第3話
懐かしい夢を見ていた。
あの頃は、まだ何も壊れていなかった。
「めぐみ! こっちこっち!」
小さな手を引くのは、いとこのカオル。
笑って、怒って、また笑って。
ただそれだけの時間が、なぜかひどく大切で――
失うなんて、考えもしなかった。
――そこで、夢は終わるはずだった。
「……起きろ」
遠くで、声がする。
「……めぐみ」
少しずつ、近づいてくる。
「……恵」
耳元で、はっきりと。
「起きて」
どんっ!
「ぐっ……!?」
みぞおちに鈍い衝撃が走り、意識が無理やり現実へと引き戻された。
肺の空気が一気に抜ける。
視界が揺れる。
「……おはよ、恵くん」
聞き覚えのある声。
目を開けた先にいたのは――
神城香だった。
「……は?」
思考が止まる。
ここは俺の部屋だ。
俺のベッドだ。
――なのに。
「な…んで……」
かろうじて絞り出した声が、情けないほど震える。
香は、まるで当たり前のように俺の隣に寝転がっていた。
薄手のTシャツに、ショートパンツ。
無防備すぎる格好。
そして――
距離が、近い。
近すぎる。というより、何故ここに、神城香がいる?そして、笑顔で俺の顔を覗き込んでいる?
「あの~神城さん」
「…なんで、昔のように香と呼んでくれないの」
「え?」
「……え、覚えてないの?」
少しだけ不満そうに、香は眉を寄せた。
「私だよ。私!!いとこの香だよ」
「ええええ!!!」
あの神城さんが、昔一緒に遊んでいた従弟の香だった。
そして、さらに俺の驚きは続く
「昨日、連絡いってると思ったんだけど」
「いや、知らない。聞いてない。というか、何もかも分からない」
混乱が追いつかない。
夢の続きかとも思ったが、さっきの痛みがそれを否定する。
現実だ。
逃げ場はない。
香は小さくため息をつくと、体を起こし、こちらを見下ろした。
「今日から、ここで暮らすことになったの」
「……は?」
一拍。
言葉の意味が、遅れて頭に届く。
「私、恵くんの家に住むの」
「……同居?」
「うん。同居」
軽い。
あまりにも軽く言う。
だが、その内容は軽くない。
「……なんでそんなことになる」
香は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
わずかに、表情が揺れる。
「……家の都合」
それだけだった。
それ以上は語らない。
踏み込ませない、という空気。
だが。
次の瞬間には、もういつもの表情に戻っていた。
「それよりさ」
距離が詰まる。
顔が近い。
近すぎる。
「恵くん、全然変わってないね」
「……何が」
「ちゃんと覚えてないところ」
くすっと、笑う。
その笑い方は――
さっき見ていた夢と、同じだった。
(……なんだよ、それ)
違和感が、胸に引っかかる。
だが、それを整理する余裕はない。
状況が異常すぎる。
「……とりあえず、離れろ」
俺は慌てて距離を取る。
心臓がうるさい。
「えー」
不満そうに頬を膨らませる香。
「昔はもっと近かったのに」
「昔の話をするな」
「じゃあ今の話する?」
「しなくていい」
即答。
香は、楽しそうに笑った。
「そっか。じゃあ、少しずつ思い出していこうね」
その言い方に、妙な引っかかりを覚える。
――思い出す?
何を?
「……なあ」
「なに?」
「お前、なんで昨日、俺に話しかけた」
教室での出来事。
あれが、一番おかしい。
香は一瞬だけきょとんとした顔をして。
すぐに、柔らかく微笑んだ。
「挨拶しただけだよ?」
「それが普通じゃないんだよ」
「そっか」
あっさりと受け入れる。
でも。
次の言葉は、少しだけ違った。
「じゃあ、これから普通にすればいいよね」
「……は?」
「だって、クラスメイトでしょ?」
その言葉自体は、間違っていない。
ないはずなのに。
なぜか、逃げ場がなくなる感覚があった。
「……学校では、話しかけるな」
気づけば、そう言っていた。
香の動きが、止まる。
「……なんで?」
「……俺みたいなのと関わってたら、お前の評価が下がる」
それは事実だ。
昨日、それを証明されたばかりだ。
香は、しばらく黙っていた。
そして。
ゆっくりと、俺の服の裾を掴んだ。
「……関係ないよ」
小さな声。
でも、はっきりとした拒絶。
「家の中では、いいでしょ?」
その目は。
ほんの少しだけ――必死だった。
(……ああ)
俺は、そこで納得してしまう。
「気を遣ってるんだな」
親同士の関係。
同居。
余計なトラブルを避けるための配慮。
そう考えるのが、一番自然だ。
「……分かった」
俺は頷く。
「その代わり、学校では距離を置く。それでいいな」
香は、少しだけ不満そうにしたが。
やがて、小さく笑った。
「……うん。いいよ」
了承。
だが、その笑顔は――
どこか、納得していないようにも見えた。
「じゃあ」
香は立ち上がる。
「朝ごはん、一緒に食べよ」
まるで、ずっと前からそうしていたかのように。
自然な口調で言う。
その背中を見ながら。
俺は、ようやく理解する。
――日常が、壊れた。
静かに。
確実に。
元には戻らない形で。
◇
――その前日。
夕暮れの廊下。
神城香は、一人で立ち止まっていた。
窓の外に目を向けながら。
小さく、息を吐く。
「……やっと」
指先が、わずかに震える。
それを抑えるように、ぎゅっと握りしめる。
「……やっと、見つけた」
その声は、誰にも届かない。
けれど確かに――
長い時間を越えて、辿り着いた者の響きを帯びていた。




