第15話
放課後。
教室の空気がゆっくりとほどけていく中で、沢渡結衣は席に座ったまま動けずにいた。
周囲のざわめきは、もうほとんど遠い。
視界の中にあるのは、自分の机と、握りしめたスマホだけだった。
(……やらないと)
頭では分かっている。
分かっているのに、指が動かない。
画面には、トーク画面が開かれている。
相手は――飛鳥恵。
何度も入力しては消して、また打っては消して。
その繰り返し。
『ちょっと話したい』
打つ。
止まる。
消す。
『今日、時間ある?』
打つ。
また止まる。
消す。
(……最低)
分かっている。
これは、呼び出しだ。
罠だ。
自分は今、それに手を貸そうとしている。
(……でも)
脳裏に浮かぶのは、あの音声。
あの時の、自分の声。
「キモい」
「価値が下がる」
(……知られたくない)
胸の奥が締め付けられる。
恵に知られるのが、怖い。
神城に知られるのが、もっと怖い。
(……どうすればいいの)
答えは出ない。
出ないまま、時間だけが過ぎていく。
その時。
「……何してるの?」
声が落ちた。
びくりと肩が跳ねる。
顔を上げると――神城香が、すぐ横に立っていた。
(……なんで今)
心臓が嫌な音を立てる。
「……別に」
慌ててスマホの画面を伏せる。
だが、遅い。
香の視線は、確かにそこを見ていた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
目が細くなる。
「……そっか」
何事もなかったかのように、香は微笑んだ。
だが、その笑顔に温度はない。
「じゃあ、帰るね」
それだけ言って、くるりと背を向ける。
(……今の)
気づかれている。
確信はない。
でも。
(……なんで)
怖い。
理由の分からない恐怖が、背中を這い上がる。
教室の扉が閉まる音。
結衣は、しばらく動けなかった。
(……もう、やるしかない)
逃げ場はない。
そう思い込むことで、ようやく指が動く。
震える手で、文字を打つ。
『放課後、少し話せる?』
送信。
既読は、すぐについた。
(……早い)
心臓が跳ねる。
数秒。
やけに長く感じる沈黙。
そして。
『いいけど』
短い返事。
それだけ。
それだけなのに――
(……来るんだ)
分かっていたことなのに、胸が痛む。
『どこで?』
続けてメッセージが来る。
(……どこ)
一瞬迷う。
だが、すぐに思い出す。
阿久津が言っていた場所。
『視聴覚室』
送信。
既読。
そして。
『分かった』
それで終わりだった。
簡単すぎるやり取り。
あまりにも、いつも通りで。
(……なんで)
余計に苦しくなる。
(なんで、普通に返すのよ)
責められてもいい。
無視されてもいい。
そう思っていたのに。
(……ずるい)
何も変わらないような態度が、逆に刺さる。
そのまま、しばらく動けなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づけば、教室にはもう誰もいなかった。
――いや。
「終わったか?」
声。
ドアのところに、阿久津が立っていた。
(……いたの)
最初から、見ていたのかもしれない。
「……送った」
小さく答える。
「そうか」
満足そうに笑う。
「ちゃんと来るか?」
「来るよ」
即答だった。
自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
阿久津は、くくっと喉の奥で笑う。
「だろうな」
その言い方が、妙に気に障る。
「じゃあ、行くか」
軽い調子で言う。
まるで遊びにでも行くように。
(……違う)
これは遊びじゃない。
分かっているのは、自分だけだ。
足が重い。
でも、止まれない。
二人は並んで歩き出す。
夕焼けが、廊下を赤く染めていた。
その色が、やけに不吉に見える。
(……これでいいの)
何度も自分に問いかける。
答えは出ない。
出ないまま。
視聴覚室の前に、たどり着く。
扉の前で、足が止まる。
「開けろよ」
背後からの声。
(……やだ)
本音が漏れそうになる。
でも。
手は、もう伸びていた。
ガラッ。
扉が開く。
薄暗い室内。
そして。
「……来たけど」
奥に立っていたのは――飛鳥恵だった。
いつも通りの顔。
何も知らない顔。
その瞬間。
胸の奥が、強く痛んだ。
(……やめたい)
今すぐ全部やめたい。
そう思った。
でも。
後ろから、足音がした。
コツ、コツ、と。
ゆっくりと。
逃げ道を塞ぐように。
「よぉ、飛鳥」
阿久津の声が、室内に響く。
空気が、一気に張り詰めた。
(……もう、戻れない)
結衣は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
自分で選んだはずなのに。
その現実だけが、やけに重かった。




