第8話
夜。
部屋の中は静まり返っていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、かすかに輪郭を浮かび上がらせている。
ベッドの上。
規則正しい呼吸。
――恵が、眠っている。
香は、その隣に腰を下ろし、しばらく何も言わずに見つめていた。
無防備な寝顔。
何も知らないままの表情。
それを確かめるように、ゆっくりと指を伸ばす。
触れる直前で、一度止まる。
そして。
そっと、髪に触れた。
「……やっと、戻ってきたね」
小さく、呟く。
その声は、誰にも届かない。
◇
――昔。
まだ、何も壊れていなかった頃。
「めぐみー! あそぼー!」
笑いながら駆け寄る、小さな女の子。
その後ろを、少しだけ困ったような顔で追いかける少年。
「走るなって、危ないだろ」
「だいじょうぶー!」
そして。
――転ぶ。
「いたっ……」
涙が浮かぶ。
ぐっと堪えようとするが、うまくいかない。
そんな時。
差し出された手。
「大丈夫?」
優しい声。
泣くのを我慢していたはずなのに。
その一言で、全部が崩れた。
「……うん」
小さく頷く。
手を取る。
引き上げられる。
それだけで。
なぜか、安心できた。
――いつも、そうだった。
◇
でも。
ある日。
その「いつも」は、壊れた。
壁の向こうから聞こえる怒鳴り声。
割れる音。
泣き声。
「なんでお前は――!」
「もうやめて……!」
耳を塞いでも、消えない。
体が震える。
逃げ場がない。
その時。
香は、学んだ。
(優しい人は、裏切る)
最初は優しかった。
でも、最後には壊した。
だから。
(誰も信じない)
そう決めた。
信じるから、壊れる。
期待するから、裏切られる。
なら最初から――
信じなければいい。
◇
――それなのに。
「香、大丈夫か?」
あの日。
変わらず声をかけてきたのは。
恵だった。
何も知らないはずなのに。
何も変わっていない顔で。
ただ、手を伸ばしてきた。
(……なんで)
理解できなかった。
(なんで、この人は変わらないの?)
怖かった。
信じてはいけない。
そう決めたはずなのに。
「ねぇ、めぐみ」
気づけば、口にしていた。
「ずっと一緒にいてくれる?」
子供の約束。
何の保証もない言葉。
それでも。
「うん」
迷いのない返事。
その一言で。
何かが、決まった。
◇
――現実。
香は、ゆっくりと息を吐く。
目の前には、眠っている恵。
あの頃と同じ顔。
変わっていない。
何も。
何一つ。
「……約束、覚えてる?」
答えは返ってこない。
分かっている。
それでも、問いかける。
その手を取る。
指を絡めるように、強く。
「私は、ちゃんと覚えてるよ」
微笑む。
優しく。
いつも通りに。
でも。
その目の奥だけが、違った。
「だから」
少しだけ、声が落ちる。
「もう、離さない」
静かに。
確実に。
言い切る。
「どこにも行かせない」
その言葉は、願いではなかった。
決定。
すでに終わっている話のように。
当たり前の事実のように。
「……恵くんは、私のだから」
そっと、手を握り直す。
逃げないように。
確かめるように。
「ね?」
返事はない。
それでも。
香は満足そうに目を細めた。
まるで――
最初から、すべてが決まっていたかのように。




