第14話
放課後。
教室のざわめきがゆっくりとほどけていく中で、沢渡結衣は一人、席に残っていた。
窓の外では、部活に向かう生徒たちの声が遠くに弾んでいる。明るいはずのその音が、今日は妙に遠く感じられた。
ノートは開いているが、視線は文字を追っていない。
(……集中できない)
分かっている原因を、あえて考えないようにしているだけだ。
昼休みの光景が、何度も頭の中で再生される。
――神城が、恵に向けたあの表情。
(……なんで、あんな顔)
胸の奥が、じくじくと痛む。
自分が言った言葉も、ちゃんと覚えている。
「キモい」
「価値が下がる」
(最低……)
小さく唇を噛む。
その時だった。
「……まだいたのかよ」
低い声が、背後から落ちてきた。
肩がびくりと跳ねる。
振り返ると、そこに立っていたのは――阿久津昂冴だった。
「……何」
できるだけ平静を装う。
だが、声はわずかに硬い。
阿久津は教室の入口にもたれかかるようにして立ち、こちらを見下ろしていた。
その目には、あからさまな苛立ちが浮かんでいる。
「ちょっと付き合え」
命令口調だった。
断るという選択肢が、最初から用意されていない言い方。
(……めんどくさい)
内心でため息をつきながらも、結衣は立ち上がった。
ここで拒めば、もっと面倒なことになる。
それくらいは分かっている。
二人は無言のまま教室を出て、人気のない校舎裏へと向かった。
風が抜ける音だけが、妙に大きく響く。
阿久津は足を止めると、振り返ることなく口を開いた。
「お前さ」
それだけで、空気が変わる。
「飛鳥のこと、どう思ってる?」
(……は?)
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……何それ」
「そのままの意味だよ」
振り返る。
目が合う。
逃げ場のない視線。
「好きなのかって聞いてんだ」
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
(……なんで、それを)
「……関係ないでしょ」
視線を逸らす。
だが、阿久津は一歩距離を詰めてくる。
「あるんだよ」
低い声。
圧が強い。
「お前がどう思ってるかで、やり方が変わる」
「やり方って何」
問い返した瞬間、少しだけ後悔する。
聞かない方がよかった。
阿久津は、口の端を歪めた。
「簡単だろ」
「飛鳥を、引きずり出す」
(……最低)
一瞬で理解した。
あの視聴覚室の件で終わったと思っていたが、全く終わっていない。
むしろ――
(……エスカレートしてる)
「やめなよ」
思わず口から出た。
「は?」
「もういいでしょ。あんた、あいつに何の恨みがあるの」
「恨み?」
阿久津が笑う。
だが、その笑いは冷たい。
「気に食わねえだけだよ」
即答だった。
「ゴミみたいなやつが、俺の欲しいもんの近くにいるのがな」
(……最低だ)
吐き気がする。
「で?」
阿久津はさらに一歩近づく。
「お前、使えるんだよ」
「……何に」
分かっているのに、聞いてしまう。
「呼び出せよ」
即答。
「飛鳥を」
空気が、ぴたりと止まる。
「お前が呼べば、あいつ来るだろ」
(……来る)
それは否定できない。
どんなに関係が壊れていても、きっとあいつは来る。
昔から、そういうやつだった。
「そこで、ちょっと話すだけだ」
軽い調子。
だが、その裏が透けて見える。
「神城の前でな」
(……最悪)
狙いが分かった。
恵を呼び出し、何かしらの“誤解”を作る。
関係を壊す。
そのための道具として、自分を使う。
「断る」
即答だった。
考えるまでもない。
阿久津の目が、細くなる。
「……そうかよ」
一瞬だけ、静かになる。
そして。
「じゃあ、これどうすんだ?」
スマホが突き出される。
画面に映っていたのは――
音声データ。
(……また、それ)
再生はされていない。
だが、何が入っているかは分かる。
「バラすぞ」
淡々とした声。
脅しというより、事実の提示。
「お前が飛鳥のことボロクソ言ってたやつ」
胸が、ぎゅっと締まる。
「神城に知られたら、どうなると思う?」
想像は、簡単だった。
「……っ」
言葉が出ない。
「終わるぞ」
静かに言い切る。
「お前も、あいつとの関係も」
沈黙が落ちる。
風の音だけが、やけに大きい。
(……最低)
頭では分かっている。
こんなやつの言うこと、聞くべきじゃない。
でも。
(……知られたくない)
あの言葉を。
あの最低な自分を。
恵に知られるのも、神城に知られるのも。
――怖い。
「一回でいい」
阿久津が言う。
「呼び出すだけだ」
甘い声に変わる。
「それで全部終わる」
(……終わるわけない)
そんなこと、分かっている。
でも。
「……」
声が出ない。
選べない。
その沈黙を、阿久津は肯定と受け取った。
「決まりだな」
そう言って、背を向ける。
「連絡する」
軽く手を振るようにして、その場を去っていった。
残されたのは、重たい空気だけ。
結衣は、その場に立ち尽くしていた。
(……私、どうするの)
答えは出ない。
ただ一つ、はっきりしているのは。
――選ばなきゃいけない、ということ。
風が吹く。
少しだけ冷たい。
その温度が、やけに現実的だった。




