「エピソード53 賢闘士編:『プロメテウスは告げる、自らを擬製にして-エピメテウスは世を憂う-』」
【賢闘士編とは何ぞや、という話をしなければならない。それは、自由と秩序という永遠のテーマを巡る対立である。ニカイア公会議を彷彿とさせる宗教的背景のもと、彼らは相対する】
自由とは何か。
性別とは何か。
身分とは何か。
【人が定めた境界は、果たしてどこまで「現実」と呼べるのだろうか。そして、その「虚」の境界を定め、牛耳り、制御する者は誰なのだろうか】
【では、宣言して貰いましょう? 誰が尤も正しく、誰がこの世界を御せる者なのか。さあ、決めて貰いましょう……】
――さあ、扉を開きましょう。
言葉を武器とし、理を掲げ、互いの正しさを以て争う「賢闘士」たち。
その戦いを、どうぞ最期まで見届けましょう。
≪『プロメテウスは告げる、自らを擬製にして-エピメテウスは世を憂う-』のプロットとプロセスについて≫
作者である私は、ローマのコロッセオが未だに存在する世界として、この物語を構築した。現実の歴史においてローマに残された遺産を、この世界ではアイルランドに配置する。
それは歴史の再現ではなく、歴史が別の形で連続していった可能性を示すためである。過去に築かれたものが、場所を変え、意味を変え、それでもなお残り続ける。
その象徴として、私はコロッセオをアイルランドに置いた。しかし、円形の建造物を舞台にする以上、描写には一つの問題が生じる。読者に、その場所がどのような構造で、どれほどの広さを持つのかを理解して貰わなければならない。
円形である以上、視点は一方向だけでは収まらない。誰かが歩き、振り返り、別の場所へ移動する。その度に見える景色が変わる。つまり、登場人物の移動そのものを利用して、コロッセオの全体像を少しずつ描いていく必要がある。
いわば、三百六十度の視点移動である。建物を説明するのではない。人を動かすことで、建物そのものを読者に見せる。私にとって、コロッセオを舞台にするということは、そういう空間描写まで引き受けることだった。この行為が非常に厄介だったことを申し上げる。
≪視点誘導のシーン割≫
冒頭、主人公たちは言論会に参加するため、正面の扉を開く。その後、彼らとは入れ違うように、反対側の扉からルキウス卿と二名の貴族が入ってくる。この場面でまず意識してもらいたいのは、コロッセオの中心が円環状の空間になっているということだ。
文章だけで説明すれば、少々分かりにくい。だからこそ、登場人物を空間の両端に配置する。簡潔に言えば、ボクシングのリングを想像してもらえればいい。
主人公たちが一方のコーナーから入り、ルキウス卿たちは反対側のコーナーから入る。
この二つの動線によって、読者には「この場所は一本道の部屋ではなく、中央を挟んで円環状に広がっている」という認識を持って貰う。
以降の描写では、人物が移動する度に、その空間の広さや位置関係が少しずつ見えてくる。つまり、最初からコロッセオの全景を説明するのではない。登場人物を動かしながら、読者自身にその場所の形を把握して貰おうと思った。
円柱に囲まれた空間では、微かなささやきが耳に届く。
貴族たちは身を寄せ、ひそひそと囁き合う。修道士たちは短い視線を交わし、その場の空気を窺っている。そこは、さながら古代ギリシアの弁論会を思わせる造りになっていた。座席は左右に分かれ、その中央には弁論者が立つための演壇が設けられている。
弁論者は、ただ言葉を述べればよいわけではない。観衆全体から問いを投げかけられ、それに応じなければならない。どこから飛んでくるか分からない問いに答え、己の論を示し、観衆を納得させる。
故に、求められるのは論理だけではない。声の張り方、立ち振る舞い、視線の配り方。その場にいる全員へ、自らの言葉を届けるための「演技」すらも、弁論の一部となる。これは一対一の問答ではない。弁論者は、円環の内側にいる全員を相手にしなければならない。
コロッセオ内には、弁論会を見届けるモブとして、修道士や貴族たちが席に着いている。彼らは、ただそこにいるだけの観客ではない。
修道女がこの弁論会へ参加することに対し、修道士たちは強い懸念を抱いている。一方で、貴族たちは修道士や修道女といった宗教者そのものを快く思っていない。つまり、この場には最初から複数の対立が存在している。
貴族は修道士たちを疎み、修道士たちは修道女の参加を疑問視する。そして、この状況はアリウス派とニカイア派を巡る対立が一段落した後に置かれている。宗派間の問題が解決したからといって、宗教を巡る境界が消えたわけではない。今度は「修道女が弁論の場に参加すること」が、新たな問題として浮かび上がっているのである。
