第18章 空気を入れ替える
七日が経った朝、神殿の老神官が地図を持ってきた。
「……見ていただけますか」
広げられた地図の上、赤い線が、わずかに後退していた。先週まで侵食されていた農地の一角に、色が戻り始めていた。
地図の数値が、以前より低い値を示していた。
「七日間で、穢れの濃度が四割近く下がりました」
老神官の声が、かすかに震えていた。
「記録にある限り、これほど急速な回復は——」
「かつてなかった?」
「……三年前以来です。あなたが最初にここに来られた頃」
神殿の中に、沈黙が広がった。
外では、雨が降り始めていた。
静かな、穏やかな雨だった。
王都の空からこんな雨が降るのを、私は久しぶりに見た。
土が、水を吸っていた。
市場の前で、子供が空に向かって手を伸ばしていた。
「お母さん、雨だ!」と叫ぶ声がした。母親が笑っていた。
神殿の中に、廷臣たちが集まってきた。
老神官が、もう一つの資料を広げた。
マリベルが在任していた三年間の記録と、その後の記録を、並べて示した地図だった。
数値が、一目で分かる形で並んでいた。
マリベルが在任していた三年間——穢れの増加速度は一定のペースで抑えられていた。
マリベルが断罪されてから——数値は急激に上昇した。わずか一ヶ月で、三年分の上昇を超えた。マリベルが戻ってきてから——七日で、四割の回復。
誰も、声を上げなかった。
廷臣たちが、数値を見た。老神官が、数値を見た。シャルネが、数値を見た。そして全員が、同じことを理解した。
「……これは」
殿下が、部屋の奥から言った。
「これは、マリベルが特別に優れていたというだけで——」
「殿下」
シャルネが口を開いた。
その声に、かつてのような柔らかさはなかった。ただ、静かだった。
「この数値は、嘘をつきません。三年間、マリベル様は一人で、この国の崩壊を食い止めていました。目に見えなかっただけで、確実に。そして私たちは、その事実を『効果なし』と記録し続けた」
殿下は何か言おうとした。
でも続かなかった。
廷臣たちの視線が、殿下に向いていた。責めているのではなかった。ただ、理解してしまった目だった。否定できない事実を前にして、全員が同じ場所を見ていた。
「悪魔でなければ効かない。悪魔であれば消滅する」
老神官が、静かに言った。
「あの日、広場で殿下がそうおっしゃいました。しかし——消滅せず、転移されたマリベル様がここに立っておられます。転移先では草が生え、土地が回復した。これは悪魔の所業ではありません」
「そしてマリベル様が王都に戻られてから七日、穢れが急速に回復しています。これもまた、悪魔の所業ではありません」
沈黙が、部屋に満ちた。
雨が、窓を叩いていた。
「レナード殿下。禁術の使用、虚偽による公開断罪、聖女への不当な処遇。これらは王国法において重大な違反に当たります。それを今、この場で申し上げなければなりません」
殿下の口が、動いた。
「やったのは、シャルネだ! それに、お前らもマリベルの力を見抜けなかっただろう!」
「そうです……なので私たちも償うつもりでいます」
何かを言おうとした。でも、声が出なかった。
部屋の全員が、殿下を見ていた。
責めているのではなかった。
ただ、待っていた。
理解した人間の目で、ただ、待っていた。その沈黙が、どんな言葉よりも重かった。
処分は、翌日に下された。
禁術の使用による王位継承権の剥奪。シャルネとの婚約解消。国政への関与禁止。弟君が王位継承の第一候補として指名された。
発表があった日、広場は静まり返っていた。
怒号も歓声もなかった。ただ、人々が静かに立っていた。
農地の一角で、農夫が膝をついた。
土に手を当てて、しばらくじっとしていた。
それから、声を上げて泣いた。傍にいた若者が、農夫の肩を抱いた。
「……お父さん」
「戻ってきた。この土が——戻ってきた」
神殿の外では、そういう場面があちこちにあった。
泣き崩れる人。
座り込んで空を見上げる人。
怒号はなかった。
歓声もなかった。
ただ、張り詰めていたものが切れるような、静かな解放があった。
処分が下された翌日、弟君が執務室に入った。
レナードに従っていたものは一新され、変化の期待が高まった。
私はその場にいなかった。
でも後から聞いた。弟君が最初にしたことは、窓を開けることだったと。
閉め切られていた窓を全て開け、王都の空気を入れ替えたと。
小さなことだった。
でも、その話を聞いて、なぜか胸が温かくなった。
正しいことをしようとする人が、また一人、この場所に立ったのだと思った。
私はその場に立っていた。三年間、誰にも見えなかったものが、数値という形で、全員に届いた。
雨はまだ、降り続けていた。
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