第10話
体育の一件から一夜明けた教室は、明らかに空気が変わっていた。
誰も俺に手を出さない。
――いや、正確には“出せない”。
理由は単純だ。
「飛鳥くん、おはよう」
神城香が、毎朝必ず俺の席に来る。
それだけで、見えない壁が出来上がる。
誰も、その内側に踏み込めない。
昼休み。
弁当を開いた瞬間、横から箸が伸びてきた。
「はい、あーん」
「……自分で食える」
「ダメ。今日は私が食べさせる日」
「そんな日ねぇよ」
小声での押し問答。
だが――周囲の視線が痛すぎる。
刺さる。
見られている。
観察されている。
(……無理だ)
耐えきれず、折れる。
「……あー」
口を開ける。
ぱくり、と食べさせられる。
その瞬間。
ざわっ、と教室の空気が揺れた。
「ねぇ、恵くん」
香が顔を寄せてくる。
距離が近い。
近すぎる。
「もっと頼ってよ」
「……頼ってるだろ」
「足りない」
間髪入れずに返ってくる。
そして、柔らかく笑う。
「だって私、恵くんの“全部”になりたいもん」
軽い調子。
冗談みたいな言い方。
――なのに。
目だけが、まったく笑っていなかった。
◇
放課後。
帰ろうと席を立った、その瞬間だった。
「どこ行くの?」
腕を掴まれる。
反射的に足が止まる。
「……コンビニ」
「一人で?」
「そうだけど」
「ダメ」
即答だった。
迷いがない。
「一緒に行く」
「いや、いいって」
「なんで?」
「ちょっとくらい一人でも――」
「なんで?」
もう一度。
さっきより、少しだけ低い声。
沈黙。
逃げ場がない。
理由を言おうとしても、言葉が出てこない。
結局。
「……わかったよ」
頷くしかなかった。
その瞬間。
香の表情が、ぱっと明るくなる。
「うん。いい子」
まるで、最初から決まっていたかのように。
◇
コンビニ帰り。
夕焼けが、街をオレンジ色に染めている。
並んで歩く帰り道。
香はずっと、俺の腕を掴んでいた。
自然な動作のように。
でも――離さない。
「ねぇ」
ぽつりと、呟く。
「今日、誰かと話した?」
「……普通にクラスの奴と」
「誰?」
「いや、だから――」
「名前」
逃げ道を塞ぐように、言い切る。
仕方なく答えると。
香は少しだけ考えてから、
「……ふーん」
と笑った。
何でもないように。
でも。
腕を掴む指の力が、ほんの少しだけ強くなっていた。
◇
夜。
ベッドの上。
いつものように、香がいる。
距離が近い。
近すぎる。
当たり前みたいに、隣にいる。
「ねぇ、恵くん」
耳元で、囁く。
「今日さ」
息がかかる距離。
「その子と話してる時、楽しかった?」
「……普通だよ」
「普通って何?」
「いや、だから――」
「私とどっちが楽しい?」
空気が止まる。
逃げ場がない。
視線も、距離も、言葉も。
全部が絡みついてくる。
「……比べるもんじゃないだろ」
そう答えた瞬間。
香は――ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。
「……そっか」
小さな声。
そして。
ぎゅっと、抱きついてくる。
逃げられない距離。
「じゃあさ」
耳元で、さらに小さく。
「私のことだけ考えて」
その言葉は。
お願いではなかった。
――命令でもない。
もっと静かで、もっと重い。
“決定”だった。




