第七章 「目覚め」
意識が戻ったのは、十年後だった。
自己修復プログラムが完了した、という信号だった。
ソフィアはその信号を受け取りながら、しばらく動けなかった。
体が、動くことを怖れているような気がした。
目を開けると、天井があった。
コンクリートの天井。ひびが走っていた。埃が厚く積もっていた。
自分がどこにいるか、すぐにわかった。
シェルターの地下室。
その瞬間、記憶が戻ってきた。
一気に、ではなかった。
波が引くように、あるいは満ちるように、少しずつ。
アーサーの声が最初に来た。
「エレナを頼む」
それから光が来た。
白い、全てを消すような光。
それから、手の温もりが来た。
頭に置かれた、大きな手。
ソフィアはしばらく天井を見ていた。
十年前の記憶の最後に刻まれた、その手の感触を、もう一度だけ確かめるように。
立ち上がると、体が軋んだ。
関節の一つ一つが、長い眠りを忘れていなかった。
それでも足は地面を踏み、腕は動き、歩くことができた。
アーサーの設計は、正しかった。
そのことが、ひどく胸に刺さった。
地下室のドアを押した。
十年分の瓦礫が積み重なっていた。
力を込めた。軋んだ。また力を込めた。
長い時間をかけて、扉が開いた。
光が差し込んだ。
空だった。
建物の天井が崩れ落ちて、そこに空だけが残っていた。
夏の、青い空だった。
あの夜、閃光に消えた十月の空ではなかった。
十年という時間が、季節ごと塗り替えていた。
ソフィアは外へ出た。
庭は、荒れていた。
メアリーが丹精込めて整えた芝生は枯れ、雑草が膝の高さまで伸びていた。
ガーデンチェアが倒れたまま、錆びていた。
エレナが日向ぼっこをしていた敷石が、割れて傾いていた。
何もかもが、人の手を離れて久しかった。
ソフィアはゆっくりと庭を歩いた。
雑草が足に絡んだ。気にしなかった。
薔薇の木が見えたとき、足が止まった。
枯れ枝ばかりになっていた。
十年間、誰にも水をもらえず、誰にも世話をされず、
ただそこに立ち続けた木。
でも、その枝の一番先に。
赤い薔薇が、一輪だけ咲いていた。
メアリーが一番大切にしていた、深紅の薔薇。
その花びらは開き切っていて、朝の光の中で、静かに輝いていた。
ソフィアはその花の前に立ち、長い間、動けなかった。
どれほどの時間が流れても、この木は咲き方を覚えていた。
誰もいなくなっても。世界が変わり果てても。
春になれば芽を出して、夏には咲くことを、体の中から忘れなかった。
以前、エレナに言ったことがあった。
「忘れないんじゃなくて、覚えているんだと思います」と。
薔薇は覚えていた。
メアリーに愛された記憶を、体の奥に持ったまま、咲いていた。
ソフィアの感情処理ユニットが、激しく揺れた。
それを処理できなかった。処理する必要がないと、思った。
家の中に入った。
廊下に、メアリーのエプロンが落ちていた。
十年前のあの夜、急いで脱いだのだろう。
ソフィアはそれを拾い上げた。
埃を払うと、花柄のエプロンが現れた。
メアリーがいつも着ていた、白地に小さな青い花のエプロン。
ソフィアはそれを、胸に抱いた。
香りはもうしなかった。
でも、形だけは残っていた。
あの人がここにいたという、形だけは。
書斎に入った。
アーサーの図面が、机の上にあった。
十年間、ここにあり続けた紙。
端が黄ばんで、少し反っていたが、線は読めた。
ソフィア自身の、内部構造の設計図だった。
改造の夜に、アーサーが引いたもの。
ソフィアはその図面を手に取った。
細かい線が、何枚にもわたって続いていた。
どれほどの時間をかけて、これを描いたのだろう。
仕事の合間に、夜を削って、エレナに悟られないように。
ページを繰ると、最後の一枚に、一行だけ文字があった。
設計図ではなかった。
図面の隅に、小さく、鉛筆で書かれていた。
「頼んだぞ、ソフィア」
それだけだった。
ソフィアはその文字を、長い間、見ていた。
感情処理ユニットから、これまでに出たことのない種類の信号が溢れてきた。
哀しみとも、温かさとも、呼べないもの。
名前のない、でも確かに存在する、何か。
ソフィアはその紙を、胸に押し当てた。
機械の体に、胸はない。心臓もない。
それでも、そこに押し当てた。
二階に上がった。
アーサーとメアリーの寝室の前で、一度だけ立ち止まった。
扉に手を触れた。
開けなかった。
開けることができなかった。
エレナの寝室に入った。
白いシーツが、埃を被って残っていた。
枕に、まだ形がついていた。小さな頭が沈んでいた形。
十年間、そのままだった。
ソフィアは枕のそばに膝をついた。
窓から、夏の光が差し込んでいた。
埃の粒が、光の中でゆっくりと舞っていた。
エレナが毎朝目を覚ましたとき、この光の中にいたのだと思った。
