第16話
視聴覚室。
カーテンの隙間から差し込む夕焼けが、室内を赤く染めていた。
空気が、重い。
埃の匂いと、機材の沈黙。
わずかな光の中で、三人の距離だけがやけに近く感じられる。
「……来たけど」
飛鳥恵の声は、静かだった。
驚きも、怒りもない。
ただ状況を受け入れた、いつも通りの声。
その視線が――沢渡結衣に向く。
「……お前」
短い一言。
責める色はない。
それが、刺さる。
(……やめて)
そんな目で見ないで。
胸の奥で、何かが軋む。
喉が、うまく動かない。
「よぉ、飛鳥」
背後から、阿久津の声が軽く響く。
その軽さが、場違いなくらい浮いている。
「呼び出されて来るとか、相変わらずチョロいな」
「……用があるなら、早く言え」
恵は視線を外さない。
結衣から、逸らさない。
逃がさないでも、責めないでもなく――ただ見ている。
(……やめて)
耐えられない。
その視線が。
その“いつも通り”が。
「なあ飛鳥」
阿久津が一歩前に出る。
「ちょっと面白いことしてやるよ」
その瞬間。
――フラッシュバック。
暗い部屋。
同じ場所。
床に崩れる恵。
動けなかった自分。
伸ばせなかった手。
「……最低」
あの時の自分の声。
何もできなかった、あの瞬間。
(……また、同じことするの?)
心臓が、大きく鳴る。
逃げたい。
目を逸らしたい。
でも――
(……違う)
足が、動いた。
一歩。
前に出る。
恵と阿久津の、間に。
「……やめよう、これ」
声は震えていた。
それでも、はっきりと言った。
空気が、一瞬で止まる。
「……は?」
阿久津が眉をひそめる。
「何言ってんだ、お前」
「そのままだよ」
結衣は、目を逸らさない。
怖い。
でも、逸らさない。
「もうやめよう。こんなこと」
「ふざけんな」
即座に返る。
低い声。
圧がかかる。
「ここまで来て、今さらやめるとか通ると思ってんのか?」
正しい。
正論だ。
でも。
「通らなくてもいい」
結衣は、一歩も引かない。
「でも、やらない」
沈黙。
空気が、張り詰める。
阿久津の目が、冷たく細まる。
「……裏切る気か?」
「最初から、そっち側じゃない」
即答だった。
その言葉に、わずかな静寂が落ちる。
(……言った)
戻れない。
でも。
(それでいい)
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……チッ」
阿久津が舌打ちする。
苛立ちが、そのまま滲む。
「じゃあ、これどうすんだ?」
スマホを突き出す。
「バラすぞ?」
音声。
あの言葉。
あの自分。
「……」
一瞬、息が止まる。
怖い。
知られるのが。
嫌われるのが。
全部。
――でも。
結衣は、息を吸った。
「いいよ」
静かに言う。
阿久津の動きが止まる。
「……は?」
「バラせばいい」
震えている。
でも、声は逃げない。
「それでもいいから、もうやめて」
沈黙。
空気が、変わる。
阿久津の表情が、わずかに歪む。
計算が狂う。
「……お前、マジで言ってんのか?」
「うん」
即答。
迷いはない。
(……あの時は)
何もできなかった。
見ているだけだった。
(でも、今回は)
違う。
結衣は、真っ直ぐに言った。
「……あの時は、何もできなかった」
一瞬、恵の目が揺れる。
「でも、今回は違う」
言い切る。
震えながらでも。
逃げずに。
「もう、同じことはさせない」
空気が、完全に変わった。
阿久津の表情から、余裕が消える。
「……舐めてんのか」
一歩、踏み込む。
「だったら――」
腕が振り上がる。
結衣に向かって。
「やめろ」
その前に、恵が動いていた。
間に入る。
――ドンッ!
衝撃。
腹に拳が入る。
息が詰まる。
「ぐっ……!」
視界が揺れる。
「邪魔すんなよ」
低い声。
二発目が来る――
その瞬間。
「……やめなさい」
静かな声が、空気を断ち切った。
全員が振り返る。
入口。
そこに立っていたのは――神城香だった。
夕焼けを背に、逆光の中で。
表情は見えない。
だが。
空気が、一瞬で凍る。
「それ、何してるの?」
穏やかな声。
だが、温度はない。
「見りゃ分かんだろ」
阿久津が吐き捨てる。
「話し合いだよ」
「そう」
香は一歩、踏み出す。
足音が、やけに響く。
「じゃあ、その“話し合い”」
スマホを取り出す。
画面が光る。
「最初から全部、録れてるけど」
沈黙。
理解が追いつくまでの、数秒。
「……は?」
阿久津の顔が変わる。
「暴力も、脅しも、全部」
淡々と告げる。
「先生に渡すね」
一言。
それだけで、終わりを示す。
阿久津の拳が震える。
だが。
もう動けない。
詰んでいる。
完全に。
その場に、沈黙が落ちる。
そして。
結衣は、小さく息を吐いた。
(……終わった)
怖かった。
でも。
逃げなかった。
それだけで。
ほんの少しだけ――
自分を許せる気がした。




