「エピソード49 賢闘士編:『羅甸(らてん)と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』」
≪寝間着でも宜しいので、何か羽織って頂けませんか?≫
僕の進言は虚無と化し、その部屋を満たす。
ボサボサの頭髪に、ズレ落ちた眼鏡。奥二重にくぼんだ目頭。その窪みのせいで、隈などないのに隈があるように見え、やけに不健康そうな顔に見えた。
【なんだ……ヴァル。其処に居たのか】
彼は画面越しに、僕へ視線を向けた。
≪何度に設定しているんですか。寒いですよ≫
僕はエアコンのリモコンへと手を伸ばした。液晶画面には、『除湿・冷房1十六度』という設定が、これでもかとばかりに表示されている。
【頼むから、二十四度までにしてくれよ……。この部屋は屋根が低いから、昼間はずっと暑いんだ】
そう言う彼は、この寒々しい部屋でウィスキーを煽っていた。
≪先ず、ウィスキーから手を離して下さい……。呑まないと書けないんですか≫
【いや? 唯、空虚過ぎると盛り上がらないから書けないだけさ。君とオハナシするのだって、馬鹿々々しいことをしていたほうが面白いだろう?】
彼が画面から視線を外し、僕へと振り向く。
【ヴァル。何処に行った? 頼むから、其処に居るんだよな?】
彼は再び、画面へと視線を戻した。
【なんだよ、ヴァル。居るなら、其処に居るって言えよ】
≪僕はずっと、“此処”に居ますよ?≫
画面の向こうで、僕は首を傾げた。
彼の視線が、確かに僕を捉えている。
≪テンポ(典歩/転歩)に乗って……羅甸の転調へ乗る。そういう意味なんでしょう?≫
僕は進言した。彼の意図は手に取るよう分かる。
【あぁ……そうだ。転調に乗る。誰と我が身を捩らせるのかは知らんが。伴に躍ろう……】
『賢闘士』……その意味は、『検討』し、『賢答』し、『健闘』し、『拳闘』する者なのか。だが、私は知るは『剣』と『王』のみ。
≪『剣』と『王』しか知らない。それで『賢闘士』? 言葉遊びですか?≫
【『剣』と『王』しか……だから剣闘士。剣に宿るのは、賢か闘か?】
それは難しい議題だった。己の拳という剣を司るのは、拳か? 賢か、闘か?
≪また、叡智勝負ですか? 良いでしょう遊戯開始と行きましょう……≫ |
円盤遊戯が始まる。
【どれに賭ける? 君はどれに縋り、尽くし、果てて斃れるのか、診てみよう】
斯くして、叡智勝負という名の人生を賭けた遊戯が始まる。回転する円盤の上で、人は駆け続ける。
≪運命を回す輪≫の上で、人は廻り続ける。幸運を手に入れようと、輪にしがみ付いた。果たして、廻しているのは人か、輪か。廻されているのは、どちらなのだろう?
