第02章 奇跡の聖女と呼ばれた日々
三年前の春。
私は初めて王都の神殿に足を踏み入れた。
石造りの天井は高く、冷えた空気が肌にまとわりついた。
生まれ育った小さな町の、古びた礼拝堂とは全く違う場所だった。磨かれた大理石の柱、金箔で縁取られた祭壇、天窓から差し込む光が祭壇の上で揺れていた。床に映る自分の姿を見て、私はまた場違いだと思った。
着任の挨拶を済ませて、まず祭壇の前に跪いた。
祈り方は、物心ついた頃から知っていた。
目を閉じて、意識を胸の奥に向ける。じわりと何かが広がる感覚がある。光ではない。熱でもない。もっと静かな、水が土に染み込むような感覚だ。それが地面に降りて、広がって、どこか遠くまで届く気がする。
気がするだけで、証明する方法は何もない。
でもその日の朝、神殿の石床が温かくなっていた。
祈りを終えて立ち上がったとき、跪いていた部分の石畳が、わずかに温もりを持っていた。
私は驚いて、もう一度手のひらを押し当てた。じんわりと、確かな温もりが伝わってくる。石は冷たいものだ。それが温かい。
これは——気のせいではない。
そう確かめていると、扉が勢いよく開いた。
「聖女マリベル様! お早う御座います! さ、先ほど、枯れ井戸に水が——!」
神官の若者が声を裏返しながら飛び込んできた。
頬が上気していて、目には涙が光っていた。息が切れていた。相当な速さで走ってきたのだと分かった。
王都の北側にある古い井戸のことは聞いていた。
三年前から涸れたままで、何をしても水が戻らないと言われていた場所だ。
私は彼の後について走った。聖女の礼服に泥が跳ねるかもしれないと思ったが、そんなことを考えている場合ではなかった。
井戸の周りには、すでに人だかりができていた。老人が膝をつき、子供たちが笑い声を上げて水を掬っている。清水が、石の底から滾々と湧き出ていた。
誰かが私の存在に気づいて叫んだ。
「聖女様だ! 聖女様がお越しになった!」
人々の声が波のように広がった。知らない人の手が私の手を握り、震える声で「ありがとう」と言った。
老婆が「三年間、待っていました」と泣いた。
子供が「水が出た、水が出た!」と飛び跳ねた。
私は何も言えなかった。胸がいっぱいで、ただそれだけだった。
感謝を受け取ることに慣れていなくて、「お役に立てて良かった」と思うことしかできなかった。
それが始まりだった。
◆
翌週、北の村で流行っていた熱病が嘘のように退いた。
翌月、不作続きだった麦畑に、丈の揃った穂が実った。
病に伏していた子供が「お腹が空いた」と笑い、その母親が声を上げて泣いた。干上がりかけていた川に水が戻り、魚が跳ねた。
祈るたびに、何かが応えた。目に見えて、誰の目にも明らかな形で。
「奇跡の聖女」と人々は言った。
私はその言葉が好きではなかった。
奇跡というほど大袈裟なものではない気がしたから。
ただ届いている。祈りが届いているだけだ。
王宮の宴に招かれたのは、着任から二ヶ月が過ぎた頃だった。
宴の会場に入ったとき、一番最初に気づいたのは香りだった。
蝋燭の煙と、料理の香り、令嬢たちの香水が混ざった、王宮の宴特有の匂い。私の故郷では嗅いだことのない匂いだった。
場違いだと思いながらも、その匂いを全部吸い込んで、飲み込んで、ここに慣れようとした。慣れなければここには居られない。
居続けるためには、溶け込まなければならない。そう思っていた。でも、溶け込むことと、消えることは、違う。その境界線がどこにあるのか、あの頃の私にはまだ分からなかった。
私は礼服の裾を何度も確かめながら、磨かれた大理石の廊下を歩いた。自分の姿が床に映るたびに目を伏せた。
「マリベル嬢」
振り向くと、レナード・ヴァルディア殿下が立っていた。王太子だった。
金の刺繍が入った紺の外套、きっちりと整えられた黒髪、涼しい目元。隙のない人、という印象だった。感情を表に出さない、全てを計算した上で動く人間の顔をしていた。
「あなたの祈りは、この国に必要なものだ」
淡々とした声だった。称賛でも求婚でもない。静かな、事実の確認のような言葉だった。
それなのに、私の心臓はどうかしてしまったように鳴った。
必要、という言葉が、胸の奥の柔らかい部分に触れたのだと思う。
誰かの役に立ちたいという気持ちが、私の中にずっとあったから。「必要だ」と言われると、それだけで全力を尽くしたくなってしまう。
今から思えば、それが最初の間違いだったのかもしれない。
でも、その時の私には分からなかった。
ただ、「この国のために全力を尽くそう」と思うだけだった。その気持ちに、一点の曇りもなかった。
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