第10章 辺境伯の朝食
翌朝も、草花は増えていた。
昨日まで、数十メートルの範囲だったのが、今朝は百を超えていた。カイルが無言でそれを計っていた。
私はその横で、自分が眠っていた場所に手をついた。
土が温かかった。石床と同じ温もりだった。
届いている。ここでも、ちゃんと届いている。
「また増えた」
「……はい。祈るたびに、土地が応えてくれる感じがします」
「どういう仕組みだ」
「正確には……祈りで穢れが薄まるから、もともと土地が持っていた力が戻ってくる感じです。私が何かを生み出しているのではなくて」
カイルは少し考えてから、頷いた。
「分かった」
「……信じてもらえるんですか、そんな説明で」
「草花が増えている。それで充分だ」
あっさりと言われて、私は言葉に詰まった。
カイルの「充分だ」は、違う温度を持っていた。
「証拠を示せ」ではなく、「それが証拠だ」という言葉。
「あなたが何をしているかは見えない。でも、土地が応えている。それが証拠だ」
胸の中で、何かが溶けた。凍りついていた何かが、静かにほどけた。
「……ありがとうございます」
「俺はただ、見たことを言っただけだ」
カイルはそれだけ言って、屋敷の方へ歩き始めた。
「朝食の支度をする。来るか」
「行くところがないので、お邪魔します……」
カイルの屋敷は、広くはなかったが、手入れが行き届いている。
昨日も泊まらせていただいた。古い石造りの建物で、中に入ると、書斎には地図と農業書が並び、厨房には使い込まれた鍋が並んでいた。
一人でこの領地を切り盛りしてきたのが、物の配置から伝わってきた。
朝食は、シチュー。
野菜と豆を煮込んだ、素朴な料理だった。体に染みるような美味しさだった。
「うまいか」
「はい! とても」
「食材は領地で採れたものだ。土地が悪いから大したものは育たないが、それでも食えるものはある」
カイルは自分の椀を見ながら言った。
「土地が良くなれば、もっといいものが食えるようになる」
それは感謝でも依頼でも命令でもなかった。ただの、静かな期待だった。
食事を終えると、カイルは今日の巡回の予定を話してくれた。
「……私も、ついていってもいいですか」
カイルは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「構わない」
村の外れで祈った。土に手を当てて、目を閉じた。
翌朝、その村の井戸の水が増えていた、と知らせが来た。
扉の前に温かいスープが置いてあった。まだ湯気が立っていた。
次の日の朝も、置いてあった。
その次の日の朝も。
扉を開けると、ちょうどカイルが廊下の角を曲がっていく後ろ姿が見えた。
「……カイル様」
足が止まった。振り返りはしなかった。
「体が冷えていると、祈りに集中できないだろう」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
また歩いていった。
私はスープの椀を両手で持って、しばらく立ち尽くした。湯気が顔にかかって、目が熱くなった。
——誰かが、私のことを考えてくれた。
朝食の前に、私が寒くないか、ちゃんと食べられるか、考えてくれた。それだけのことで、鼻の奥が痛くなった。
王都で、誰かに「体が冷えていないか」と聞いてもらったことが、あっただろうか。
「今日も祈りをありがとう」と言ってもらったことが、あっただろうか。
——最初はあった。
だが、祈ることは当然の役割。
感謝されることでも、気にかけてもらえることでもなくなっていた。
ただこなすべき仕事として、それだけとして、扱われてきた。
なのに、ここでは。こんなに素朴な、温かいスープひとつで、こんなに胸がいっぱいになる。
「……ありがとう」廊下に向かって、小さく言った。
カイルの背中はもう見えなかった。でも言わないと、胸がいっぱいで溢れそうだったから。
巡回から帰ると、カイルは毎晩、帳簿に記録をつけた。
どの村の水が増えたか。
土の色がどう変わったか。
草がどのくらい伸びたか。
細かく、丁寧に、几帳面に記録されていた。私はある晩、その帳簿を覗き込んで、思わず息を呑んだ。
「……ずっと、記録してきたんですか」
「ああ。何十年分もある」
「どうして」
カイルは少し考えてから、答えた。
「対策が打てないなら、せめて把握する。どうにもならないと分かっていても、何もしないよりはいい」
私はその言葉を、胸の中に仕舞った。何もしないよりはいい。
それがこの人の、この土地への向き合い方だった。
私の祈りと、似ていると思った。
見えなくても、証明できなくても、続ける。
それだけのことを、二人ともしてきた。
——ここには、私の祈りが届く。
そして今日も、草が増えていた。
この土地は少しずつ、確かに変わっていく。
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