第18話
朝。
教室に入った瞬間、空気が違うと分かった。
ざわめきはある。
会話もある。
でも――どこか、不自然に静かだった。
視線。
一瞬だけ向けられて、すぐに逸らされる。
(……なんだよ、これ)
自分でも分かる。
理由は、昨日だ。
視聴覚室での出来事。
暴力。
録音。
そして――神城香。
「……」
何も言わず、席に向かう。
一番後ろ、窓際。
いつもの場所。
なのに、いつもと違う。
“空気”には戻れていない。
むしろ――
(距離、取られてるな)
露骨ではない。
でも確実に、壁がある。
関わらないようにする距離。
避けるための距離じゃない。
――触れないようにする距離。
(……まあ、いいか)
そう思うことにする。
もともと望んでいた形だ。
誰とも関わらない。
何も起きない。
ただの背景。
――そのはずだった。
「飛鳥くん、おはよう」
背後からの声。
一瞬で、空気が固まる。
(……やっぱり来るよな)
振り返るまでもない。
「……おはよう、神城さん」
最低限の返事。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが。
それだけで、十分すぎた。
視線が集まる。
さっきまで逸らしていた連中が、今度は隠さず見てくる。
理由は分かっている。
“あの件”の中心にいた二人。
そして。
その距離。
神城は、当たり前のように俺の隣に立っていた。
「ちゃんと来たね」
満足そうに、頷く。
(……何がだよ)
意味が分からない。
だが、それ以上に――
距離が近い。
昨日より、明らかに。
「……用があるなら、さっさと済ませろ」
できるだけ淡々と返す。
だが。
神城は少しだけ首を傾げた。
「用?」
そして、小さく笑う。
「挨拶だよ?」
その一言。
それだけなのに。
空気が、わずかに歪む。
(……やめろって)
分かっているはずだ。
これがどう見えるか。
でも。
神城はやめない。
やめる気もない。
「……行くね」
それだけ言って、席に戻っていく。
いつも通り。
何事もなかったかのように。
だが。
その“いつも通り”が、もう普通じゃない。
(……なんだよ)
助かったはずだ。
あのままなら、もっと酷いことになっていた。
分かっている。
分かっているのに。
(……なんか、おかしくねえか)
胸の奥に、引っかかるものがある。
言葉にできない違和感。
昼休み。
教室のざわめきは、朝よりも小さくなっていた。
誰も近づかない。
誰も話しかけない。
遠くから様子を窺うだけ。
(……分かりやすいな)
昨日までの敵意とは違う。
これは――
恐れだ。
「飛鳥くん」
また声がかかる。
顔を上げると、神城がすぐ近くにいた。
いつの間に来たのか分からない。
「一緒に食べよ」
パンを差し出してくる。
当然のように。
「……自分で食う」
「ダメ」
即答。
「今日は私が食べさせる日」
「そんな日ねぇよ」
小さくため息をつく。
周囲の視線が痛い。
でも、それ以上に。
「はい、あーん」
逃げ場がない。
結局、折れる。
「……あー」
パクッ。
一瞬で、空気が揺れる。
(……最悪だ)
完全に見せつけている形になっている。
だが。
神城は気にしない。
むしろ、少しだけ満足そうに笑っていた。
「ねぇ、恵くん」
顔が近い。
「もっと頼ってよ」
「……頼ってるだろ」
「足りない」
即答。
迷いがない。
「だって私」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「恵くんの“全部”になりたいもん」
軽い調子。
でも。
その目は、笑っていなかった。
(……なんだよ、それ)
冗談にしては重い。
でも。
否定する理由も、言葉も出てこない。
放課後。
帰る準備をしていると――
視線を感じた。
少し離れた席。
沢渡結衣。
目が合う。
一瞬だけ。
だが、すぐに逸らされた。
(……)
声はかからない。
昨日のことがある。
当然だ。
だが。
その表情は――
昨日までとは違っていた。
冷たさじゃない。
怒りでもない。
もっと曖昧で。
もっと、弱い何か。
(……なんなんだよ)
分からない。
でも。
確実に何かが変わっている。
「帰ろ、恵くん」
腕を掴まれる。
振り向くと、神城がいた。
「……ああ」
拒否する理由もない。
そのまま、教室を出る。
背中に視線を感じる。
振り返らない。
振り返れない。
夕焼けの廊下を歩く。
神城はずっと隣にいる。
離れない。
「ねぇ」
ぽつりと呟く。
「今日、誰かと話した?」
「……普通に」
「誰?」
「……クラスのやつ」
少しの沈黙。
「名前」
逃げ場がない。
適当に一人の名前を出す。
神城は少しだけ考えて。
「……ふーん」
小さく笑う。
でも。
腕を掴む力が、わずかに強くなる。
(……やっぱ、おかしい)
違和感が、消えない。
助けられた。
守られた。
なのに。
どこか――
「ねぇ、恵くん」
顔が近い。
夕焼けに照らされて、表情が揺れる。
「これで、安心だね」
その一言。
引っかかる。
「……何がだよ」
「邪魔する人、いなくなったでしょ?」
一瞬。
言葉が出なかった。
(……邪魔?)
誰のことだ。
阿久津か。
それとも――
それ以上、考えたくなかった。
「……そうかもな」
適当に返す。
それしかできない。
神城は満足そうに頷いた。
そのまま、俺の腕に自分の腕を絡める。
ぎゅっと。
強く。
離さない。
夜。
自室。
ベッドに横になる。
(……疲れた)
体じゃない。
頭が。
感情が。
全部が、うまく噛み合っていない。
助かったはずだ。
なのに。
(……なんでこんなに、引っかかるんだ)
答えは出ない。
考えているうちに、意識が沈んでいく。
やがて、完全に眠りに落ちた。
――静寂。
部屋の中。
わずかな物音。
ドアが、静かに開く。
足音。
ゆっくりと、ベッドに近づく。
神城香は、そこに立っていた。
眠っている恵を、じっと見下ろす。
無防備な寝顔。
何も知らない顔。
そっと、手を伸ばす。
指先で、頬に触れる。
「……やっと」
小さく、呟く。
その声は、昼間とは違う。
もっと静かで。
もっと深い。
ベッドの端に腰を下ろす。
そして。
恵の手を、そっと握る。
「戻ってきたね」
微笑む。
優しく。
愛おしそうに。
でも。
その目は――
揺れていなかった。
「もう」
静かに、囁く。
「邪魔はいないよ」
指先に、わずかに力が入る。
離さないように。
逃がさないように。
「……ずっと一緒」
その言葉は。
願いじゃない。
約束でもない。
――確定だった。
静かな部屋に。




