第5話
「……ただいま」
玄関の扉を開ける。
自分の家のはずなのに、どこか落ち着かない感覚が、まだ消えないまま残っていた。
――理由は、分かっている。
「おかえり、恵くん」
リビングから聞こえてきた声、その一言だけで、現実が否応なく引き戻される。
(……いたな)
神城香。
同居人。
そして――クラスで一番関わってはいけない存在。
靴を脱ぎ、ため息を一つ落としてからリビングに入ると、ソファに座った香がこちらを見ていた。
学校で見せる“氷姫”の顔ではない。
柔らかく、どこか無防備で、距離を感じさせない表情。
それが、逆に違和感を強くする。
「……なんだよ、その顔」
思わず口に出る。
香は首をかしげた。
「どの顔?」
「今のだよ」
「今のって?」
くすっと笑う。
からかうような仕草。
(……別人だろ、これ)
学校でのあの冷たさと、目の前の距離の近さ。
同一人物だと理解しているはずなのに、どうしても結びつかない。
「今日、ちゃんと挨拶できたね」
香は満足そうに小さく頷いた。
「……あれ、お前のせいだろ」
「違うよ? 恵くんが頑張ったから」
軽い調子で返すが、その視線だけは、妙に真っ直ぐだった。
逃がさないように、見てくる。
「ほら、ご褒美」
そう言って、自分の太ももを軽く叩く。
「……は?」
「膝枕」
「なんでだよ」
「えー、約束じゃん」
「してない」
「心の中でしてた」
「知らない」
即答する。
だが、香は一歩も引かない。
「いいから」
ぐい、と腕を引かれる。
予想以上の力に体勢を崩し、そのまま引き寄せられるように倒れ込んだ。
「ちょっ――」
気づいた時には、もう遅い。
視界が低くなり、柔らかい感触に包まれる。
距離が、近い。
近すぎる。
「……っ」
思考が止まる。
心臓の音だけが、やけに大きく響く。
「ほら、じっとして」
香の指が、俺の髪に触れる。
ゆっくりと、確かめるように撫でる。
「頑張ったね」
その声は、あまりにも自然で。
違和感すら、押し流してしまいそうになるほどだった。
(……なんだよ、それ)
昨日まで、他人だったはずなのに。
まるで――昔からこうしていたみたいな距離感。
不自然なのに、妙にしっくりくるのが余計に気味が悪い。
「ねえ、恵くん」
「……なんだよ」
「今日さ、怖かった?」
言葉に詰まる。
教室の空気。
阿久津の視線。
結衣の言葉。
全部が一瞬で蘇る。
「……別に」
短く答える。
嘘だと、自分でも分かっている。
香は何も言わなかった。
ただ、髪を撫でる手が、ほんの少しだけ強くなる。
「大丈夫だよ」
ぽつりと、静かな声が落ちる。
「恵くんは、何も間違ってないから」
その言葉には、慰め以上の重さがあった。
断定。
否定の余地を与えない言い方。
まるで――誰かの考えを、最初から切り捨てているみたいに。
「……お前」
違和感が、また一つ積み重なる。
香は、ほんの少しだけ目を細めた。
「あとね」
「なんだよ」
「他の人に、あんまり触られないでね」
空気が、変わる。
ほんの一瞬だけ。
温度が落ちた。
「……は?」
意味が分からない。
だが、言葉の重さだけは、はっきりと伝わる。
「恵くん、気づいてないでしょ」
くすっと笑う。
でも、その目は笑っていない。
「結構、見られてるよ?」
「……何が」
「全部」
ぞくり、とした。
背筋に冷たいものが走る。
「だからさ」
香は、ほんの少しだけ顔を近づけて――
耳元で、囁く。
「気をつけてね」
優しい声。
なのに、逃げ場がない。
その一言だけで、距離を取る選択肢が消えるような感覚。
◇
夕食を終え、自室に戻る。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
(……なんなんだよ、あいつ)
理解できない。
距離が近い。
態度が違いすぎる。
言っていることも、やっていることも、全部がちぐはぐだ。
でも。
一つだけ、はっきりしていることがある。
(……悪い奴じゃない)
むしろ、その逆だ。
気を遣っている。
俺みたいなやつに対して。
(……ほんと、性格いいよな)
――だからこそ、分からない。
なんで、そこまでしてくるのか。
◇
その頃。
リビングには、まだ灯りが残っていた。
香は一人、ソファに座っている。
静かな空間。
手にはスマホ。
画面には――教室の様子を切り取った写真。
遠くから撮られたもの。
そこに映っているのは、飛鳥恵。
そして、そのすぐ近くにいる沢渡結衣。
ほんの一瞬、並んでいただけの構図。
香は、それを無言で見つめていた。
表情は、動かない。
「……ふーん」
小さく呟く。
その指先が、画面の上をなぞる。
恵の姿だけを、なぞるように。
「大丈夫だよ」
誰に向けた言葉でもなく。
静かに、落ちる。
「恵くんは、ちゃんとここにいるから」
画面を閉じる。
その目は。
昼間の“氷姫”とも違う。
優しさの奥に、沈んだ何かがある。
「……どこにも行かせない」
小さな声。
けれど、確かな意思を持った響き。
独占。
そして――執着。
それはもう、曖昧なものではなかった。
静かに、確実に。
形を持ち始めていた。