【さて、踊り明かそう。思を持って、果てる夜明けを臨む。誰も彼も死を持っている。さぁ〜どれに賭けるか。選択しろ。『賢闘士』】
この遊戯は生まれ出でる前から開始されている。
誰も降りることは許されない。
それは死を以て還元される。
それは生を以て開始される。
誰も降りることは許されない。
この遊戯は終焉は限りなく零にされている。
誰も彼もそのバトンを紡いでいく。
誰も降りることは許されない。
『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』を書くに際して、私が考えたことの一つが、この世界観についての事だった。
この物語は、ローマが既に亡国となった後の世界を舞台としている。そのため、当然ながら、ローマ帝国が存在していた時代と同じ学校制度が、そのまま残っているとは考えにくい。教育制度そのものもまた、ローマの滅亡に伴って変化し、それに応じた形で再構成されていなければならない。
その一環として、作中のメーテール学院については、当初、ギリシア建築に準拠した施設として設定している旨を申し上げていた。
つまり、メーテール学院の姿は単なる舞台装置として決めたものではなく、ローマ亡き後の世界において、古代ローマから受け継がれた知識や制度が、どのように別の文化的基盤へと移り変わったのかを考えた上で設定したものである。
メーテール学院の制度は、自由七科を基礎としている。すなわち、基礎となる文法・修辞学・弁証法から成る三学(trivium)と、算術・幾何・天文学・音楽から成る四科(quadrivium)である。
三学によって言葉を読み、語り、論じるための基礎を身につけ、四科によって数・空間・天体・音の秩序を学ぶ。これは単なる知識の分類ではなく、世界を理解するための基礎的な学問体系として学院の教育制度に組み込まれている。
ローマが亡国となった後の世界においても、古代から継承された知識そのものが失われたわけではない。ただし、それを誰が、どのような制度によって継承し、どの文化的背景の中で再編するのかという問題が残る。
メーテール学院は、その「知の継承」の一つの到達点として存在している。
しかし、学院に自由七科という制度を設定するだけでは、それが実際にどのような場所なのかを読者の皆様に伝えることはできない。そこで、作中では実際のメーテール学院における授業風景を描く必要があった。
文法・修辞学・弁証法、そして算術・幾何・天文学・音楽。これらが単なる設定資料として存在するのではなく、教師と生徒が向き合い、言葉を交わし、問い、答えるという具体的な学習風景として描かれることで、初めてメーテール学院という教育機関が物語の中に実在するものとして立ち上がる。
また、メーテール学院にいる者たちは修道女である。そのため、彼女たちの日常を描く上では、学問だけを見せるわけにはいかなかった。薬草を煎じることや、宣誓を行うことなど、宗教的・修道的な営みもまた、学院生活の一部として描く必要があった。
つまり、メーテール学院では「学問」と「信仰」が別々に存在しているのではない。古典から受け継がれた学問を修めながら、修道女として祈り、仕え、儀礼を行う。その二つが同じ日常の中に存在している。
私がメーテール学院の授業風景を描こうとしたのは、その世界にどのような知識があるのかを説明するためだけではない。そこで学ぶ者たちが、何を学び、何を信じ、どのような生活を送っているのか。その全体を読者の皆様に実際に見てい頂く為であった。
その前座として、ラテン語の授業を置いている。
メーテール学院の教育制度や、そこで継承されている知識をすべて学校生活の中で描こうとすると、どうしても冗長になり過ぎてしまう。自由七科をはじめとする学問、修道女としての日常、宗教的な儀礼など、そのすべてを学院編だけで描き切ろうとすれば、物語そのものの進行を阻害してしまうからである。
そこで、先ず。ラテン語の授業を前座として描き、メーテール学院という場所がどのような教育を行っているのか、その一端を読者の皆様に見て頂くことにした。
そして、それ以外の要素については、学校という一つの舞台に押し込めるのではなく、「巡礼編」や別の要素として物語の中へ落とし込むことにした。
そうすることで、学問だけではなく、宗教、儀礼、生活、土地、そしてそこに暮らす人々の姿を、物語の進行とともに描くことができる。
メーテール学院で学問の一端を見せ、巡礼の旅によってその世界を実際に歩かせる。
これは、世界観を説明するために物語を止めるのではなく、物語そのものを通して世界観を見せるための構成である。
先ずは小手調べとして、『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』のプロット及びプロセスを開示していきたい。
これから述べる内容については、作中に登場する世界観や設定が、どのような考えのもとに組み立てられていったのか、その一端を示すものとなる。
ただし、ここから先は万人向けの内容ではない。ついて来られるものだけ、参考文献を手に取って欲しい。その他の生徒は自由時間とする。
……ということで、ここから先は少々講義めいた話になる。
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【『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』のプロット及びプロセス】
『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』のプロット及びプロセスは、以下の構成になっている。
では、ここから順を追って見ていこう。各項目について、私が何を考え、どのように作中へ落とし込んでいったのかを、箇条書きで開示していく。
