第12話
放課後。
校舎の奥へと続く廊下は、人の気配がほとんどなかった。
部活に向かう足音も、教室に残るざわめきも、ここまでは届かない。
静かすぎる。
その静けさの中で――
「よう、飛鳥」
背後から声がかかった。
振り返るまでもない。
「……何の用だよ」
阿久津昂冴。
壁にもたれかかりながら、薄く笑っている。
その周囲には、見慣れた取り巻きが数人。
逃げ道は、ない。
(……来たな)
予感は、外れなかった。
「ちょっと付き合えよ」
軽い口調。
だが、拒否権がないのは分かっている。
「……断ったら?」
「断らせると思うか?」
間髪入れずに返される。
沈黙。
答えは最初から決まっていた。
「……分かったよ」
そう言うしかなかった。
◇
連れてこられたのは、旧校舎側の空き教室だった。
人気はない。
窓から差し込む西日だけが、やけに明るい。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
――閉じ込められた。
「で?」
俺は壁際に立ったまま、阿久津を見る。
「何がしたいんだよ」
「簡単だろ」
一歩、近づいてくる。
靴音が床に響く。
「お前さ、調子乗ってんだよ」
(……やっぱそれか)
予想通りだった。
「神城とベタベタしてさ」
さらに距離が詰まる。
「自分が何者かになったつもりか?」
「……そんなつもりはない」
本音だった。
でも。
「そう見えてんだよ」
即座に否定される。
周囲で、取り巻きがクスクスと笑う。
「見ててムカつくんだよな」
阿久津の目が、明らかに変わる。
軽さが消える。
代わりに、濁った感情が浮かび上がる。
「だからさ」
肩を掴まれる。
強く。
逃げられない。
「一回、分からせてやるよ」
次の瞬間。
腹に衝撃が走った。
「がっ……!」
息が一気に抜ける。
体が折れる。
膝が床につく。
「おら、立てよ」
髪を掴まれる。
無理やり引き上げられる。
視界が揺れる。
(……やっぱ、こうなるか)
分かっていた。
関われば、こうなる。
だから避けていた。
でも――
「ほら、どうした?」
もう一発。
頬に拳が入る。
視界が白く弾ける。
(……抵抗、するか?)
一瞬だけ、考える。
でも。
すぐに消えた。
(……意味ない)
勝てるわけがない。
ここで何かしたところで、状況は悪くなるだけだ。
だったら――
「……」
黙る。
受ける。
それで終わるなら、それでいい。
「はっ、つまんねえな」
阿久津が吐き捨てる。
「少しはやり返してみろよ」
「……無理だろ」
かすれた声で答える。
それが、さらに気に障ったらしい。
「マジでゴミだな」
その言葉と同時に――
足が振り上げられる。
(……次で、終わりか)
そう思った、その瞬間。
「――そこで何してるの?」
静かな声が、教室の空気を切り裂いた。
全員の動きが止まる。
振り返る。
ドアの前。
逆光の中に立っていたのは――
神城香だった。
◇
空気が、変わる。
さっきまでの重さとは違う。
冷たい。
息が詰まるような圧。
「……神城」
阿久津が舌打ちする。
だが、その声には、さっきまでの余裕がない。
香はゆっくりと教室に入ってくる。
視線は――まっすぐ、こちら。
いや。
正確には。
俺に向けられていた。
「……大丈夫?」
しゃがみ込む。
俺の顔を覗き込む。
その声は、信じられないくらい柔らかい。
「……ああ」
短く答える。
それを確認して。
香は、ゆっくりと立ち上がった。
そして。
振り返る。
阿久津たちの方へ。
「ねぇ」
微笑む。
だが。
目は一切笑っていない。
「今、何してたの?」
誰も答えない。
答えられない。
沈黙。
それ自体が、答えだった。
「そっか」
小さく頷く。
「じゃあ、確認だけど」
一歩、近づく。
「恵くんに手を出した、ってことでいいのよね?」
空気が凍る。
「……別に、大したことじゃねえだろ」
阿久津が言い返す。
無理やり強がるように。
「遊びだよ」
「遊び?」
香が首を傾げる。
その仕草だけ見れば、ただの疑問。
でも。
次の瞬間。
「ふざけないで」
温度が消えた。
完全に。
「それが“遊び”に見えるなら、感覚おかしいんじゃない?」
一歩。
さらに距離を詰める。
阿久津が、無意識に一歩下がる。
「……調子乗るなよ」
声が、少しだけ揺れている。
香は止まらない。
「勘違いしてるみたいだから、教えてあげる」
視線が刺さる。
逃げ場がない。
「恵くんは、あんたたちが踏んでいい人間じゃない」
静かに。
はっきりと。
言い切る。
沈黙。
空気が張り詰める。
「……チッ」
阿久津が舌打ちする。
「だから何だよ」
強がり。
でも。
その裏にある焦りは隠せていない。
その時だった。
香のスマホが、軽く持ち上がる。
「ちなみに」
画面を見せる。
「これ、全部録音してるから」
一瞬で、空気が変わった。
「……は?」
「さっきの暴力も、言葉も、全部」
淡々と続ける。
「先生にも、部にも、必要なら外にも出すけど」
逃げ道を、完全に塞ぐ言葉。
「……っ」
阿久津の顔色が変わる。
初めて、明確な“焦り”が浮かぶ。
「特待生、だっけ?」
香が軽く首を傾げる。
「大事にした方がいいと思うよ?」
それは脅しではなかった。
ただの事実だった。
だからこそ――重い。
沈黙。
数秒。
そして。
「……チッ」
阿久津が目を逸らす。
「今日は……ここまでにしとく」
負けを認めた声だった。
取り巻きたちも何も言えない。
そのまま、ドアへ向かう。
すれ違いざま。
「覚えとけよ」
吐き捨てるように言って、出ていった。
◇
静寂が戻る。
さっきまでの暴力が嘘みたいに。
俺はその場に立ったまま、息を整える。
「……立てる?」
香が手を差し出す。
迷わず、それを取る。
しっかりと。
強く握られる。
「……帰ろ、恵くん」
そのまま、引き上げられる。
支えるように。
離さない。
教室を出る。
廊下を歩く。
誰もいないはずなのに、妙に視線を感じる気がした。
「……なあ」
歩きながら、声をかける。
「なんで来た」
香は少しだけ考えてから、
「たまたま」
と答えた。
「……嘘だろ」
「うん、嘘」
あっさり認める。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「でも、来てよかったでしょ?」
「……まあな」
否定はできなかった。
そのまま、しばらく無言で歩く。
夕焼けが、廊下を赤く染めている。
「ねぇ、恵くん」
ぽつりと、香が言う。
「怖かった?」
「……少しな」
正直に答える。
嘘をつく意味がなかった。
「そっか」
小さく頷く。
そして。
握る手に、少しだけ力がこもる。
「もう、大丈夫だよ」
優しい声。
安心させるような言い方。
でも。
その奥に。
何かが沈んでいる。
「だって」
一瞬だけ、間を置いて。
「ちゃんと排除したから」
――その言葉に。
わずかな違和感が残った。
理由は分からない。
でも。
胸の奥に、引っかかる。
「……帰ろ」
香は何事もなかったかのように言う。
その横顔は、いつもの柔らかいものに戻っていた。
だけど。
さっきの一言だけが。
妙に、頭から離れなかった。
――踏み越えたのは、どちらだったのか。
その答えは、まだ分からないままだった。




