「エピソード52 賢闘士編:『残響(宣言)は我にあり、御前(五膳/五全)の体で人は成す」(Pr.Ⅱ)』」
≪それで? 説明して頂けるんですよね? 何故、学園ライフを消滅させたのか≫
ヴァルは僕にそう問い質す。
【いやね? 読者の皆さん、もう二回もクラス授業を観たじゃん?】
【三回目は流石に飽きるかなぁってぇ……】
≪……≫
ヴァルは黙った。
どうやら(?)、納得してくれたらしい。
【いや、納得するんかい!】
作者の思考は、そこから古代ギリシアまで遡った。
(全ての途はローマに通ず。十字軍遠征が……確か六回ぐらいあった気がする)
そしてイギリスへ。遠路はるばる、周遊バスを何度も乗り継いだ。その果てに辿り着いたのがアイルランドだった。嘗ての幾星霜の人間達へ、作者は心の中で語り掛ける。
『イギリスくんだりまで来たんだ。いっそ、アイルランドまで来てしまえよ!』
そういうことになった。故に、こちユル世界のアイルランドにはコロッセオが存在している。だから、剣闘士の世界もあった。
【アイルランドには、ギリシアの歴史があったんだよ!?】
純然たる歴史である。純然たる歴史を、無理やりアイルランドへ伝播させたのである。歴史とは、斯くも便利なものである。
【『残響(宣言)は我にあり、御前(五膳/五全)の体で人は成す(Pr.Ⅱ)』のプロセスとプロットについて】
作者の思いのたけを前書きで書いているのだが、結論としては、そういうことだ。
【いや……三回クラス授業やるの、流石に飽きない?】
実際、作者である私自身も、クラス授業をずっとやり続けるというのも馬鹿らしいなと思った。
※なろう系作品では、クラス授業か、屋内のどこか一隅で延々と会話しているだけ、という構成も珍しくない。ずっと視点が一か所に固定されていると、流石に飽きる。冒険なんだから、冒険させろ。冒険というイベントが目白押しなら、アミューズメント施設で十二分に遊ばせればいい。
それが、作者の根っこにある考え方である。だから、三回目のクラス授業を始める代わりに、物語を外へ放り出した。学園という舞台を捨てたわけではない。
ただ、そこに留まり続けることをやめたのである。
【そうなると、場所が必要だった。ラテン語を学習して、それを披露する。それをイベントにするとなると……学生生活の修学旅行らしく、歴史的・地理的な移動を伴う形になる筈だ】
【何故なら、全生徒が修道女なんだから。これをしないでどうする? 修道女が大勢いる。ラテン語を学ぶ。歴史を背負っている。なら、歴史のある場所へ行かせるしかないじゃないか!】
【まあ、いいか。ギリシアの歴史、挿しとくか】そんな「即決断!」で、作者はギリシアの歴史に箸を挿した。
アンチョビソースを料理に足すような気軽さだった。
「これ、ここに入るんじゃね?」
入れた。
入った。
結果、アイルランドにコロッセオが建った。歴史とは、時としてアンチョビソースより雑に扱われる。
挿したのは良い。何故にコロッセオが或るとするのか、それを抜本的に逆説的に説く。
【嘗てコロッセオは市井にあった。ローマ帝国では純然たる遺産であるから。此処もそうであった。今も尚、歴史はある。然し、剣闘士は死滅した。今は弁論の場として拓かれている。だからコロッセオは存在する】
……ということにした。
正確には、今、建立した。だから、或る。作者が「此処にコロッセオが欲しい」と思った。それだけである。だが、世界観というものは便利なもので、建物を一つ置いただけでは済まない。
「何故、此処にある?」
そう問われる。だから歴史を生やした。
「何に使う?」
そう問われる。
だから剣闘士を殺した。そして、弁論の場にした。
斯くして、アイルランドにコロッセオは建立された。歴史的必然ではない。帳尻合わせである。しかし、帳尻を合わせてしまえば、それはもう世界の歴史になる。
