第09章 荒れ地の目覚め
土の匂いがした。
それが最初に分かったことだった。
目を開ける前に、土と、草と花、冷えた空気の匂いがした。
王都の匂いではなかった。
石畳と香水と蝋燭と、人々の喧騒が混ざった王都の匂いとは、全く違う匂いだった。
もっと素朴で、もっと静かな匂い。
何もない、ただの大地の匂い。
ゆっくりと目を開けると、空が広がっていた。
建物も旗も何もない、ただ青いだけの空だった。
雲が低く流れていた。地平線まで続く荒れた大地。枯れた木の幹が何本か、灰色の空に向かって突き出していた。
土は乾いていて、ひび割れていた。どこへ向いても、人の気配がなかった。
体を起こそうとすると、頭が揺れた。腕に力が入らなかった。
体全体が重かった。意識はあるのに、体が動かない。
まるで、体が借り物になったような感覚だった。
「起きたか」
声がして、振り返った。岩の上に、男が座っていた。
私より少し年上に見える、背の高い男だった。焦げ茶色の髪は少し乱れていて、顎に短い無精ひげがあった。
鎧ではなく、厚い外套を着ていた。
ただ静かに、こちらを見ていた。
その目が、怖くなかった。それだけで、少し息ができた。
「ここは……どこですか」
「辺境だ。ヴェルムント辺境伯領」
男は近づいてきて、水の入った革袋を差し出した。
受け取って、一口飲んだ。
冷たい水だった。
体の芯に染み込むような感覚がした。
「俺はカイル・ヴェルムント。この土地の領主だ」
「ヴェルムント……辺境伯様」
「堅苦しい呼び方はいらない。カイルでいい」
「なんでここにいるんですか。私」
「昨日、突然空から落ちてきた」
「ずっと、眠っていたんですか?」
「ああ。最初は死んでいるかと思った」
「すぐ、助けてくれなかったのですか!」
「急に空から降ってきた奴を助けられるか」
その声に優しさがあるのかないのか、私には分からなかった。
けど、次の言葉は少しだけ、温度があった。
「でも、生きていてよかった、と思う。本当に」
「……なぜ」問い返してから、変な質問をしたと気づいた。
でもカイルは怒らなかった。少し考えてから、立ち上がって背を向けた。
「見てみろ」
彼の視線の先を追うと、息が止まった。
私が横たわっていた場所から、数十メートルの範囲。
「昨日まで荒れた灰色の土だったはずの地面に——草花が、生えた」
青々とした、柔らかい草花が。
地面を這うように、でも確かな緑で、土の上に広がっていた。
「それと……眠っている間、ずっと、唇が動いていた」
カイルが静かに言った。
「何を言っているかは分からなかった」
私は自分の唇に触れた。
——眠りながら、祈っていたのか。私は。
体が覚えていた。意識のない間も、体に刻まれた癖が、この土地に向かって祈り続けた。
王都では届かなかったものが、ここには届いた。一晩で届いた。
「この土地は、何十年も草が生えなかった。俺が生まれる前から、ずっと。穢れが濃くて、何を植えても枯れる。人も来ない。来たくても来られない場所だ」
「……それが」
「あなたが来た瞬間、これが生えた」
言葉が、出てこなかった。
「この草花が、落下の衝撃を抑えたのかもな」
そっと、カイルの顔を見た。
「……なぜ、あなたが泣いているんですか?」
気づかないうちに、聞いていた。
「俺が?」
カイルは自分の頬に触れた。指先が濡れていることに、初めて気づいたような顔をした。
「……分からない。ただ、この景色を見てたら、そうなってた」
私は泣き方を忘れていたことに、その時初めて気づいた。
どれだけの間、泣けなかったのだろう。
「効果なし」と書かれた日報を見ても、廊下で視線を逸らされても、断罪の壇上に立たされても、一度も泣かなかった。泣く権利があると思えなかった。
頭も冴えてきて、一気に記憶が押し寄せてきた。
目の奥が熱くなった。
私の目からも、ぼろぼろと涙が出ていた。
「すみません、急に」
「おいおい、あんたもかよ。謝る必要はない」
カイルが外套を脱いで、私の肩にかけた。
温かかった。
かすかに土と空気の匂いがした。私はその温もりの中で、声を殺して泣いた。
泣きながら、思った。
——ここには、草が生えた。私の祈りが、届いた。
それは、自分は悪魔でいないこと。
祈りの力は、消えていなかったこと。
それを証明してくれた。
カイルが外套を貸してくれたまま、しばらくの間、二人は草花を見ていた。
「名前は」しばらくして、カイルが聞いた。
「……マリベルです。マリベル・エスタヴィア」
「マリベル」ただ名前を呼んだだけだった。
それだけだった。
でも、その呼び方が、どこか違った。
値踏みでも確認でもなく、ただ、名前として呼んでくれた。
「覚えた」
それだけ言って、カイルは立ち上がった。
そういう人なのだと思った。
余分な言葉を使わない。
でも、優しい人なのかも。
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