そのため、場面は特定の人物だけを追い続けるのではなく、貴族の囁き、修道士たちの視線、修道女への反応へと、シームレスに移動していく。読者には、誰か一人の感情を説明するのではなく、会場全体が何かを警戒しているように感じて貰いたい。弁論が始まる前から、既にこの場所には複数の「正しさ」が存在しているのである。
そして、この場を静止させるようにレオニウス司教が登場する。この場には、彼を含めて三人の司教がいる。ここで読者には、レオニウスという人物が「原点主義者」であることを意識してもらいたい。
彼は、性別や身分といった社会的な属性を判断の基準にはしない。彼が拠り所とするのは、あくまで経典である。
だからこそ、彼が登場した瞬間、それまで会場を満たしていた貴族たちの囁きや修道士たちの視線が止まる。レオニウス司教は、この弁論会における「正しさ」の一つの基準として立つのである。
「皆、落ち着きたまえ……声を荒げることなかれ。神の前にあって、動揺は無意味である」
彼にとって、この場で重要なのは誰が何者であるかではない。神の前にあって、何が正しいのか。その一点を基準としているのである。
レオニウス司教は、既に会場へ向けて宣言をしている。しかし、この時点ではまだ司教壇には立っていない。彼は司教専用の通路から登場しているため、これから司教壇まで移動する必要がある。
そのため、レオニウス司教が「皆、落ち着きたまえ……」と場を制した直後に、彼が司教壇へ向かって急いで移動する描写を差し込んでいる。
この移動は、ナーレの視点によって初めて明らかになる。読者はナーレと同じ視点で、レオニウス司教がどこから現れ、どこへ向かっているのかを把握することになる。
そして、レオニウス司教が司教壇へ到着したところで、ようやく残る二人の司教、レオニウス司教とカリスト司教が司教壇に揃う。つまり、この移動描写は単なる「急いでいる」という演出ではない。誰がどこにいるのかという舞台上の位置関係を、ナーレの視点から読者に確定させるための描写なのである。
レオニウス司教が司教壇へ到着したことを視認すると、レオニウス司教とカリスト司教は互いに頷き合う。二人は十字を切り、弁論会の開始を神へ宣言する。ここまでが、序章のシーンとなる。
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≪弁論会の開始を神へ宣言について≫
ここでいう「弁論会の開始を神へ宣言する」とは、弁論会の開始に際して、参加者たちが神の名のもとに宣誓することを指している。
ただし、こちユルでは、その神の名前自体を発音することはない。
本編においても、宣誓の言葉は、「――******!」声は石の壁に幾重にも波紋となって、聴く者の胸に振動として届いた。という形で描写され、神の名そのものは明記されていない。
つまり、神の名を口にすることなく、それでも神の名のもとに誓う。では、何故、神の名前を宣言しないのか。宗教について理解のある方なら、ここで何を意図しているのか、なんとなく察しがつくかもしれない。
これは単なる演出上の都合ではない。神聖な存在の名を、誰もが容易に口にしてよいものとして扱ってはいないのである。
※ここで少し宗教的な話をしておきたい。こちユルにおいて、神の名前を明確に発音しない理由には、実際の宗教史における「神の名」の扱いを下敷きにしている。
たとえば、旧約聖書に登場する神の名として知られる「YHWH」は、いわゆるテトラグラマトン、四文字神名である。
しかし、この四文字を見て、現在の私たちが「ヤハウェ」と読んでいるからといって、それが当時の人々によって実際にそう発音されていた神名だと断定できるわけではない。つまり、現代における「ヤハウェ」という呼称そのものが、後世の研究や再構成によって成立した側面を持っている。神の名を記している。しかし、その正確な発音は分からない。
それでも、人々はその神を指し、祈り、呼びかける。ここが、今回の描写に繋がっている。こちユルでは、神の名を明確な音として読者へ提示しない。
「――******!」
宣誓そのものは確かに行われている。しかし、そこに用いられた神の名を、読者は知ることができない。これは単なる伏字ではない。「神の名を知っているから神を呼べる」のではなく、「神を呼んでいるにもかかわらず、その名そのものは人間には確定できない」という構造を、この世界の描写へ取り込んでいるのである。だからこそ、神の名は発音されない。