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【『残響(宣言)は我にあり、御前(五膳/五全)の体で人は成す(Pr.Ⅱ)』のストーリーについて】
ストーリーとしては、ネル先生の宣言から始まる。
「皆、次の発表は教室ではなく、市井のパンテオン大殿堂で行います」
……。作者である私も、【何を言っているんだ、テメェ……】となったのは確かである。
何故、パンテオンなのか。
何故、大殿堂なのか。
何故、市井にあるのか。
そして何故、私はそれを既に存在しているものとして書いているのか。
答えは簡単だ。必要になったから、建立した。建立してしまった以上、そこに至る歴史が必要になる。
だから歴史を作った。
歴史を作った以上、用途が必要になる。だから弁論の場にした。
弁論の場にした以上、ラテン語を披露させる理由ができた。
斯くして、三回目のクラス授業を回避するために、パンテオン大殿堂が生まれた。
……作者自身、何を言っているのか分からない。
だが、ネル先生は平然としている。それが一番怖い。
しかも、ネル先生の思想がバチバチにギリシア神話を前提としているから余計に怖い。
例えば、アストレアが「パンテオン大殿堂とは何ですの?」と尋ねれば、ネル先生はこう答える。
「良い質問ですね、アストレア。パンテオン大殿堂は、ただの会場ではありません。ギリシアの神殿を模したその場所は、円柱とモザイク、反響する音響が、神々の視線を思わせます。そこでの発表は、単なる学術の披露ではなく。神々の前での宣言――知識と信仰、秩序と自由を試される儀式です」
……。作者は思った。
【いや、待て。……俺は三回目のクラス授業をやりたくなかっただけなんだが?】
何故、そこからギリシア神話になる。
何故、発表が儀式になる。
何故、ネル先生は私よりもパンテオン大殿堂について詳しい。
そして何故、私は今さら「パンテオン大殿堂とは何だったのか」を設定し直しているのか。答えは一つ。ネル先生が勝手に意味を付与したからである。
作者が建立した。
ネル先生が神殿にした。
読者の皆様には、そのようにご理解頂きたい。
私はえっちらおっちらと、無理やりナーレ達を外へ連れ出す理由を作った。そのために、リヴァナとアストレアをすったもんださせた。
対立の口実を作り、そこへ描写を差し込む。
――これでいい。これなら、教室の外へ出られる。
そう思っていた。
【ざっけんな! 俺も思想論会に行くんかい!】
【弁論ではなくて、思想構想バトル会場なのか!?】
気付けば、ラテン語を披露するだけだったはずのイベントが、思想と思想をぶつけ合う会場へ変貌していた。作者はただ、三回目のクラス授業を避けたかっただけである。何故こうなった。
しゃあーなしで、生徒たちを廊下へ促す。ぞろぞろと、教室棟を後にする。石造りの廊下を抜け、外へ出る。初冬の風が頬を撫でた。教室の中では感じなかった冷気が、衣服の隙間から入り込んでくる。
生徒たちは身を寄せるようにして、石畳の道を歩き始めた。やがて、遠くから市井のざわめきが聞こえてくる。
商人の呼び声。
荷車の軋む音。
人々の話し声。
どこかの店から漂ってくる料理の匂い。
教室という閉じた空間から、一歩ずつ離れていく。修道女たちの一団は、そんな市井の中をぞろぞろと進んでいった。
誰かが振り返る。
誰かが隣の生徒に話しかける。
その声もまた、街のざわめきへと混ざっていく。
学園の中では、生徒たちは生徒だった。けれど、市井へ出れば違う。彼女たちは街を歩く一群の修道女であり、その姿そのものが、この街の風景の一部になっていく。
そして、その先に。パンテオン大殿堂がある。
そして、その向こうには弁論の声がある。
この街では、剣だけが武器ではない。
貴族は家名を掲げ、修道士は神学を掲げる。
