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第8話

夜。


部屋の中は静まり返っていた。


カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、かすかに輪郭を浮かび上がらせている。


ベッドの上。


規則正しい呼吸。


――恵が、眠っている。


香は、その隣に腰を下ろし、しばらく何も言わずに見つめていた。


無防備な寝顔。


何も知らないままの表情。


それを確かめるように、ゆっくりと指を伸ばす。


触れる直前で、一度止まる。


そして。


そっと、髪に触れた。


「……やっと、戻ってきたね」


小さく、呟く。


その声は、誰にも届かない。



――昔。


まだ、何も壊れていなかった頃。


「めぐみー! あそぼー!」


笑いながら駆け寄る、小さな女の子。


その後ろを、少しだけ困ったような顔で追いかける少年。


「走るなって、危ないだろ」


「だいじょうぶー!」


そして。


――転ぶ。


「いたっ……」


涙が浮かぶ。


ぐっと堪えようとするが、うまくいかない。


そんな時。


差し出された手。


「大丈夫?」


優しい声。


泣くのを我慢していたはずなのに。


その一言で、全部が崩れた。


「……うん」


小さく頷く。


手を取る。


引き上げられる。


それだけで。


なぜか、安心できた。


――いつも、そうだった。



でも。


ある日。


その「いつも」は、壊れた。


壁の向こうから聞こえる怒鳴り声。


割れる音。


泣き声。


「なんでお前は――!」


「もうやめて……!」


耳を塞いでも、消えない。


体が震える。


逃げ場がない。


その時。


香は、学んだ。


(優しい人は、裏切る)


最初は優しかった。


でも、最後には壊した。


だから。


(誰も信じない)


そう決めた。


信じるから、壊れる。


期待するから、裏切られる。


なら最初から――


信じなければいい。



――それなのに。


「香、大丈夫か?」


あの日。


変わらず声をかけてきたのは。


恵だった。


何も知らないはずなのに。


何も変わっていない顔で。


ただ、手を伸ばしてきた。


(……なんで)


理解できなかった。


(なんで、この人は変わらないの?)


怖かった。


信じてはいけない。


そう決めたはずなのに。


「ねぇ、めぐみ」


気づけば、口にしていた。


「ずっと一緒にいてくれる?」


子供の約束。


何の保証もない言葉。


それでも。


「うん」


迷いのない返事。


その一言で。


何かが、決まった。



――現実。


香は、ゆっくりと息を吐く。


目の前には、眠っている恵。


あの頃と同じ顔。


変わっていない。


何も。


何一つ。


「……約束、覚えてる?」


答えは返ってこない。


分かっている。


それでも、問いかける。


その手を取る。


指を絡めるように、強く。


「私は、ちゃんと覚えてるよ」


微笑む。


優しく。


いつも通りに。


でも。


その目の奥だけが、違った。


「だから」


少しだけ、声が落ちる。


「もう、離さない」


静かに。


確実に。


言い切る。


「どこにも行かせない」


その言葉は、願いではなかった。


決定。


すでに終わっている話のように。


当たり前の事実のように。


「……恵くんは、私のだから」


そっと、手を握り直す。


逃げないように。


確かめるように。


「ね?」


返事はない。


それでも。


香は満足そうに目を細めた。


まるで――


最初から、すべてが決まっていたかのように。

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