第24話
翌朝。
目が覚めた瞬間から、嫌な感覚が残っていた。
夢は覚えていない。
でも――
(……来るな、これ)
何かが起きる。
そんな予感だけが、妙に鮮明だった。
リビングに向かう。
ドアを開けると、すでに朝食は用意されていた。
「おはよう、恵くん」
「……おはよう」
神城香は、いつも通りそこにいた。
昨日と同じ。
いや――
(……違うな)
距離が、ある。
無理に近づいてこない。
触れてこない。
視線も、必要以上に絡めてこない。
完璧な“普通”。
「……どうした?」
思わず聞いてしまう。
神城は、少しだけ首を傾げて。
「何が?」
本気で分かっていない顔。
(……いや、分かってるだろ)
昨日の会話。
あのメッセージ。
全部あったはずなのに。
「……別に」
それ以上は言わない。
言えない。
朝食を取る。
会話は最低限。
静かすぎる。
(……こんなもんだったか?)
前の生活を思い出そうとする。
でも。
思い出せない。
“普通”だったはずなのに、もう感覚がズレている。
登校。
今日は、並んでいない。
少し距離を空けて歩く。
周囲から見れば、ただのクラスメイト。
それ以上でも、それ以下でもない。
(……これでいい)
そう思う。
そのはずなのに。
なぜか、落ち着かない。
教室。
席に着く。
神城は前方。
振り返らない。
話しかけてこない。
視線も来ない。
(……徹底してるな)
完璧に距離を守っている。
それは、望んだことだ。
なのに。
胸の奥が、わずかにざわつく。
昼休み。
一人でパンを食べる。
誰も来ない。
何も起きない。
平穏。
――のはずだった。
「ねぇ」
不意に、声がかかる。
顔を上げる。
クラスの女子。
あまり話したことのない相手だ。
「ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「……俺に?」
「うん」
周囲がざわつく。
珍しい光景。
(……なんだこれ)
警戒しながらも、話を聞く。
ただの勉強の質問。
普通の会話。
普通のやり取り。
(……普通だな)
それだけのこと。
それだけの、はずなのに。
会話が終わる頃。
ふと、視線を感じた。
前方。
神城が、こちらを見ていた。
無表情。
感情が読めない。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
目が合う。
そして――
すぐに逸らされる。
(……なんだよ、それ)
何もしていない。
普通に話しただけだ。
それなのに。
なぜか、言い訳したくなる。
放課後。
帰ろうと席を立つ。
その瞬間。
「飛鳥くん」
呼び止められる。
振り向く。
神城だった。
久しぶりに、直接話しかけられる。
「……なんだよ」
少しだけ、構えてしまう。
神城は、変わらない表情のまま。
「少し、いい?」
「……ああ」
断る理由はない。
二人で教室を出る。
人のいない階段。
静かな場所。
そこで、神城は足を止めた。
振り返る。
「ねぇ」
「……なんだ」
「今日さ」
一歩、近づく。
距離は、まだ保たれている。
でも――
空気が違う。
「楽しそうだったね」
心臓が、跳ねる。
「……は?」
とぼける。
でも、無理だ。
「さっきの子」
淡々と続ける。
「話してたでしょ」
見られていた。
分かっていたことなのに。
実際に言われると、違う。
「……ただの会話だろ」
「うん」
あっさり頷く。
否定しない。
でも。
「でも、楽しそうだった」
繰り返す。
(……なんだよ、それ)
責めているわけじゃない。
でも。
確実に、何かを突きつけている。
「……別に普通だよ」
そう答える。
神城は、少しだけ考えるように目を細めて。
「普通、か」
静かに呟いた。
そして。
「じゃあさ」
顔を上げる。
まっすぐに、こちらを見る。
「私といる時も、同じくらい楽しい?」
息が止まる。
また、それだ。
比べさせる質問。
逃げられないやつ。
「……なんでそんなこと聞く」
時間を稼ぐ。
だが。
神城は待たない。
「答えて」
一歩、踏み込む。
距離が縮まる。
「……分かんねえよ」
本音が出る。
「比べるもんじゃないだろ」
昨日と同じ答え。
でも。
今日は違う。
神城は――
笑わなかった。
「そっか」
小さく頷く。
そして。
ゆっくりと、息を吐いた。
「じゃあ、決めようか」
「……何を」
嫌な予感。
確信に近い。
神城は、迷いなく言った。
「私と、他の人」
一瞬、意味が理解できない。
「どっちを選ぶか」
言葉が、重く落ちる。
「……は?」
理解した瞬間。
背筋が冷える。
「冗談だろ」
「冗談じゃないよ」
即答。
「だって、恵くん」
一歩、さらに近づく。
もう、逃げられない距離。
「普通がいいんでしょ?」
笑う。
優しく。
でも。
「なら、選ばないと」
その目は――
一切、揺れていない。
(……おかしい)
はっきりと分かる。
これは。
普通じゃない。
「……なんでそんな極端なんだよ」
声が少し荒くなる。
神城は、少しだけ首を傾げて。
「極端かな?」
本気で分かっていない顔。
「だって、私」
そこで、言葉が止まる。
ほんの一瞬。
何かを抑えるように。
そして。
静かに、続けた。
「恵くんのこと、ちゃんと大事にしたいだけだよ」
その言葉。
優しいはずなのに。
重い。
「だから」
手を伸ばす。
でも、触れない。
ギリギリで止める。
「他の人に、渡したくない」
その一言で。
すべてが、繋がる。
(……ああ)
これが、この違和感の正体だ。
守ってるんじゃない。
囲ってる。
「……答え、すぐじゃなくていいよ」
少しだけ距離を取る。
また、“普通”の顔に戻る。
「でも」
最後に。
微笑んで。
「逃げるのは、ダメだからね」
その言葉だけが。
妙に、はっきりと残った。
帰り道。
一人で歩く。
夕焼けが、やけに暗く見える。
(……なんだよ、これ)
普通に戻りたかっただけだ。
それだけのはずだった。
なのに。
気づけば。
もっと、逃げ場がなくなっている。
ポケットの中のスマホが震える。
見なくても分かる。
取り出す。
画面。
神城香。
『待ってるね』
短い一文。
それだけ。
それだけなのに。
――重すぎた。




