第15章 民を守るために
「戻ることを、考えているか」
夕食の後、カイルが静かに言った。
私は少し驚いて、顔を上げた。
「……報せのことでしょうか」
「ああ」
カイルは卓の上に、例の文書を置いた。
「マリベルの所在を知る者は速やかに報告を」という一文が、そこにあった。
「カイル様は……どう思いますか」
「あなたが決めることだ。俺が口を挟む話ではない」
「でも——教えてほしいのです。カイル様の目から見て、この状況を」
カイルはしばらく考えてから、口を開いた。
「王都が崩壊すれば、この国は乱れる。隣国が動く可能性がある。国境付近にあるこの村は、まず最初に戦場になる」
「……では」
「ただ」
カイルは続けた。
「この村の民は、長い間、荒れた土地で生き続けてきた。どんな状況でも戦う意思がある。それがこの村の誇りだ。国が滅んだとしても、俺はこの村を守る」
その言葉に、どれほどの覚悟が詰まっているか。私には分かった。
「……でも、死んでしまうかもしれない」
「そうかもしれない」
カイルは揺れなかった。
私は卓の上に視線を落とした。王都に戻る。
また、あの場所に。
断罪された場所に。
「悪魔」と呼ばれた場所に。
——そう思うと、胸の奥から、痛みに似た何かが込み上げてきた。
でも。
耳の奥に、声が蘇った。断罪の広場で、意識が白く消えていく瞬間に聞いた、最後の声。
「でも……あんなに優しかった方が……」
あの声。
誰が言ったのか、分からない。
名前も顔も知らない。
でも、誰かが、そう言ってくれた。民の中の、誰かが。その声が、ずっと胸の中に残っていた。
この一ヶ月で見てきた村の人々の顔が浮かんだ。
井戸の水が増えたと喜んだ老人。「マリベル姉ちゃん」と呼んでくれた子供たち。草が芽吹いた朝、涙を流した古老。
彼らが、戦場になるかもしれない。
「……カイル様」
「ん」
「私は、民を守るために聖女になりました」
カイルは静かに、私を見た。
「王都の民も、この村の民も、同じ人間です。私が祈ることで救えるなら、祈らなければなりません」
「……無理をするな」
カイルの声が、わずかに低くなった。
「あなたはすでに、十分すぎるほどのことをしてきた。あなたが戻らなくていい理由は、いくらでもある」
「分かっています。戻れば、また同じ扱いを受けるかもしれない。それも、分かっています。それでも——」
「それでも」
「私はここで、祈りが届くことを知りました。見えなくても、届いている。それを信じて続ければ、いつか必ず。カイル様が教えてくれたことです」
私は言葉を少し溜めてから続けた。
「だから——王都に戻ります。また断罪されるかもしれない。また邪魔者扱いされるかもしれない。それでも、国の民が傷むのを見ていられない」
沈黙が、部屋に満ちた。
カイルは、しばらく私を見ていた。
その目が、何かを考えているような、何かを決めているような目だった。
「……一つだけ、聞かせてくれ」
「はい」
「戻りたいのか。それとも、戻らなければならないと思っているのか」
その問いは、鋭かった。
私は、正直に答えた。
「……戻りたくは、ないです。でも、戻らなければならないとも思っています。そして——民を守りたい、という気持ちだけは、本物です」
カイルは頷いた。一度だけ、静かに。
「分かった」
カイルは立ち上がった。
「支度を整える。馬の手配と、道中の護衛も俺が出る」
「カイル様が——」
「一人で行かせるわけにいかない。俺も一緒に行く」
「でも、この村が——」
「俺の民は皆、優秀だ」
カイルは扉に手をかけた。
「明朝、出発できるよう準備する。今夜はゆっくり休め」
「……カイル様」
足が止まった。振り返らなかった。
「ありがとうございます」
カイルは答えなかった。でも、扉を開ける前に、一瞬だけ立ち止まった。
「……大丈夫だ」
その声は、低かった。
静かだった。
でも、その一言に、どれだけの気持ちが詰まっているか——私には、分かった気がした。
扉が閉まった。
私は一人、部屋に残された。窓の外に目を向けると、東の方角に花畑が見えた。月明かりの中で、白と黄と薄紫の花が揺れていた。
——この花畑が、戦場になってしまうかもしれない。
そう思うと、胸が締め付けられた。
でも、祈りは消えない。
届いた場所で、根を張り続ける。私がこの土地に届けた祈りは、たとえ私がここを離れても、消えない。この土地が覚えている。この人々が覚えている。それだけを、信じよう。
翌朝、カイルが馬を引いて待っていた。空は曇っていたが、東の方角だけが明るかった。花畑の上に、朝の光が差していた。
「準備はいいか」
「はい」
「道中は、俺が守る。余計なことは考えなくていい」
余計なことは考えなくていい。その言葉が、じんわりと胸に広がった。
誰かが「守る」と言ってくれる。それだけで、足が前に進む気がした。
私は礎石のある場所に向かった。手を当てて、目を閉じた。短く、祈った。
——ここを、守ってください。
土が、温かかった。
「……行きましょう」
カイルが頷いた。馬が、ゆっくりと動き出した。
私は前を向いた。花畑が、遠ざかっていった。でも、風の匂いは、まだここにあった。
私は前を向いて、進み出した。
王都に向かうために。
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