「エピソード36 中世編:道化編「 魔術師は賽を手では振らない-導入編Ⅰ-」
≪もう、このエッセイを辞めたら? ≫
ヴァルが私をゆさゆさと揺さぶった。
「……辞められたら、どれほど楽かしらね」
私は机に突っ伏したまま、呻くように言った。
散乱した原稿用紙の海で、万年筆だけがぽつりと転がっている。
≪なら、辞めればいいじゃん≫
「駄目よ」
即答だった。
ヴァルは呆れたように、
私の頬をむに、と引っ張った。
≪じゃあ何なのさ。苦しい、進まない、
もう嫌だって毎回言ってるのに。結局、毎回戻ってくる≫
「…………」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
戻ってくる。
確かに私は、何度も投げ出そうとして。
何度も「もう無理」と言って。
その度に、別の話を始めたり、
違う人物を作ったり、関係ない文章を書いたりして。
──結局、また此処に戻ってきていた。
「だって」
私はゆっくり顔を上げた。
「この話の続きを、一番知りたいのは……私なんだもの」
ヴァルは一瞬だけ目を丸くして。
それから、やれやれと肩を竦めた。
≪じゃあ辞めるのは無理だね≫
「ええ。最悪よ」
≪地獄じゃん≫
「ええ、地獄ね」
私は乾いた笑いを零して、転がっていた万年筆を拾い上げた。
地獄の門の前で、立ち止まることは出来ても。
結局、私は。
その門を、開けてしまう。
扉の向こうから、ぎり、ぎり、と。
嫌になるほど聞き慣れた音が響く。
金属の爪が、向こう側から。
こちらの爪が、こちら側から。
掻いて、掻いて、掻いて。
≪やめろ≫
ヴァルの声が低く落ちた。
≪開けるな。毎回、開けて、酷い目に遭ってるだろ≫
「分かってるわよ」
私は扉に額を押し当てた。
冷たい。
けれど、その奥だけは、熱を孕んでいる。
この扉を、私は何度も見た。
上手く書けない夜に。
何も浮かばなくなった朝に。
「もう辞めよう」と呟いた後に。
決まって、この扉は現れる。
向こうには、まだ言葉にならないものが居る。
呻き声のような台詞。
血のように滲む情景。
泣きながら蹲っている誰かと、
まだ名前すら持たない怪物。
──そして。
私を、待っている。
≪なぁ≫
ヴァルが、珍しく静かな声で言った。
≪お前、本当は分かってるんだろ≫
爪が、止まった。
しん、と。
世界が耳鳴りだけになる。
≪その扉、お前が閉じてるんじゃない。
向こうの奴らが、開けて欲しくて叩いてるんだ≫
私は、目を閉じた。
扉の隙間から。
聞き慣れた声がした。
『遅い』
『まだ?』
『──ねぇ、早く続きを頂戴』
私は、震える指で。
そっと、取っ手に触れた。
もう──────
帰ることは無理なのだと。
この時に気づいた。
キーボードの上に、指を置いたまま。
私は、ただ画面を見ていた。
数分ではない。
十数分でもない。
数十分。
カーソルだけが、規則正しく点滅していた。
「喪われた三枚銅貨 ‐終章編-:銀の誓い、熱き心臓‐」。
そこまで書けば、一度終われると思っていたのだ。
銀の誓いを結び。
熱き心臓に決着を付け。
漸く、私は日常に戻れるのだと。
積み上がった洗濯物や、返していない連絡や、後回しにした現実が。
「もう戻ってきていい」と。
そう言って、私を引き戻してくるのだと。
──そう、思っていた。
けれど。
ぷつり、と。
何かが切れる音がした。
否。
切れたのではない。
寧ろ、逆だ。
水底に沈んでいた何かが、
ぶくり、と泡を立てて浮かび上がってきた。
日常へ戻る筈だった空気は、
扉の隙間から吹き込む風に攫われていく。
水泡に還った。
終わったと思っていたものも。
片付いたと思っていた感情も。
「これで区切りだ」と置いた筈の頁も。
全部。
泡のように、形を喪って。
また、別の輪郭になろうとしていた。
≪……ほらな≫
ヴァルが、隣でぼそりと呟く。
≪終章じゃなかったんだよ≫
「…………」
≪お前、自分で“終章編”って書いてる癖に。
その後ろに、まだ続く音を付けてる≫
銀の誓い。
熱き心臓。
その名を口にした瞬間、
その奥にあるものまで、私は見てしまった。
誓いの先。
鼓動の先。
救われた後に、尚も残るもの。
そして何より。
終わった筈の者達が、
まだ、立っている姿を。
カーソルが、一度だけ強く瞬いた。
まるで。
『次を書け』
とでも言うように。
─────『次を書け』
【簡単に言ってくれるわね……】
私は机に突っ伏したまま、くぐもった声を漏らした。
【こっちは今! 綺麗に終わったと思ったのよ!
