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第13話

朝。


教室の扉を開けた瞬間、空気がわずかにざわついた気がした。


気のせいかもしれない。


でも、昨日までとは何かが違う。


視線の質が変わっている。


(……まあ、そりゃそうか)


昨日の件。


完全に隠しきれるものじゃない。


噂くらいは、もう回っているはずだ。


俺はいつも通り、視線を落としたまま歩く。


一番後ろ、窓際。


自分の席に向かう。


それで終わるはずだった。


「……飛鳥」


足が止まる。


聞き覚えのある声。


でも、ここで聞くとは思っていなかった。


ゆっくりと顔を上げる。


そこにいたのは――沢渡結衣だった。


(……なんで)


一瞬、言葉が出ない。


結衣は、ほんの少しだけ視線を逸らしてから、もう一度こちらを見る。


「……おはよ」


ぎこちない。


明らかにぎこちない挨拶。


それでも。


確かに、こちらに向けられている。


「……ああ」


短く返す。


それだけで、周囲の空気がわずかに揺れた。


ざわ、と小さな音が広がる。


(……やめろよ)


これ以上、目立ちたくない。


そう思った瞬間。


「飛鳥くん、おはよう」


もう一つの声が重なる。


背後から。


振り返るまでもない。


神城香。


いつもの位置。


いつもの距離。


いつもの声。


でも。


「……」


ほんの一瞬だけ、間があった。


それだけで、十分だった。


結衣と香。


二人の視線が、空中で交差する。


ぶつかる、というほど露骨ではない。


でも。


確かに、何かが流れていた。


見えない圧。


逃げ場のない、静かな衝突。


「……」


誰も何も言わない。


でも、周囲の空気が固まっていくのが分かる。


「……席、行くわ」


先に視線を逸らしたのは、結衣だった。


それだけ言って、自分の席へと戻っていく。


足取りが、ほんの少しだけ早い。


(……なんだよ、今の)


理解が追いつかない。


ただ一つ分かるのは。


いつも通りじゃない、ということだけだ。


「ねぇ、恵くん」


すぐ横から声がする。


近い。


距離が、いつもより近い。


「今の、何?」


「……何って」


「沢渡さん」


名前を出す。


わざとらしくなく。


でも、確実に。


「話してたよね?」


「挨拶されたから返しただけだろ」


事実をそのまま言う。


余計なことは言わない。


「ふーん」


短い返事。


それだけで終わるかと思った。


でも。


「どう思った?」


続く。


逃げ道を塞ぐように。


「……別に」


「別に、って何?」


言葉が重なる。


軽い調子なのに、逃げられない。


「普通だよ」


そう答えると。


香は、ほんの一瞬だけ黙った。


「……そっか」


そして、小さく笑う。


いつも通りの、柔らかい笑顔。


――のはずなのに。


どこか、違う。


ほんの少しだけ。


温度が足りない。



授業中。


黒板の文字を追いながらも、意識はどこか散っていた。


前方。


結衣の背中が見える。


特別なことは何もしていない。


普通に座って、普通に授業を受けている。


――はずなのに。


(……なんで気になるんだよ)


自分でも分からない。


もう関係ないはずだ。


そう思っているのに。


視線が、勝手にそちらへ向く。


その瞬間。


「……」


横から、視線を感じた。


ゆっくりと顔を向ける。


神城香。


こちらを見ている。


無表情。


何も言わない。


ただ、見ている。


(……なんだよ)


一瞬だけ、視線が絡む。


すぐに逸らされる。


それだけ。


それだけなのに。


妙に、胸に引っかかる。



昼休み。


弁当を開く。


いつもの流れ。


――になるはずだった。


「飛鳥」


声。


顔を上げる。


また、結衣だった。


「……ノート、貸して」


それだけ言ってくる。


自然な口調。


でも。


どこか無理しているのが分かる。


「……なんで俺に」


「いいでしょ、別に」


少しだけ強い言い方。


引かない。


(……面倒だな)


周囲の視線が集まる。


分かっていてやっているのか。


それとも――


「……はい」


考えるのをやめて、ノートを渡す。


これ以上、関わりたくない。


それだけだ。


「……ありがと」


受け取る手が、ほんの少しだけ震えていた。


その時。


横から、そっと別の手が伸びる。


香だった。


何も言わずに、俺の袖を軽く引く。


視線を向けると。


笑っている。


でも。


目だけが、まったく笑っていなかった。


「ねぇ、恵くん」


優しい声。


柔らかい響き。


「ご飯、冷めちゃうよ?」


それは、ただの一言。


ただのはずなのに。


なぜか、空気が張り詰める。


「……ああ」


短く返す。


結衣は何も言わない。


ただ、ノートを見つめている。


そのまま。


何も起きない。


何も起きていないはずなのに。


(……なんなんだよ、これ)


静かすぎる。


でも。


確実に何かが動いている。


見えないところで。


ゆっくりと。


確実に。



放課後。


帰る準備をしていると。


「……飛鳥」


また声がかかる。


振り返る。


結衣。


さっきよりも、少しだけ真剣な顔。


「今日さ」


言いかけて、止まる。


言葉を選んでいる。


そんな様子だった。


「……やっぱいい」


結局、それだけ言って、視線を逸らす。


(……は?)


意味が分からない。


呼び止めておいて、それか。


「……なんなんだよ」


小さく呟く。


だが、返事はない。


結衣はそのまま、教室を出ていった。


沈黙。


残された違和感。


そして。


「……行こっか」


すぐ横から、声。


神城香。


いつの間にか、すぐ隣に立っていた。


距離が近い。


自然すぎる動きで、腕に触れてくる。


「帰ろ、恵くん」


笑顔。


いつも通り。


でも。


その手は――離れない。


教室を出る。


廊下を歩く。


並んで。


密着するような距離で。


「ねぇ」


ぽつりと、香が呟く。


「今日、楽しかった?」


「……何が」


「全部」


曖昧すぎる問い。


答えに困る。


「……普通だろ」


そう言うと。


香は少しだけ考えてから。


「そっか」


と頷いた。


それだけ。


それ以上は何も言わない。


でも。


繋がれた距離は、変わらない。


むしろ。


少しだけ、近づいた気がした。


(……なんだよ、今日)


分からない。


何もかも。


ただ一つ、はっきりしているのは。


もう。


元の距離には戻れない、ということだけだった。


静かに。


確実に。


何かが変わり続けている。

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