① メーテール学院の何処で行われている授業なのかを示す。
② ラテン語の授業として、読者の皆様に内容が分かりやすいものになっているかを考える。
③ ナーレとヴァルの関係性を見せる。
④ ナーレ、フィーネ、アヴェーラの関係性を、改めて読者の皆様に認識して貰う。
⑤ ヴァルがナーレを導いている、という要素を見せる。
⑥ 読者の皆様に、『こちユル』という作品には宗教的観念や思想が存在することを気づかせる。そのため、キリスト教的な経典である聖書から引用する。
以上が、『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』を構成する主な要素である。これからその要素を分解していく。
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① メーテール学院の何処で行われている授業なのかを示す
ここでは、読者の皆様が抱くであろう「授業は何処で行われているのか?」という疑問を解決することを目的としている。
メーテール学院の授業は、基本的に各組ごとに行われるものと、複数の組が集まって行う合同授業を想定している。
中世を舞台としている以上、現代の学校のように一学年に何十人、何百人もの学徒が在籍しているわけではない。ましてや女学院という設定であるため、男子は一人もいない。
そのため、授業風景についても現代の学校をそのまま当てはめるのではなく、比較的少人数の学徒が、それぞれの組、あるいは必要に応じて合同で授業を受けているという形をイメージしている。
今回のラテン語の授業についても、その前提に基づいて描いている。
これは単に「教室がどこにあるのか」という舞台設定を説明するためだけではない。読者の皆様に、メーテール学院がどのような規模の教育機関で、どのような人数構成の中で授業が行われているのかを、授業風景そのものから感じ取ってもらうための要素でもある。
厳密に暴露してしまうと、メーテール学院に何人の生徒が在籍しているのかについて、具体的な人数は設定していない。
では、どの程度の規模なのか。
そこについては、読者の皆様で中世五世紀頃のアイルランド島における人口動態などを調べ、想像して頂くことをお勧めする。
作者自身は古代史・中世史を専門とする学徒ではないため、現時点ではそこまでの統計的なデータを収集していない。
したがって、メーテール学院の生徒数については、あえて余白として残している。このあたりは、読者の皆様に頼ることにしよう。
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② ラテン語の授業として、読者の皆様に内容が分かりやすいものになっているかを考える
読者の皆様も、そして作者自身も、ラテン語には疎い。これは正直に申し上げておきたい。
そして、ここからが純度100%の暴露である。
このストーリーは、AIと相談しながらストーリー構成を行っている。
ラテン語についても、作者が全てを独力で理解した上で授業風景を書き上げているわけではない。語句の意味、文法、表現のニュアンスなどについてAIに相談し、それを踏まえながら、作中の授業として読者の皆様に伝わる形へ組み立てている。
つまり、今回のラテン語の授業は、作者がラテン語学者として講義を行う場ではない。
あくまでも、ラテン語に詳しくない読者にも「何を学んでいるのか」が伝わり、同時に、この世界においてラテン語がどのような位置づけにあるのかを感じ取ってもらえる授業風景を目指している。
結局、ラテン語を最初に学ぶとして簡単な語句ってなんだろうか?それが一番最初の起点だった。
授業の最初は、Omniaというラテン語の語句から始まる。
これは omnis の中性・複数形で、「すべてのもの」や「万物」を意味する。
ここで一つ、読者の皆様には注意していただきたい。
作中において、この「中性」や「万物」という性質から母性的なニュアンスを感じ取って頂くことになるが、これはラテン語の文法規則そのものを意味しているわけではない。
あくまでも、作者自身の認知や連想に基づいて「万物を包み込むもの」として母性的なイメージを重ねたものである。
つまり、ここから先はラテン語学としての説明と、作者が作品世界に与えた解釈とを分けて考えていただきたい。
Omnia が中性・複数形であることは文法上の事実である。しかし、そこから「母性的」という印象へ至ったことについては、作者側の認知によるものである。
此処から先は、ラテン語の発音練習を介しながら、キリスト教の聖書から引用していく。
その中で、Puella sapientia loquitur――「少女は知恵を語る」という言葉が出てくる。ここで引用しているのは、キリスト教に基づく「光」という観念である。
この作品においては、光を単なる明るさとして扱うのではなく、真理へ至るための途を示すものとして意識している。
なお、ここでも、聖書やキリスト教思想そのものが「光=この意味である」と限定しているわけではない。あくまでも、作者がキリスト教的な「光」の観念を、この物語における「真理へ至る途」という意味へ接続しているものとして意識して頂きたい。
此処で、聖典及びキリスト教の概念から引用した内容を抜粋する。
Et cognoscetis veritatem, et veritas liberabit vos
新約聖書『ヨハネによる福音書』第8章32節
(あなたがたは真理を知るだろう。そして、真理はあなたがたを自由にする)
「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ。そして、あなたを立てた。」
新約聖書『ヨハネによる福音書』第15章16節
ラテン語訳:Non vos me elegistis, sed ego elegi vos et posui vos.
