第2話
――始業式の朝。
俺は、何事もなかったかのように教室へ向かっていた。高二の新しいクラス。新しい人間関係。
……もっとも、俺にはどちらも関係ない。
(どうせ、同じだ)
高校に入ってからの一年間、俺は、誰にも関わらず、誰からも関わられず、ただ“そこにいるだけの存在”として過ごしてきた。
入学前に振られてから――いや、正確には、あの時すべてを否定されてから。
俺は、人と関わることをやめた。
その結果が、この位置だ。
◇
教室の一番後ろ、窓際。
そこは、俺の居場所だ。
誰の視界にも入らない、理想の座標。
一年かけて、ようやく手に入れた場所。
俺は気配を殺し、呼吸すら薄くして、世界から切り離される。
完璧だ。
これでいい。
これがいい。
――そう思った、次の瞬間だった。
「飛鳥くん、おはよう」
鈴のような声が、教室の空気を震わせた。
時間が、止まる。
ざわめきが、一瞬で凍りつく。
クラス中の視線が、一点に集まる。
その中心に――なぜか、俺がいた。
「……え?」
理解が、追いつかない。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前に立っていたのは――
神城香。
この学校で、その名を知らない者はいない。
学年トップの成績。
容姿端麗。
そして、誰に対しても一定の距離を保ち、滅多に笑わないことから付けられた通称――
「氷姫様」
一年の頃、同じクラスになったことはない。
それでも知っている。
嫌でも耳に入る存在だからだ。
そんな彼女が――
なぜか、まっすぐに俺を見ていた。
「……あ、お、おはよう……神城さん」
掠れた声が出る。
情けないくらい、小さい。
だが、それ以上に理解できないのは――
なぜ、彼女が俺に話しかけているのか、ということだ。
教室が、ざわつく。
当然だ。
俺と彼女は、交わるはずのない線上にいる。
住む世界が違う。
関わる理由が、存在しない。
それなのに。
神城は、ほんのわずかに目を細めて――
満足そうに、微笑んだ。
――その笑みが、決定的だった。
(……なんだよ、それ)
その瞬間。
「……チッ」
小さく、舌打ちが聞こえた。
教室の中央。
サッカー部の特待生――阿久津昂冴が、机を指先で苛立たしげに叩いている。
端正な顔が、露骨に歪んでいた。
視線の先は――俺。
(……は?)
その目に浮かんでいるのは、明らかな敵意。
いや、それ以上の――“理解できないものを見る嫌悪”。
「……なんで、あいつだよ」
誰に聞かせるでもない呟き。
だが、教室の空気には十分すぎるほど伝わった。
阿久津にとって。
神城香は、“手に入れるべき存在”だったはずだ。
それが。
自分が見下している“空気”に、笑いかけている。
その事実が。
プライドを、容赦なく踏みつけていた。
(……なんだよ、それ)
見たことがない表情。
少なくとも、“誰にでも向けるもの”じゃない。
そんな確信だけが、妙に強く胸に残る。
その瞬間。
教室の空気が、音を立てて軋んだ。
誰かの苛立ち。
誰かの困惑。
そして――
「……なによ、あれ」
聞き覚えのある声。
反射的に、意識がそちらへ向く。
だが、振り返ることはしなかった。
見なくても分かる。
結衣だ。
(……関係ない)
もう、関係ないはずだ。
高校に入る前に終わった関係だ。
一年間、一度もまともに言葉を交わしていない。
今さら、何もない。
――そう思っているのに。
なぜか、胸の奥がざわついた。
言葉にできない違和感が、残る。
「じゃあ、またあとで」
神城はそれだけ言うと、何事もなかったかのように踵を返した。
まるで、“やるべきことは終わった”と言わんばかりに。
そして、自然な動作で前の席へと戻っていく。
その背中を、クラス全員が目で追っていた。
――ただ一人を除いて。
(……意味が分からない)
残されたのは、理解不能な現実だけ。
だが――
たった一つ、確かなことがある。
俺の「空気になる」という計画は。
たった一言で、音もなく崩れ去った。
完全に、破壊された。
◇
――その少し前。
誰もいない廊下で。
神城香は、足を止めていた。
静かに、教室の扉を見つめる。
そして――
小さく、息を吐いた。
「……やっと、見つけた」
その声は、誰にも届かない。
けれど確かに――
何かを確信した響きを、帯びていた。
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