第06章 シャルネという存在
シャルネ・ヴェルトワという令嬢のことを、私は最初、ただの「聖女の才を持つ方」として認識していた。
聖女としての力は本物だと聞いていた。
光の奇跡を起こすことができる。
祝福を与えることができる。
それだけで、この王都では充分すぎるほどの評価を受ける。
着任した頃には彼女はまだ社交の場に出始めたばかりで、私にとって名前を知っている程度の存在だった。
実際に目にした奇跡も、小さなものだった。
光の粒を散らして場を華やかにする、それくらいのものだった。
でも人々は彼女の光に歓声を上げた。目に見える輝きに、心を動かされた。
今の私の祈りは、目に見えない。
その違いが、どれほど大きく見えたか。
初めてきちんと言葉を交わしたのは、春の茶会でのことだった。
その日、私はすでに令嬢たちから避けられていた。
誰の隣にも座れず、端の席に落ち着いた。向かいにシャルネ嬢が座っていた。
「マリベル様、お顔の色が優れませんわね」
彼女は心配そうな顔でそう言った。
声は柔らかく、目には憂慮の色があった。嘘くさいとは、その時は思わなかった。
むしろ、久しぶりに名前を呼ばれた気がして、それだけで少し胸が緩んだ。誰かに名前を呼ばれるということが、あの頃の私にはどれほど貴重だったか。
「ご体調が優れないのなら、神殿のお役目も辛いでしょう。私でよければ、お手伝いできることがあるかもしれませんわ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
私が答えると、シャルネ嬢はゆっくりと瞬きをした。
「……そうですか」
その声の温度が、わずかに下がった気がした。
茶会の後、リナに言われた言葉が頭から離れなかった。
シャルネ嬢の部屋に令嬢が集まり、私の名前が聞こえる。
令嬢たちの態度が揃って変わったのは、その頃からだった。
証拠はない。思い過ごしかもしれない。
でも——令嬢たちの変わり方が、あまりにも不自然に揃っていた。
シャルネ嬢について、もう一つ、忘れられない場面がある。
ある日の午後、神殿の廊下でばったりと鉢合わせた。
彼女は一人で歩いていた。侍女もいなかった。珍しいことだと思った。
二人の間に、しばらく沈黙があった。
「マリベル様は……どうして毎朝祈れるんですか」
突然、彼女がそう言った。
「どうして、というのは」
「効果がないのに。誰にも信じてもらえないのに」
その声は、普段の柔らかな声と少し違った。
何かを確かめるような、探るような声だった。
私は少し考えてから、正直に答えた。
「届いている感触はあります。見えなくても、確かに届いている」
シャルネ嬢はそれを聞いて、静かに目を伏せた。
「……そうですか」
それだけ言って、歩き去った。
あの短い会話の中に、何かが詰まっていた気がしてならない。その問いを投げかけてきたシャルネ嬢の目が、どこか空洞のように見えた。
本当に聞きたかったのは、答えではなかったのかもしれない。
そう言えば、あの廊下での会話の後から、シャルネ嬢は私に一度も目を合わせなくなった。
以前は「心配しています」と声をかけてくれた。
でも、あの日以来、完全に私の存在を視界に入れないようにしていた。
まるで——見てはいけないものを見た、とでもいうように。
◆
廊下でレナード殿下とシャルネ嬢が並んでいる場面を見るようになったのは、夏の頃からだった。
公式な場ではなかった。
廊下で、庭で、宴の後の談話室で。
いつの間にかそこにいる、という感じだった。
ある夕方、廊下の角で立ち止まった。
曲がった先から、殿下の声がしたからだ。
低く、押し殺したような声だった。
「……もう少し時間が必要だ。今は動けない」
「分かっています。でも、あまり長くはできません。国のことを考えれば……早い方がいい」
「……ああ。分かっている」
「あの人の祈りは、もう届いていませんので」
私は角を曲がれなかった。
踵を返して、神殿へ向かった。
歩きながら、手が小さく震えていることに気づいた。
寒いわけではなかった。
——早い方がいい。
それが何を指しているのか、私には分からなかった。
神殿に駆け込んで、祭壇の前に跪いた。
膝をついた瞬間、石床の温もりが伝わってきた。
いつもの、あの感触。届いている。ここには届いている。
——お願いです。
私が何も知らないままでいいから、ただここにいさせてください。
——この土地を。
——この国の民を守らせてください。
その夜は、温もりを感じる前に涙が出た。
膝をついたまま、しばらく動けなかった。泣いている場合じゃない、と思った。
泣いても何も変わらない。
ここで泣いていても、誰にも見えない。聞こえない。届かない。
——それが、一番惨かった。
祈りは届いていないと言われた。
それでも、祈ることをやめなかった。
やめられなかった。
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