学者は知識を、思想家は思想を掲げる。
己の正しさを証明するために、言葉をぶつけ合う。
怒鳴り、反論し、問い詰め、また反論する。
そこに血は流れない。
……たぶん。
だが、やっていることは大して変わらない。
思想と弁論による、ステゴロである。
そんな男たちの世界へ。修道女たちが入っていく。
ぞろぞろと。
何の遠慮もなく。
彼女たちは石畳を踏み、市井を練り歩いていく。
この世界では、女性が公の場で思想を語ることそのものが、既に一つの意思表示だった。ましてや、修道女である。神に仕える者たちが、神学と思想を武器にして、貴族と修道士たちが言葉で殴り合う場所へ踏み込んでいく。
誰かがこちらを見る。
また誰かが振り返る。
けれど、生徒たちは歩みを止めない。
彼女たちはただ、パンテオン大殿堂へ向かっていた。
「学園の娘たちが、なぜ大人数で?」
「パンテオンに向かうのか? まるで異端の行進だ」
道行く人々が、彼女たちを振り返る。
誰も、彼女たちが何を語るのかを知らない。
何を宣言するのかも知らない。
それでも、異様だった。
男たちが思想と弁論をぶつけ合う場所へ、学園の娘たちが一団となって歩いていく。ただ、それだけのことが。この社会においては、既に一つの異物だった。そして知らず知らずのうちに。男たちだけで回っていた弁論の輪へ、女性という存在そのものを持ち込んでいく。
パンテオン大殿堂に近づいていく。やがて、その姿が彼女たちの視界に入った。古代ギリシアの建造物を思わせる、巨大な円柱が幾本も聳え立っている。その名は、「すべての神々」を意味する。
ギリシアの神殿を思わせる荘厳な佇まいだった。石造りの壁には、アポロンやアテナを描いたモザイクが輝いている。内部へ足を踏み入れれば、足音が幾重にも反響し、広大な空間を満たしていく。
かつて、この場所はコロッセオのように、弁論者や詩人たちが言葉の剣を交えた戦場だった。思想の火花が散り、信仰と哲学がぶつかり合った。その歴史は、石の表面に刻まれている。
そして。ここから先は、ナーレたちだけの物語ではない。彼女たちがパンテオンへ足を踏み入れたことで、既に始まっていた思想の対立。その全容を見渡すには、一人の視点では足りなかった。
視点は、彼女たちから離れていく。
パンテオン大殿堂、その内部へ。弁論の場へ。
そして、そこに集う者たちへ。
視線は、円形に並ぶ柱の林を進む。幾本もの柱が連なり、その間に生まれた空間が、まるで巨大な舞台を形作っていた。その只中に、四人の男がいる。三人の貴族。そして、身なりの整った、ふくよかな中年の男。彼らは互いに向き合い、言葉を交わしていた。いや。弁論を繰り広げていた。
視線が、中年の男の背後へ注がれる。そこには、二人の修道士がいた。静かに、こちらへ歩み寄ってくる。長衣の裾が石畳を擦る音が、微かに響いた。
それだけだった。けれど、修道士たちが加わった瞬間、貴族側の空気が一変する。静かに交わされていた議論へ、ざわめきが走ったように見えた。言葉が止まったわけではない。ただ、その場にいた者たちの視線が、一斉に修道士へ向いた。
中年の男は、アウレリウス司教と呼ばれている。その後ろに二人の修道士を従え、静かに貴族たちを見据えていた。対する貴族側には、ルキウスがいる。その背後には、二人の貴族。まるで金魚のフンのように、ルキウスの後ろへ付き従っている。
≪主張をするのは、あくまで二人。その周囲に、彼らを支持する者たちが控えている。しかし、修道士たちが加わった瞬間、貴族側の空気が一変した。静かな議論に、ざわめきが走る。アウレリウス司教。その名が、この場に持ち込まれた意味を、誰もが理解していた≫
ルキウスとアウレリウス司教は、コロッセオが如何なる場所であるのかを論じていた。
「コロッセオとは、民衆へ知を示す場所だ」
「否。神の御前にて、人が己の言葉を問う場所である」