Amen, amen dico tibi, non cantabit gallus, donec ter me neges.
新約聖書『ヨハネによる福音書』第13章38節
(はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう)
Si oportet me tecum mori, non te negabo.
新約聖書『マタイによる福音書』第26章35節、および『マルコによる福音書』第14章31節より
(もし私があなたと共に死ななければならなくても、私はあなたを否認しません)
Omnes vos scandalum patiemini in me in hac nocte.
新約聖書『マタイによる福音書』第26章31節、および『マルコによる福音書』第14章27節
(今夜、あなたがたすべては、私によってつまずきに遭うだろう)
ここで用いている言葉の殆どは、聖書に由来するものである。
これらを作中へ盛り込んだのは、単にキリスト教的な雰囲気を演出したかったからではない。メーテール学院にいる者たちは修道女であり、彼女たちが日常的に学び、語り、祈る上で、聖書の言葉が身近なものであることを意識している。
そのため、ラテン語の授業に聖書由来の言葉を取り入れることにした。
読者の皆様には、「宗教的な要素を後から付け加えた」のではなく、修道女という設定が先にあり、その設定から聖書の言葉が自然に作中へ入ってきたものと意識して頂ければ。
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③ ナーレとヴァルの関係性を見せる
『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』では、ヴァルがナーレに対してラテン語の発音を教える場面を描いている。
この場面では、単にラテン語の授業を成立させることだけを目的としているわけではない。ヴァルがナーレへ知識を与えるという行為そのものによって、二人の関係性を読者の皆様に見せることを意識している。
ヴァルは、ナーレにとって知識を与えてくれる存在であり、その姿を通じて「守護神」としてのイメージを持たせている。
つまり、この場面におけるヴァルの役割は、単なる教師ではない。ナーレが知らないものを示し、理解するための手助けをし、その先へ導いていく存在として描いている。
ラテン語の発音を教えるという小さな行為の中に、ヴァルがナーレへ知識を与える者であること、そして二人の関係がどのようなものであるのかを重ねている。
※読者の皆様の中には、「あれ、ヴァルとナーレではイントネーションが違うのでは?」と気づかれた方もいるかもしれない。
勿論、ラテン語そのもののアクセント規則としては矛盾が発生している。しかし、『こちユル』の前提条件を改めて見てみると、この違いにも合点がいく。
その前提条件は、以下の通りである。
A. 神は既に死んでおり、その代わりに別世界から来た魂が挿げ替えられている。
※これが、神材派遣管理会社「ユル」という概念の根幹である。
B. ナーレの世界観は、平行世界における過去の時代であり、なおかつ「IF」の世界である。
C. ヴァルの前任である神は、ナーレの世界における神であった。
D. ヴァルは、このナーレの世界における神ではない。
つまり、ヴァルは、母音を強く特徴とする言語を使用する語圏の魂なのである。
そのため、ナーレの世界で用いられている言語とは異なる発音上の癖が残っている。ヴァルの母音を意識したイントネーションは、単なる演出上の違いではなく、彼がこの世界とは異なる文化圏に由来する魂であることを示す要素として設定している。
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④ ナーレ、フィーネ、アヴェーラの関係性を、改めて読者の皆様に認識して貰う。
此処については、ざっくりとした意図である。
ナーレ、フィーネ、アヴェーラの三人は友人である。そのため、改めて三人がどのような様子で学院生活を送っているのかを、読者の皆様に分かりやすく見て頂きたかった。
要するに、「この三人、ちゃんと普通の学校生活をしていますよ」というところを描きたかったのである。
