第17章 祈りが、届く
神殿の内部は、疲弊の匂いがした。
使い切った香の残り香。油の切れた蝋燭。床には儀式の痕跡が残っていた。描かれた紋様が崩れかけていた。
壁際に座り込む神官が数人いた。顔を上げる余力も、もはやなかった。
シャルネが地図を広げた。
「これが、現在の穢れの分布です」
赤い線が、地図の上に網の目のように走っていた。
王都の中心から広がり、周囲の農地まで侵食していた。
「三日前の調査では、中心部の穢れ濃度が限界値の九割を超えました」
シャルネは震える声で続けた。
「あと三日、このまま進行が続けば——」
「崩壊する」
「……その通りです」
シャルネは唇を噛んだ。
「複数の聖女を集めて浄化を試みましたが、焼け石に水でした。一時的に濃度を下げても、翌日には元に戻ってしまう。進行を止めることすら、できていません」
私は地図を見た。
三年間、私が一人で食い止めていた。
その私がいなくなってから、どれだけ急速に悪化したか——この赤い線が、全てを物語っていた。
「……やってみます」
「え?」
「今日、みんなで祈りましょう。あなたたちの力も借りて」
シャルネが、少し驚いた顔をした。
「私たちの力を……借りるんですか。あなたを、こんな目に——」
「今はそれより、民のことが先です」
私は神殿の中央に向かった。
礎石の前に跪いた。
目を閉じた。胸の奥から、じわりと広がる感覚がある。
届いている。王都でも、まだ届く。
「シャルネさん。隣に来てください。他の方々も」
「それぞれ、できる形で祈ってください。私に合わせなくていいです。ただ、届けることだけを考えて」
深く、息を吸い込んだ。
——お願いです。この土地を守らせてください。
胸の奥から、広がっていく。
隣でシャルネが光を放ち始めた。いつもより小さな光だった。
でも、確かに届こうとしている光だった。
他の聖女たちの祈りが、重なっていく。
その瞬間、何かが変わった。
一人の時とは、違う広がりがあった。
私の祈りが、他の人々の祈りと絡み合って、大きくなっていく感覚。
一人では届かなかった深さに、届いていく感覚。
「……」
シャルネが息を呑んだ気配がした。
夜が明けた頃、私は礎石から手を離した。
シャルネが傍に来た。
「……今まで感じたことがありませんでした」
「何が?」
「届いている、という感覚です」
シャルネは自分の手のひらを見た。
「光を放つことはできます。でも、それが地面に届いているかどうか、正直、分からなかった。ただ、放っているだけでした。でも今夜、初めて——何かが応えてくれる感触が、ありました」
「そうですか」
「あなたが隣にいたからかもしれませんが」
「そうかもしれません。でも——あなたが届けようとしたから、届いたんだと思いますよ」
数日が経った。
穢れの濃度が、確実に下がっていた。
市場の野菜の色が戻り始めた。
井戸水が澄んだ。
子供の咳が減った。
神殿の前に民が集まる日が続いた。
「マリベル様のおかげです」という声が、繰り返し聞こえた。
一方、殿下の言動は変わらなかった。
「なぜ、まだ効果が出ていない区画があるのだ」
執務室で怒鳴り声がした。
廷臣たちの顔が、こわばっていた。
私はその声を廊下で聞きながら、何も言わなかった。言う必要はなかった。
カイルが、廊下の柱に背をもたせかけていた。
「……怒らないのか」
「今は、民のことが先です」
「そうか」
カイルはそれだけ言った。
でも、その目は廊下の奥——殿下の執務室がある方向を、静かに見ていた。
ある夜、神殿の帰り道でカイルが並んだ。
「ずっと黙っているが、何か考えているのか」
「……少し」
「何を」
「ここに来て正解だったと思っています。でも、帰りたいとも思っています」
カイルは少し間を置いた。
「帰る、というのは」
「カイル様の村に」
「……そうか」
カイルの声が、わずかに変わった。
何かがほどけるような変化だった。
「急がなくていい。でも——皆、待っている」
その言葉を、私はしっかりと受け取った。
待っている。
その言葉が、胸の奥で温かく灯り続けた。王都にいる間、何度もその言葉を思い出した。
疲れた夜に、眠れない夜に、その言葉が私を支えた。
帰る場所がある。
帰りを待っている人がいる。
それだけで、次の朝が来た。
帰る場所があるということが、こんなにも人を支えるとは、王都にいた頃の私には分からなかった。
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