「ならば、誰がその言葉を選ぶ?」
「信仰を持つ者だ」
「貴族は?」
「当然、語る資格を持つ」
「民衆は?」
「聞く資格を持つ」
「では、語る資格は?」
「それは――」
言葉が続く。
コロッセオとは何か。
誰のために存在するのか。
誰が語るのか。
誰が聞くのか。
誰が裁くのか。
ルキウスは貴族の権威を説き、アウレリウス司教は信仰と秩序を説いた。
互いにコロッセオの意味を語っているようで、その実、二人が争っているのは別のものだった。
この場所を、誰のものとするのか。
弁論とは、誰に許された権利なのか。
思想とは、誰が語ることを許されるのか。
彼らは一つの建造物を巡って論じながら、公共の場そのものを奪い合っていた。コロッセオは誰のものなのか。その問いだけが、何度も形を変えながら、二人の間を往復していた。
結局、アウレリウス司教は、こう宣言する。
「ヨブ記、十六章二節――『かかることは、これまでに多く聞き及んだ。汝らは、悩ますために来たのか?』混乱を招くのは、偏見の言葉だ。我はエブラニア人だ。海と陸を創造された天の神、主を畏れる者である」
ここでいう「エブラニア人」については、少し認識しておかなければならない。これは人種的な意味での呼称ではない。キリスト教における信仰の習わし、あるいはその原点へ立ち返るという思想として、私はこの言葉を設定している。
つまり、「何人であるか」ではなく、「何を信じ、何を畏れる者であるか」という自己規定である。アウレリウス司教は、貴族としてではなく、権威ある聖職者としてでもなく、その信仰の原点を掲げている。
コロッセオが誰のための場所なのか。誰が語る資格を持つのか。
その議論を続けた果てに、彼は一度、すべてを原点へ戻したのである。
エブラニア人の宣言が、パンテオン大殿堂に響き渡る。貴族たちは息を呑んだ。
「なんという事をしたのだ……!」
司教は微笑を絶やさない。威厳ある眼差しを彼らへ向けたまま、静かに言葉を続ける。
「汝らよ。如何にすれば、この場は静まるのか」
「我が手足を捕らえ、海へ投げ入れるがよい。そうすれば、『海』は穏やかになる」
「我が故に、この大嵐が汝らを見舞ったことは、我が知っている」
その言葉に、誰も返すことができなかった。
ルキウスの視線が、ナーレたちへ向けられる。
「ほう。どうやら、今や『修道女』にもその鬨をあげたようだな?」 そう言って、ルキウスは目を細める。微笑んでいた。
「さあ、見てみよう――如何にして『狭き門』をくぐるのか?」
「命に通じる門は、なんと狭く、その道も細い……」
「汝ら修道女に、その珠玉を飲み下すことができるか。見ものだ!」
それは、表面だけを見れば修道女たちへの挑戦状である。だが、ルキウスが言いたいことは、もっと単純だった。
女が何を持って此処へ来たのかは知らない。
どれほどの叡智を携えていようとも、男に勝るものではない。
修道士も修道女も、神に仕える者ならば、神の御許に囲われた場所にいればいい。
ここは、お前たちが踏み込む場所ではない。
つまりこれは、歓迎ではない。「女が何をしに来た?」そういう意趣返しだった。
※こちユルでは中世を基にしている為、ジェンダー問題も直接的な実弾として飛んでくる。現代の価値観から見れば、あまりにも露骨に感じられるかもしれない。
しかし、これは現代のジェンダー論を舞台へ持ち込んだというより、この世界の社会構造そのものが抱えている問題である。
貴族社会、宗教、身分、そして男女。
それぞれの立場が思想と結びついている以上、女性が公の場へ出て、男性たちと同じ土俵で弁論することには、それ自体に意味が生じる。
だから、ルキウスの言葉も単なる悪口ではない。
「女はここにいるべきではない」という思想が、真正面から実弾として飛んでくる。そしてナーレたちは、それを避けるのではなく、その弾道上に立つことになる。