大掛かりな設定を提示することが目的なのではない。三人で授業を受け、言葉を交わし、友人同士として過ごしている。その何気ない日常を見せることで、三人の関係性を改めて認識して貰うための場面である。
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⑤ ヴァルがナーレを導いている、という要素を見せる
③の要素とダブっているように感じるかもしれない。うん。私もそう思う。
実際、この要素は③の中に含まれている。ヴァルがナーレにラテン語の発音を教えるという行為そのものが、ナーレへ知識を与え、導く行為となっているからである。
ただし、此処でいう「導く」という言葉は、ラテン語を教えるという意味だけではない。「導く」という性質の一場面に過ぎない。では、ヴァルは何を導いているのか。
その答えについては、先に挙げた聖書の引用を読み返して頂きたい。
「真理を知ること」、「選ばれること」、「否認すること」、「躓くこと」。
これらは、単なるラテン語の教材として引用しているわけではない。半ば、ヴァルがナーレへ向けて伝えている事柄として意識している。
つまり、ヴァルがナーレへ与えているものは、ラテン語の知識だけではない。言葉を通じて、真理とは何か、何を選び、何を信じ、そして時に躓くこととは何なのかを示そうとしている。
ラテン語の発音を教えるという場面の奥には、ヴァルがナーレを一人の人間として、より広い意味で導いているという構造がある。
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⑥ 読者の皆様に、『こちユル』という作品には宗教的観念や思想が存在することを気づかせる
⑥については、読者の皆様に、ナーレ達、延いてはメーテール学院の学生たちが修道女であることを、改めて認識して頂く為の要素である。
彼女たちは学問を修める学生であると同時に、キリスト教・ケルト教に基づく宗教的な価値観の中で生活している。
そのため、ラテン語の授業に聖書の言葉を引用することで、彼女たちが単なる学生ではなく、信仰と伴に日々を送る修道女であることを、読者の皆様に再認識して頂きたいと考えた。
つまり、聖書から引用したのは、宗教的な要素を後付けするためではない。既に存在している「修道女」という設定を、授業風景の中でもう一度見せるためである。
そのため、この⑥の要素こそが、①と②の基盤であることを一つの軸としている。
メーテール学院という場所で授業が行われ、そこでラテン語を学ぶ。その背景には、彼女たちが修道女であり、キリスト教・ケルト教に基づく宗教的な価値観の中で生活しているという前提がある。
従って、⑥は単に聖書を引用する為の要素ではない。①の「何処で授業を行っているのか」と、②の「何を学んでいるのか」を成立させる土台として、宗教的背景を置いているのである。
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これで、『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』の本編について、そのプロットとプロセスを一通り開示し切れたと思う。
此処からは、皆様がお待ちかねの「タイトルの意趣」についての開示となる。
……ここから先は、これまでとは少々趣が異なる。
皆様の回路がぶっ飛ばないことを、作者として祈りたい。
【さて、タイトルの意趣です。御覚悟はよろしいですか? 対ショック、願います】
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『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』の意趣について
A'「羅甸」について
先ず、「羅甸」です。ズバリ、『ラテン語ですよ?』という意味である。ここが一番分かりやすい。『羅甸』は「ラテン」を指している。つまり、このタイトルを見た時点で、今回の物語にラテン語が関わっていることを示しているのである。
B'「羅点」について
次に、「羅点」です。これは、少々分かり辛いかもしれない。「羅」という字には、広く集める、並べるといった意味がある。
そのため、「羅点」とすることで、点を広く集め、並べていくという意味を持たせている。
