第26話
朝。
教室に入った瞬間、違和感があった。
ざわつきはある。
いつも通りの喧騒。
なのに――
(……静かだな)
自分に向けられるはずの視線が、ない。
いや、正確には。
“避けられている”。
誰とも目が合わない。
合いそうになると、逸らされる。
意図的に。
(……なんだこれ)
一番後ろ、窓際。
自分の席に座る。
何も変わっていないはずの風景。
なのに。
空気だけが、妙に薄い。
「……」
隣の席の男子が、わずかに椅子を引いた。
距離を取るように。
(……ああ)
理解する。
これは孤立じゃない。
“隔離”だ。
関わらないための距離じゃない。
関わらせないための距離。
(……神城か?)
頭に浮かぶ。
でも、確証はない。
むしろ――
(あいつ、何もしてないだろ)
教室を見渡す。
神城香は、いつも通り自分の席にいる。
誰かと会話している。
笑っている。
完璧な“氷姫”。
こちらを見ることもない。
(……いつも通り、か)
なら、この状況は。
“自然に起きた”ものか?
「……はは」
小さく笑いが漏れる。
そんなわけない。
でも。
理由が分からない。
授業が始まる。
誰にも当てられない。
指されない。
ノートを見られない。
教師ですら、俺を“いないもの”として扱っている。
(……やりすぎだろ)
昨日までとは明らかに違う。
目立たないようにしていた。
それでも、ここまでじゃなかった。
これは。
“消されている”。
昼休み。
弁当を広げる。
周囲の席は、空いている。
誰も近くに来ない。
来ようとしない。
(……楽だな)
そう思う。
そう思おうとする。
でも。
(……こんなもんか)
味がしない。
ただ食べているだけ。
時間が流れているだけ。
ふと、顔を上げる。
遠く。
神城が誰かと話している。
笑っている。
自然に。
違和感のない距離で。
(……あいつは、普通だな)
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由は分からない。
ただ。
“自分だけが切り離されている”感覚。
それだけが、はっきりとあった。
午後。
移動教室。
廊下を歩く。
前にも後ろにも、人はいる。
でも。
半径数メートル。
誰も近づかない。
自然に道が空く。
(……これ、逆に目立ってないか?)
苦笑する。
でも、声は出ない。
出す必要もない。
出したところで、返ってこない。
教室に入る。
席に着く。
同じ。
何も変わらない。
(……もういい)
諦める。
考えるだけ無駄だ。
そう思った、その時。
カタン、と音がした。
視線を上げる。
神城が、立っていた。
こちらを見ている。
一瞬。
クラスの空気が揺れる。
でも。
誰も何も言わない。
神城は、ゆっくりと歩いてくる。
足音がやけに響く。
俺の席の前で、止まる。
「……ねえ」
小さな声。
周囲には聞こえないくらいの距離。
「大丈夫?」
一言。
それだけ。
「……何が」
とぼける。
神城は、ほんの少しだけ目を細めた。
「今日、静かでしょ」
「……いつもだろ」
「そうだね」
あっさり肯定する。
でも。
「でも、今日は違う」
言い切る。
逃げ道がない。
「……別に困ってない」
本音じゃない。
でも、認めたくない。
神城は、少しだけ考えて。
「そっか」
それ以上は聞かない。
追及しない。
ただ。
「じゃあ、いいや」
軽く言って、踵を返す。
そのまま、自分の席に戻っていく。
それだけ。
それだけなのに――
(……なんだよ)
さっきまでの空気が、少しだけ変わる。
近くの席の奴が、わずかにこちらを見る。
すぐ逸らす。
でも。
“見た”。
それだけで、違う。
(……意味わかんねえ)
何もしていないはずだ。
神城は。
ただ、一言話しただけ。
それだけで。
世界の温度が、変わった。
放課後。
教室を出る。
誰もいない廊下。
一人。
足音だけが響く。
(……楽なはずなんだけどな)
誰にも干渉されない。
理想の状態。
なのに。
なぜか。
(……物足りねえ)
その感情に、少しだけ驚く。
自分で否定する。
そんなわけない。
ただの気のせいだ。
そう思いながら、昇降口へ向かう。
その途中。
スマホが震えた。
取り出す。
画面。
神城香。
『ちゃんと一人でいられたね』
短いメッセージ。
それだけ。
(……は?)
意味が分からない。
だが。
次の瞬間、気づく。
今日一日。
誰も近づかなかった。
誰も関わらなかった。
望んでいた状態。
完璧な“空気”。
――それを。
“作った”のは誰だ?
背筋が、ぞくりとする。
もう一通。
『でもね』
間を置いて、届く。
『寂しかったでしょ?』
指が止まる。
打てない。
返せない。
心臓の音だけが、やけに大きい。
(……なんなんだよ、お前)
理解できない。
でも。
一つだけ、はっきりしたことがある。
今日のこの世界は――
“偶然”じゃない。
ポケットにスマホをしまう。
外に出る。
夕焼け。
一人。
誰もいない帰り道。
なのに。
なぜか。
(……見られてる気がする)
振り返る。
誰もいない。
当たり前だ。
でも。
確信だけが残る。
(……あいつだ)
見ている。
どこかで。
ずっと。
そして。
“整えている”。
自分のための環境を。
ゆっくりと歩き出す。
足が重い。
(……これ)
気づいてしまう。
(俺、一人じゃないとダメだったはずだろ)
なのに。
今日一日で。
分かってしまった。
本当の意味で“完全な一人”になると――
想像以上に、きつい。
そして。
それを、唯一壊せる存在がいる。
「……神城」
小さく呟く。
答えは返ってこない。
でも。
もう分かっている。
(……あいつがいないと)
言葉にする前に、止める。
認めたら終わる。
それだけは分かる。
空を見上げる。
夕焼けが、やけに眩しい。
その日。
飛鳥恵は初めて――
“孤独を維持できない自分”に気づいた。