そして最後に、アウレリウス司教本人から、この弁論会を巡る真相が語られる。
彼は、修道女たちのためにこの場をジャックしたのだ。女性にも弁論の自由はあるはずだ。
神はそう仰っている。
聖典には、そう書かれている。
だから、彼は動いた。
これはアウレリウス司教の思想である。女性を特別扱いしたいからでもない。貴族社会へ反旗を翻したいからでもない。
「女だから」という理由だけで、語る場所を奪われることを彼は信仰上の矛盾として捉えている。
神の前において、人が言葉を発すること。その自由を、女性だけから取り上げる理由がどこにあるのか。
彼にとっては、そこが問題だった。
だからこそ、彼は弁論会を奪った。
修道女たちが語るための場所を、先に作ったのである。
アウレリウス司教にとって、弁論の自由とは単に「好きなことを言ってよい」という意味ではない。
弁論は自由だ。神が、それを佳しとしている。
御前において、人は宣言することを赦される。
だが、その代わりに晒される。
己が何を語ったのか。
何故、それを語ったのか。
その言葉は、本当に己の意志と等しいのか。
それを問われる場になる。
だからこそ、弁論には価値がある。
誰かに認めてもらうために語るのではない。
己の意志を言葉として差し出し、その言葉そのものを他者の前へ晒す。
それが、アウレリウス司教の考える「宣言」なのだ。
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というのが、『残響(宣言)は我にあり、御前(五膳/五全)の体で人は成す』(Pr.Ⅱ) のあらましである。
……たぶん。読者の皆様も、ここまで読んで、【何がおっぱじまるんだ?】と頭が混乱したことだろう。作者も混乱している。
そもそもの発端は、三回目のクラス授業をやるのが飽きたから、教室の外へ出そうとしただけだった。
それが気付けば、パンテオン大殿堂を建立し、ギリシア神話を接続し、貴族と司教がコロッセオの意味を巡って思想と弁論で殴り合い、そこへ修道女たちを突入させる話になっていた。
(……何がおっぱじまるんだろう)
それは作者にも分からない。ただ一つ分かっていることがある。もう、始まってしまった。
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作者である私の面前で、大殿堂の扉が開く。円柱の影。モザイクに描かれた神々の眼差し。そして、幾重にも反響する足音。物語は、新たな試練の舞台へと漕ぎ出した。
≪それで……何が始まるんです?≫
【勿論、弁論バトルだ】
【ゴングを掻き鳴らせ】
【どっちが正しいのか。ステゴロ勝負だ】
貴族も、司祭も、修道士も、修道女も。
思想という規格を弄り放題。
正義も、信仰も、知識も、自由も。
己の都合に合わせて組み替え、引用し、捻じ曲げ、都合の良い理屈として投げ返す。
ルール無用。判定員不在。
勝敗すら、何をもって決めるのか分からない。
ただ一つだけ決まっている。言葉を出した者は、次の言葉を叩き込まれる。そんな、思想と弁論によるルール無用の詭弁大会。
それが、パンテオン大殿堂で始まろうとしていた……。
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『残響(宣言)は我にあり、御前(五膳/五全)の体で人は成す』(Pr.Ⅱ)
……なんだよ、これ。作者自身もそう思う。
しかし、今回はこの「何だかよく分からないタイトル」そのものが、話の内容に繋がっている。今回の物語で繰り返されるのは、弁論と宣言である。
誰が何を語るのか。
何を信じるのか。
その言葉は、本当に己の意志なのか。
そして、その言葉を御前へ晒したとき、人は何を成すのか。だから「宣言」がある。
そして、その宣言は一度発せられれば消えるものではない。