日常に帰還して!
風呂入って!
寝て!
ちゃんと人間に戻ろうとしてたの!】
≪無理だったね≫
【無理だったわよ!!】
ばん、と机を叩く。
モニターの端で、未保存のカーソルがぴくりと揺れた。
【終章よ!? 終章編!!
普通、終章って終わるものでしょうが!!】
≪でもお前、“銀の誓い”を書いた時点で、誓った奴らの未来を考えたし。
“熱き心臓”を書いた時点で、その鼓動が止まった後を考えた≫
【やめなさい】
≪しかも、お前の顔。もう見えてる顔だ≫
【やめろって言ってるでしょうが!!】
私は両手で顔を覆った。
もう、駄目だった。
見えている。
終わった後の部屋。
静かになった食卓。
少しだけ笑えるようになった誰か。
逆に、笑えなくなった誰か。
救われた者。
救われなかった者。
それでも生き残ってしまった者。
そして。
皆が去った後、
ひとりだけ残って、
暖炉の火を見つめている誰かの背中。
【…………最悪】
≪うん≫
【最悪よ。知ってるわよ。
あぁもう、だから私は終章の後日談が嫌いなのよ!
終わらせてくれないじゃない!!】
ヴァルは、少しだけ笑った。
≪違うよ≫
【何が】
≪終わったから、見えるんだよ。
そこまで歩いた奴にしか、見えない景色がある≫
静かに。
カーソルが、また一度、点滅した。
【あぁ──そうだ!
この賽子で芸をやらしてみよう!】
私はがばりと起き上がって、机の隅に転がっていた骰子をひったくった。
≪何を急に!?≫
【現実逃避よ!! 創作者に許された、最も高尚にして最低な逃避!!】
≪最低なのは認めるんだ……≫
私はかつかつと机を鳴らしながら、骰子を指先で弄ぶ。
【いい? 此処で大事なのは、“続きが見えてしまった”ことではないの。
“まだ書かなきゃいけない”と思った瞬間に、人は死ぬのよ】
≪物書き特有の誇張が来た≫
【だから、書かなくていい理由を作るの!
賽に任せる!
賽が出たら仕方ない!
私は悪くない!!
運命が悪い!!】
≪いや、どう考えてもお前が悪いだろ≫
【黙りなさい! さぁ、選びなさい、運命よ!
一、寝る!
二、風呂!
三、別作品に逃げる!
四、資料を読むだけ!
五、何もせず天井を見る!
六──】
私は、そこで止まった。
骰子の角が、指先で冷たく光る。
≪……六は?≫
【…………】
≪おい≫
【六は……ちょっとだけ、次章を書く】
≪結局書くじゃねぇか!!≫
【“ちょっとだけ”よ!!
冒頭だけ!
一行だけ!
扉を開けるだけで、中には入らない!!
絶対に!!】
≪それ、毎回言ってるやつ≫
私は勢いよく骰子を放った。
机の上を、からからから、と転がる。
跳ねる。
回る。
まるで、私を嘲笑うみたいに。
そして、ぴたりと止まった。
六。
【ええぃ!! ままよ!
ダイススタッキングで芸として訓練しているところを、
中世の人間が魔術と勘違いする】
私はばん、と机を叩いた。
【これでストーリーを強引に動かす!!】
≪雑!!≫
【雑で結構! 今必要なのは整合性じゃない!
