第03章 婚約、そして誓い
婚約の申し出があったのは、秋の始まりのことだった。
王宮の奥庭は、ちょうど木の葉が色づき始めていた。
赤と橙と黄が混じり合って、夕方の光を受けてきらきらと輝いていた。こんな場所で、こんな話をされるとは思っていなかった。
「マリベル嬢。あなたを婚約者として迎えたい」
レナード殿下は真剣な顔で言った。回りくどい前置きは一切なかった。
私は咄嗟に、何も言えなかった。
「この国の聖女が、王家と結びつくことには政治的な意義がある。あなたの力をより安定した形でこの国のために活かすためでもある。合理的な判断だと思っている」
合理的な理由だった。感情的な言葉はひとつもなかった。
「……私でよいのですか」
「あなたがいい。だから申し出ている」
奥庭の隅に、古い石のベンチがあった。苔が生えていて、長い間誰も使っていないことが分かった。でも、秋の光がそこだけ温かく当たっていた。殿下が婚約を申し出た後、しばらく二人でそのベンチの傍に立っていた。話すことがなかったわけではないが、言葉を出すタイミングが分からなかった。
「……質問をしてもよいですか」
私が言うと、殿下はわずかに眉を上げた。
「どうぞ」
「殿下は……婚約者に、何を求めますか」
少し間があった。殿下は木の葉が一枚落ちるのを目で追ってから、答えた。
「誠実さと、この国への献身。それ以上は求めないよ」
「恋愛のようなものは……」
「それは、時間をかけて育むものだろう」
感情的な言葉ではなかった。でも、「育む」という言葉を使ったことに、私は密かに驚いた。
この人も、何かを望んでいるのかもしれない、と思った。
「……はい」
私は小さく頷いた。
「お受けいたします」
婚約の儀式は秋の深まりに行われた。
王都中に花が飾られ、民が広場に集まって祝福の声を上げた。
私は白い花冠を頭に載せて、殿下の隣に立った。殿下が私の手を取り、金の指輪をはめた。冷たい金属が指に触れた瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。
民が歓声を上げた。
「聖女様、おめでとうございます」
「マリベル様!」
その声の温もりは、ちゃんと全部受け取れた。
——この国を守ろう。もっとうまく、もっと深く、もっと全力で。
婚約したことで、この国との縁がもう一層深くなった気がした。逃げ場がなくなった、ではなく、居場所がひとつ増えた、という感覚だった。
儀式の後、殿下に一度だけ「ありがとうございます」と言った。
殿下は少し首を傾けて「何が」と返した。
「婚約してくださったことで、私がこの国に根付けた気がします」と答えると、殿下はしばらく沈黙してから「そうか」とだけ言った。
それだけだった。
でも、その言葉に、何かが詰まっている気がした。
儀式を終えて神殿に戻り、一人で祈祷書を読んでいたとき、ふと古い頁が目に留まった。
神殿に伝わる禁術についての記述だった。
「禁術は術者にも代償を刻む。その傷は、取り消しを知らない」
難しい言葉で書かれていたが、その一文だけは妙に平易で、すっと頭に入ってきた。
なんとなく気になって、頁の角を少し折った。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。ただ何となく、覚えておきたかった。
その夜、神殿の石床に手を当てると、いつもより深く温かかった。
私は目を閉じて、静かに微笑んだ。大丈夫。祈りは届いている。この国は、きっと大丈夫だ。
婚約指輪の重さを指に感じながら、その夜は穏やかに眠れた。
あの夜の幸福を、私は今でも覚えている。あれは本物だった。
少なくとも、私にとっては。
でも——あの幸福は嘘ではなかった、と今も思う。あの夜の私が感じた温もりは、作り物ではなかった。
だから余計に、今がこんなにも冷たく感じるのかもしれない。
幸福だった記憶があるから、今がひどく痛い。
それが惨いことなのか、それとも幸運なことなのか、私にはまだ分からない。
ただ、覚えていたかった。
これがまだ、温かかった頃の話だ。
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