その場に残り、誰かへ伝わり、別の言葉を呼び、また別の意志を引き出す。つまり、残響する。
だから――『残響(宣言)は我にあり』となった。
……後半?それはまた別の話である。
五膳なのか。
五全なのか。
御前なのか。
それは、複数の意味が混然一体となっている。どれか一つが正解というわけではない。キリスト教とギリシア神話を学んでいる学徒であれば、ある程度は察することができるだろう。
だから――。「この話、もう分かる」という者は、聞かなくても構いません。自由時間とします。
……教師として、それでいいのかは知らない。だが、こちユルである。
タイトルそのものが、既に弁論を始めているのだから。
【五全の意味について】
「五全」の意味について。
これは【聖書:ローマ人への手紙 12:1-5】を下敷きにしている。この箇所から、私は主に三つの意味を拾っている。
・自分の体や行動を神に捧げ、神の御心に従うこと。
・他人と自分を比べるのではなく、謙虚な心を持って、それぞれに与えられた役割を果たすこと。
・身体が多くの部分によって成り立つように、キリストの体もまた、一人ひとりが結びつくことで全体を成すこと。
つまり、「五全」とは、異なるものが集まって一つになるという意味である。口があり、手があり、足があり、頭があり、そしてそれらを一つの身体として結び付ける体がある。
それぞれの役割は違う。しかし、母体は一つである。こちユルにおいては、それをキリスト教という一つの母体に重ねている。
貴族も。
司祭も。
修道士も。
修道女も。
それぞれ立場も役割も異なる。それでも、同じ信仰という一つの身体を形成する修徒である。だから「五全」。違うものが違うまま、一つの全体を成す。それが、今回のタイトルに込めた意味の一つである。
【五つの膳だから、五膳なんですよ。】
【神の前に居るから、御前でしょ?】
……というわけである。
五つの全。五膳。そして、神の御前。
どれも別々の言葉に見える。
だが、この物語では、それらが一つの言葉の中で混然一体となっている。
五つのものが並び、一つの食卓を成す。
その食卓を、神の御前で囲む。
……だから五膳。
……そして御前。
……だから五全でもある。
作者はこうして、タイトルの中へ意味を三重に盛り込んだ。読者の皆様には、好きなところを拾って頂きたい。全部拾おうとすると、たぶん作者と同じところで頭を抱えることになる。
「エピソード51 賢闘士編:『残響(宣言)は我にあり、御前(五膳/五全)の体で人は成す」(Pr.Ⅱ)』」
皆様、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
『第五十二話「残響(宣言)は我にあり、御前(五膳/五全)の体で人は成す」(Pr.Ⅱ)』において、プロットや物語の進行意図を、少しでも感じ取っていただけたのであれば幸いです。
【あのさぁ? タイトルが言葉遊びというか、捻りを入れ過ぎです】
≪……≫
【だって、五全でしょ? 五膳でしょ? 御前でしょ?】
【全部意味があるんですよ】
≪だから、それが捻り過ぎだと言っているんです≫
【仕方ないじゃん】
【タイトルからして弁論バトルなんだから】
≪タイトルで弁論するな≫
【……それはそう】
神の御前で、人は宣言する。
そして、御前で発せられた言葉は、その場で消えることなく残響する。
人は、言葉によって己の意志を示す。
言葉という「体」をもって、人は己を成す。
だから――残響(宣言)は我にあり。
神の御前で発せられた宣言は、誰かの耳へ届き、誰かの意志を揺さぶり、また新たな言葉を生む。
宣言は終わらない。残響する。
そして、その残響こそが、人が何者であるかを形作っていく。
それが、このタイトルに込めた意味である。
【ご理解しましたか? それが残響です】