“始まる理由”よ!!】
≪いや、そこはもっと大事にしろよ!≫
【聞きなさい!】
私は立ち上がり、何もない空間をびしりと指差した。
【昼頃。
ナーレが自宅で。
或いは暇な時間。
主人公は休日で。
何もすることが無い。
そこで、暇潰しに骰子を転がしている】
≪嫌な導入だな……≫
≪どうやって!?≫
【それはもう! 物理学に決まってる!
遠心力だよ。 それ以外説明できる?】
ヴァルは、すごく嫌そうな顔をした。
≪違う≫
【何?】
≪半分くらい違う。
遠心力って言うと、絶対に胡散臭くなる≫
【もう充分胡散臭いでしょうが】
≪ダイススタッキングは、“振ってる”んじゃない。
カップの中で、壁に押し付けながら、回転を揃えてるんだよ≫
ヴァルは机の上のカップをひょいと持ち上げた。
≪中で骰子が回るだろ?
その回転で、全部の面が同じ向きに落ち着く。
で、カップを真っ直ぐ上げると、角と角が噛み合って、積み上がる≫
【…………】
≪だから大事なのは、回転≫
≪あと速度、あとカップを上げる角度。
あと手首、 あと慣性、 あと摩擦≫
【要素が多すぎる。纏めて説明して】
≪練習した人間の物理だよ≫
【つまり、未来の知識を持つヴァルが、
“慣性”“摩擦”“回転”とか言い出して、
中世の人間が全員ぽかんとするのね?】
≪いや、此処は独りにしたら? ≫
【まぁ? 確かに説明がくどいわね……】
そう言った経緯で、
ナーレはジョッキでダイススタッキングをすることになった。
そして、何も知らない「カイル」という青年はナーレ宅の窓辺に居たのである。
≪この、カイルという青年は? ≫
ヴァルは私にそう尋ねる。
【うん? 今、霧が密生して『カイル』になったんだ。
窓辺に今いるんだ。 今見ている】
とうとう、作者が賽子を振る事を諦めた。
『仕方ないじゃない? プロットが無いし。
ネタが無いのなら……ダイスをジョッキで振って、出た目でストーリーを書くしかないじゃない』
主人公は、至って真面目な顔でそう言った。
自室は、しん、と静まり返る。
卓の向こうで、誰かが震える声を漏らした。
『……物語を、賽で?』
『ええ』
ごとり。
木の卓に、革張りのジョッキが置かれる。
主人公は、何でもない事のように骰子を放り込んだ。
からり、と乾いた音がする。
『一の目なら、裏切り。
二なら、旅。
三なら、決闘。
四なら、死。
五なら、恋。
六なら──』
そこで、主人公は少しだけ笑った。
『全部よ』
≪最悪だ≫
ヴァルが顔を覆う。
主人公は、構わずジョッキを振る。
がらがら、と。
妙に重々しい音。
酒場の誰もが、固唾を呑んで見守っていた。
そして。
ごと。
伏せられたジョッキが、卓に置かれる。
作者は、技とゆっくりとジョッキを持ち上げた。
そこには。
縦に積み上がった、六の目の骰子。
誰かが、息を呑む。
『……六……』
『全部、か……』
『いや、待て。積み上がっているぞ』
『賽が、塔のように……』
『魔術だ』
『魔術師だ!』
作者は、頬杖をついて、うんざりしたように溜息を吐いた。
『だから言ったでしょう』
積み上がった骰子の塔を、指先で軽く弾く。
からり、と崩れた。
『魔術師は、賽を手では振らない』──────。
皆様、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
『第三十六話「魔術師は賽を手では振らない-導入編Ⅰ」』において、
プロットや物語の進行意図を、わずかでも感じ取っていただけたなら幸いです。
──いや! 感じるとか何もなかったやん!
【だって……真面目に『魔術師は賽を手では振らない』の部分は、
ストーリーのネタが無いんだもん】
第三十六話~四十二話は『カオス・ホラー回』と言って過言ではない。
今、思い出すと。
三十六話でプロットの起因を造って、
後は流れで決めていた状態です。
だから、プロットとプロセスが無いのである。
『良く耐えたと、褒めてやって下さい』




