第4話
昨夜の出来事が、まだ現実だと認識しきれていない。
同居。
神城香。
同じ屋根の下。
どれも非現実的すぎて、逆に夢だったんじゃないかと思うくらいだ。
(……いや、夢じゃない)
玄関で別れた時の、あの距離の近さ。
あの視線。あの表情。
思い出すだけで、胸の奥がざわつく。
俺はその感覚を振り払うように、教室のドアを開けた。
いつも通り。
一番後ろ、窓際。
そこが俺の席だ。
誰とも目を合わせないように、視線を落としながら歩く。
これでいい。
昨日決めた通り、俺は“背景”として生きる。
――そのはずだった。
「飛鳥くん、おはよう」
背後から、澄んだ声。
一瞬で、教室の空気が固まる。
(……来た)
振り返らなくても分かる。
「……お、おはよう。神城さん」
最低限の返事。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが。
それだけで、十分すぎた。
ざわざわと、空気が波立つ。
「まただ……」
「なんであいつに……」
視線が刺さる。
痛いほどに、刺さる。
でも、それよりも――
「……」
神城の表情が、一瞬だけ曇ったことの方が気になった。
ほんのわずか。
気のせいかもしれない程度。
だが確かに――
残念そうに、見えた。
(……なんだよ、それ)
理解できない。
昨日からずっとそうだ。
理解できないことばかりが、増えていく。
神城は何も言わず、静かに自分の席へと向かった。
その途中。
一人の女子の前で、ほんの一瞬だけ足を止める。
視線だけを向ける。
冷たい。
感情を削ぎ落とした、氷のような目。
「……っ」
息を呑む気配。
それは、沢渡結衣だった。
(……なんで)
理由は分からない。
だが。
あれは明確な“拒絶”だった。
一瞬で終わる。
次の瞬間には、何事もなかったかのように歩き出す。
教室の空気が、さらに重くなる。
俺は、何もできずにそれを見ているだけだった。
◇
休み時間。
案の定、教室はざわついていた。
話題の中心は、当然――神城香。
そして、その隣に一瞬でも並んだ俺の名前。
(……最悪だ)
関わるなと言ったはずだ。
なのに、これだ。
机に突っ伏し、気配を消そうとする。
だが。
「飛鳥くん」
逃げ場はなかった。
顔を上げる。
神城が、俺の席の前に立っている。
「この問題、少し聞いてもいい?」
ノートを差し出してくる。
中身は、数学。
しかも、かなり難しい。
「……なんで俺に聞く」
「分かりそうだから」
即答。
迷いがない。
(……やめろよ)
周りの視線が、一気に集まる。
「自分で解けるだろ」
「確認したいの」
それも即答。
逃げ道がない。
(……クソ)
仕方なく、ノートを受け取る。
問題を見る。
解ける。
――だからこそ、厄介だ。
「……ここ、こうした方がいい」
最小限の説明。
淡々と。
感情を乗せずに。
関係を作らないように。
神城はじっと聞いて。
「……うん」
小さく頷いた。
そして。
ほんの少しだけ――嬉しそうに笑った。
その瞬間。
空気が、また歪む。
「……チッ」
小さな舌打ち。
教室の前方。
阿久津昂冴が、こちらを睨んでいる。
分かりやすい敵意。
それ以上の――苛立ち。
(……終わったな)
完全に目をつけられた。
「ねえ、香さん」
横から声が入る。
沢渡結衣だった。
いつもの作り笑い。
だが、その奥にあるものは違う。
「そんなやつに聞く必要ないと思うけど?」
「……そう?」
神城は、ゆっくりと首を傾げる。
「だって、陰キャでしょ? 話しかけるだけで変な噂立つよ?」
空気が凍る。
直球すぎる言葉。
慣れている。
……はずなのに。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
「……へえ」
神城の声が、低くなる。
「あなたは、そういう基準で人を見るのね」
「え?」
結衣が固まる。
「同じクラスメイトに挨拶することが、そんなにおかしいことかしら?」
正論。
だが、それ以上に。
温度がない。
冷たすぎる。
「……っ」
結衣の表情が歪む。
言い返せない。
いや――言い返させない。
神城はそれ以上何も言わず、興味を失ったように視線を外した。
それだけで。
勝負は終わっていた。
(……なんだよ、これ)
状況が、どんどんおかしくなる。
俺の知らないところで、何かが動いている。
そして、その中心に――俺がいる。
ありえない。
あっていいはずがない。
その時。
ポケットの中で、スマホが震えた。
取り出す。
通知。
LIME。
送り主――神城香。
『ちゃんと挨拶できたね。えらい』
(……は?)
意味が分からない。
さらに、もう一通。
『学校でも、少しは話していいでしょ?』
心臓が、嫌な音を立てる。
視線を上げる。
教室の前方。
神城は、こちらを見ていない。
いつも通り。
完璧な“氷姫”。
誰とも一定の距離を保つ、あの姿。
――なのに。
スマホの中の彼女は、まるで違う。
『約束、守ってるよね?』
ぞくり、とした。
背筋に冷たいものが走る。
(……約束?)
思い当たるのは、一つだけ。
――学校では距離を置く。
あれのことか。
(……なんなんだよ、お前)
理解できない。
だが。
一つだけ、はっきりしている。
俺の“空気としての居場所”は。
もう、どこにもない。
静かに。
確実に。
壊されていく。
彼女の手によって。




