
「えっ、こう?」
「そう、そして……」
エレノアも同じように靴を脱ぐと、白く細い足先をそっと湖に浸した。
「……冷たいっ」
エレノアは、肩をすくめて笑った。
あなたも彼女に習って桟橋の下に足を垂らすと、冷たい水がつま先を優しく撫でた。
こんなふうに自然の中でくつろぐなんて、子どもの頃以来だ。
しばらくして、暗闇に目が慣れ始めた。
そのとき——。
湖畔の草むらに、小さな光が浮かんだ。
ひとつ。
また、ひとつ。
淡い光は、呼び合うようにゆっくりと明滅していた。
「あれは……」
「蛍ですわ」
エレノアが囁いた。
気がつけば、数えきれないほどの蛍が二人の周りを飛び交っていた。
黄金色の光が水辺の草花を照らし、夜露をまとった花びらが宝石のようにきらめいている。
一匹の蛍が、エレノアの差し出した指先に留まった。
小さな光に照らされた横顔は、どこか嬉しそうだった。
「きれいだね」
「まだですわ」
「え?」
エレノアは立ち上がると、湖の彼方へ腕を伸ばした。
「ほら、ご覧くださいませ」
その指先を追って、あなたは顔を上げた。
そして、息を呑んだ。
藍色の夜空を埋め尽くす、無数の星。
一つひとつの光は小さくても、どれもまばゆいほどに輝いていた。
そして空の端から端まで、白銀の天の川が大きな弧を描いている。
けれど、本当に驚いたのは、その下だった。
風の止んだ湖は、磨き上げられた鏡のように静まり返っていた。
その水面に、もう一つの星空が映っている。
星も、天の川も、山々の影も。
すべてが逆さまになって、湖の中に浮かんでいた。
空と水面の境界は、もうわからない。
頭上にも、足元にも、果てしない宇宙が広がっている。
その真ん中に、あなたとエレノアだけが浮かんでいた。
言葉を失ったまま、あなたはその光景を見つめ続けた。
「ここは、私がこの世界で見つけた、一番大切な場所ですの」
隣からエレノアの声が聞こえた。
「つらいことがあったときや、故郷へ帰るのが怖くなったときは、いつも一人でここへ来ましたわ」
「一人で?」
「ええ」
エレノアは星空を見上げたまま、静かに微笑んだ。
「誰かと一緒に来たのは、今日が初めてですのよ」
胸の奥が、また小さく痛んだ。
けれど今は、その理由を確かめようとは思わなかった。
「エレノアが見せたかった素敵なものって、これ?」
そう尋ねると、彼女はあなたを見た。
それから、ゆっくりとうなずく。
「この景色を、あなたと一緒に見たかったんですの」
蛍の光が、エレノアの栗色の瞳に映っていた。
あなたはもう一度、湖へ目を向ける。
この世界が夢なのか、それとも本当にどこかに存在する場所なのかは分からない。
けれど、いま見ている景色だけは忘れないだろう。
女王と呼ばれる小さな少女が、初めて自分を連れてきてくれた場所。
二人で見上げた星空。
二人の間を静かに飛び交う、無数の蛍。
それはきっと、これから先も消えることのない、大切な思い出になる。
「ねえ、あなた」
エレノアが、こちらへ向き直った。
そして、あなたの前へそっと手を差し出す。
「私に勝ったごほうびをあげますわ」
「もう、もらったよ」
「え?」
「こんなにきれいな景色を見せてもらったじゃない」
エレノアは目を丸くした。
それから、花が咲くように笑った。
「ふふ。それでは、これはもう一つのごほうびですわね」
エレノアは目を瞑ると、胸の前で手を組んだ。
すると——。
エレノアの胸の辺りで、うっすらと淡い光の球が生まれた。
そしてゆっくりと花が開くように手のひらを広げると、その上で光の球は、次第に大きく、明るさを増していった。
「これは……?」
あなたが覗き込むと、光の中に見覚えのある景色が浮かび上がってきた。
草原で四人に囲まれ、目を覚ました瞬間。
四人と競ったタイピングバトル。
子どもたちに囲まれて過ごした、学校でのひととき。
そして——。
星空を映した湖のほとりで、並んで座るあなたとエレノア。
「これは『思い出の欠片』ですわ」
エレノアは、光の玉を見つめながら言った。
「大切な思い出が生まれたとき、それをいつまでも残しておくために現れるんですのよ」
「それじゃあ、これは……」
「今日という日の、私たちの思い出ですわ」
私たち。
その言葉が、胸の奥に温かく広がっていく。
あなたは、エレノアの手の上で輝く『思い出の欠片』へ指を伸ばした。
触れようとした、その瞬間——。
光の玉が、ひときわ大きく輝いた。
「えっ?」
眩い光が弾け、湖も、蛍も、星空も、一瞬にして明るく染まった。
光は渦を巻きながら、あなたの身体を包み込んでいく。
「こ、これは……!?」