――残るのは、石造りの空間へ響き渡る声だけである。
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≪弁論会の後半について≫
弁論会の後半では、リヴァナとアストレアが、自由と節制、そして貴族と平民という立場を巡って、互いの思想をぶつけ合う。
しかし、彼女たちは次第に、それぞれが立つ「境界」そのものを巡って論じ始める。
自由とはどこまでを自由と呼ぶのか。
節制とは、誰が、何を基準として定めるのか。
貴族と平民を分ける境界は、何によって成立しているのか。
互いに自らの立場を主張するうち、弁論は単なる質疑応答ではなくなっていく。レオニウス司教は軽く眉を寄せ、カリスト司教は唇を引き結ぶ。そしてアウレリウス司教は、ゆっくりと手を上げ、十字を切った。
司教達ですら、もはや容易には収拾できない。そんな状況の中、ついにレオニウス司教が言葉を漏らす。「なるほど……各々の道を主張する姿は、我らの予想を超えている」半ば音を上げたような言葉だった。貴族たちは互いに囁き合い、修道士たちは視線を交わしながら、尚も弁論会を見つめている。
「これは……結論が割れたままなのか?」
「いや、司教たちもその意図を察しているようだ……」
そんな声が弁論会を包む。結論は、ひとつに定まらない。しかし、それは弁論が失敗したということではない。それぞれが自らの立場から、異なる「正しさ」を示したのである。
そして、レオニウス司教は次の弁論者を召喚することを宣言する。ここで、『プロメテウスは告げる、自らを擬製にして――エピメテウスは世を憂う――』の物語は一区切りとなる。
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≪タイトルの由来について≫
タイトルの由来は、見ての通り、ギリシア神話に登場するプロメテウスとエピメテウスを基にしている。彼らの名が持つ意味や、二人が神話の中でどのような役割を担っているのかを踏まえると、この物語との繋がりが見えてくるかもしれない。
そして、プロメテウスとエピメテウスが、その後どうなってしまったのか。そこについては、各自で調べてみてほしい。
『プロメテウスは告げる、自らを擬製にして――エピメテウスは世を憂う――』
このタイトルが何を意味しているのかも、そこから少し見えてくるはずである。
「エピソード53 賢闘士編:『プロメテウスは告げる、自らを擬製にして-エピメテウスは世を憂う-」」
皆様、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
『第五十三話「プロメテウスは告げる、自らを擬製にして-エピメテウスは世を憂う-』において、プロットや物語の進行意図を、少しでも感じ取っていただけたのであれば幸いです。
今話で特に大変だったのは、弁論会をコロッセオで行うという構成だった。そもそも、何故コロッセオなのか。中世という時代を描くにあたって、私の中では、ギリシア文明とローマ帝国を切り離して考えることができなかった。
中世を彩るものとして、後世に残された古代の文化や建築、思想は無視できない。だからこそ、古代ローマを象徴するコロッセオを、この世界ではアイルランドに残された遺構として配置した。
そして、その場所で行われるのは剣闘士による殺し合いではなく、言葉と思想による弁論である。かつて「闘う者たち」が立った場所で、今度は「言葉を武器とする者たち」が争う。これを成立させるために、会場の構造から人物の移動、観衆の視線まで考えなければならなかった。
正直、かなり大変だった。それでもこの場所で弁論会を行いたかった。中世を描くからこそ、その背後にある古代の文明を切り離さず、過去から続いてきたものとして描きたかったのです。
ここから派生して、私は騎士道物語の着想まで得てしまったことを、此処で暴露しておこう。
コロッセオに古代文明の名残を残し、そこで言葉による戦いを描いていたはずが、気がつけば、その先に「騎士道」という別の物語まで見えてきてしまったのである。
……どうしてこうなった。
しかし、これもまた、こちユルを書いている中で自然に生まれてしまった着想の一つなので、いずれ何らかの形でお見せすることになるかもしれない。
そして、ここで一つ暴露しておこう。緑のガウェインは、こちユルでは女性となる。中世最古の女性騎士となるのだ。……ただし、そこへ至るまでには、とても長い道のりがある。そのことだけは、此処で宣誓しておこう。