「羅甸」がラテン語そのものを指すのに対して、「羅点」は、ラテン語をはじめとする様々な言葉や知識、思想を拾い上げ、それらを並べ、繋ぎ合わせていくという、この作品そのものの作り方を示している。
※「羅点」には、ここまで述べた以外にも、もう一つ意味がある。隠れた意味として、私は「羅点」をイントネーションのこととしても捉えている。
「羅甸」の「羅」に「点」を指し示す。つまり、「羅」という文字に発音上のアクセント、あるいはイントネーションを示す点を置くという意図である。
そのため、「羅甸」と「羅点」は単純に別々の言葉なのではない。「羅甸」がラテン語そのものを示し、「羅点」がそのラテン語にどのような音を与えるのかを示す。これが、「羅点」に込めた隠れた意味である。
C'「典歩」について
「典歩」は、経典という教材を基に歩を進める、という意味である。
ここでいう「典」は、単に聖書を指すだけではない。経典・典籍・典礼・古典といった、過去から受け継がれてきた知や言葉を意味している。
それらを踏まえ、それらを手掛かりとして一歩ずつ歩を進めていく。
つまり「典歩」とは、先人から受け継いだ典を基盤として学び、その上で次の一歩へ進む、という意味を込めている。
D'「転歩」について
「転歩」は、学びを受けた上で、そこから自らの意志によってどのように歩むのか、という意味である。
「典歩」が、経典・典籍・典礼・古典など、先人から受け継いだ知を基に歩を進めることであるなら、「転歩」は、そこで得た学びを自分自身の中で受け止め、その上で自ら進む方向を選び取ることを意味している。
つまり、誰かから与えられた知識をそのまま受け継ぐだけではなく、それを自ら考え、解釈し、自分自身の歩みへと転じていく。
「典」を受けて歩み、「転」じて自らの道を歩む。
この二つを合わせることで、学びを受け継ぐことと、自らの意志で進むこと、その両方を表している。
E.「乗って」について
「乗って」は、音楽用語である「TENPO」に由来している。つまり、一定の歩調やリズムに乗って進む、という意味を持たせている。
ここには、三重の意味を込めている。
第一に、音楽的なテンポに「乗って」物語が進んでいくこと。第二に、「典歩」と「転歩」という二つの歩みに乗って、学びを受け継ぎながら、そこから自らの意志で歩みを転じていくこと。
そして第三に、「羅甸」「羅点」「典歩」「転歩」といった言葉そのものが持つ音や意味の重なりに乗って、読者自身にもその歩調を感じ取ってもらうことである。
つまり、「乗って」は単に「進む」という意味ではない。
言葉、音、学び、そして自らの歩み。そのすべてを一つのテンポに乗せて物語を進めていく、という意味を込めている。
※最初は転調をタイトルに明記したかったが。余りに文字数が長すぎるし、"テンポ"という漢字が三連打するので、"転調"から"乗って"という文字に変えた。
乗って≒リズムと認知可能であると判断したためである。
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以上が、『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』というタイトルに込めた意趣である。
皆様には、最後までお読みいただいた上で、その意味を御理解頂けたただろうか。
もっとも、タイトルの意趣というものは、何もかも明言すればよいというものではないと私は考えている。
言葉の意味を一つずつ解いていけば、そこに込めた意図は見えてくる。しかし、その先に何を感じ取るのか、どの意味を拾い、どのように繋げるのかは、読者の皆様に委ねたい。
答えを一つに定めるのではなく、言葉の中に幾つもの意味を置いておく。
それもまた、『羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って』というタイトルに込めた意趣の一つである。
皆様、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
『第四十九話「羅甸と羅点のテンポ(典歩/転歩)に乗って」』において、プロットや物語の進行意図を、少しでも感じ取っていただけたのであれば幸いです。
君は何を紡いで、何に嫁ぎ、何を遺す?
剰え……。君は何を子に継承するのか。
己が賭けては、子に掛ける。
――業を贖罪せよ。
改めて、検めて申し上げる。
遣唐使殿、巡礼の日は直だ。
――準備せよ。