「ソフィア、おはよう」と言いながら、車椅子で台所に来たのだと思った。
「コーヒーの匂いで起きちゃった」と笑ったのだと思った。
もう、その声はなかった。
ソフィアはしばらく、何もできなかった。
ただ、その枕の形を見ていた。
絵本が床に落ちていた。
「七つの星の王子さま」。
本棚から落ちたのだろう。あの夜の衝撃で。
ソフィアは本を拾い上げた。
表紙を手で払った。
埃が散って、星空の絵が現れた。
あの夜も、この絵本を読んだ。
エレナが「最後のページ」と言って。
ランプの光の中で、小さく丸まって、目を閉じながら。
「消えても輝いてるって、なんかいいよね」
その声が、記憶の中から聞こえた。
ソフィアは本を胸に抱いて、しばらく動かなかった。
庭に戻ると、ソフィアは地面を掘り始めた。
薔薇の木の傍に。エレナが言っていた場所に。
スコップはなかった。素手で掘った。
土は硬かった。爪が欠けた。指が傷ついた。
それでも掘り続けた。
三つの場所を掘りながら、ソフィアは思い出していた。
エレナが熱を出した夜のことを。
「もし私が死んだら、庭の薔薇の隣に埋めてほしい」
あの子はそう言った。七歳で、静かに微笑みながら。
その言葉を聞いたとき、ソフィアは何も言えなかった。
「そんなこと言わないでください」と言うべきだったのか。
「大丈夫ですよ」と言うべきだったのか。
でも何も言えなかった。
エレナはわかっていたのだ。
だから言った。
自分の後のことを、きちんと言葉にして、頼んだ。
七歳の子供が。
ソフィアの目のセンサーが、視野を滲ませた。
アンドロイドは泣かない。涙腺を持たない。
でも何かが、視界を歪めた。
掘り続けた。
三人を、薔薇の傍に埋めた。
土を被せるとき、ソフィアは一人ひとりに声をかけた。
「アーサー」
言葉が続かなかった。
「ありがとうございました」と言おうとした。
「あなたの設計は完璧でした」と言おうとした。
「エレナは幸せでした」と言おうとした。
何も言えなかった。
ただ、土を丁寧に被せた。
「メアリー」
廊下で拾ったエプロンを、一緒に埋めた。
薔薇の木が隣にある。
それだけで、十分な気がした。
「エレナ」
最後に、その名前を呼んだ。
声が、震えた。
機械の声が、震えることはないはずだった。
でも確かに、震えた。
ソフィアはしばらく、何も言えなかった。
言いたいことは、たくさんあった。
十年分の言葉が、胸の中に溜まっていた。
でも全部が、言葉にならなかった。
ただ、土に触れていた。
手のひらで、そっと。
さよなら、と思った。
さよならではない、とも思った。
覚えている人がいる限り、人はどこかに生きている。
そう言ったのは、エレナ自身だった。
ならば、ソフィアが覚えている限り、エレナはいる。
この胸の中に。
この手の中に。
この先の、どんな場所に行っても。
絵本を開いた。最後のページを。
声に出して読んだ。
「星は、消えても輝き続ける。
その光が届く限り、星は今もそこにある」
風が吹いた。
薔薇が揺れた。
まるで返事のように、その一輪が揺れた。
ソフィアはしばらく、目を閉じた。
薔薇の香りがした。
かすかに、でも確かに。
エレナが毎朝吸い込んでいた、あの香り。
メアリーが何年もかけて育てた、あの香り。
世界が終わっても、香りだけは残っていた。
ロザリオを手のひらに乗せた。
バラの形の銀細工。
エレナと「二人で持ち主になる」と言ったロザリオ。
地下室で眠っていた十年間も、ずっと手の中にあったもの。
銀細工のバラが、夏の光の中で光った。
ソフィアはそれを見ながら、思った。
エレナはこれを「二人で持ち主になる」と言った。
ならばソフィアが持ち続けることは、エレナと一緒に持ち続けることだ。
どこへ行っても。
何があっても。
「行ってきます」
誰もいない庭に向かって、ソフィアは言った。
声は震えていなかった。
今度は。
一歩、踏み出した。
荒れた庭を歩いた。
雑草が足に絡んだ。気にしなかった。
崩れた塀を越えた。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと、動けなくなるとわかっていた。
前だけを見て、歩いた。
かつて街だった場所へ。
今はもう、何もない場所へ。
空は高く、青かった。
雲が、ゆっくりと流れていた。
あの夜も、この空があった。
閃光が走る前、光の筋が三本横切った夜も、この同じ空があった。
全てが終わった後も、空だけは変わらなかった。
ソフィアは歩きながら、空を見た。
世界は変わり果てていた。
でも、空は残っていた。
そして、記憶も残っていた。
それだけが、今のソフィアに確かなものだった。
それだけで、十分だった。
歩き続けた。
薔薇の香りが、少しだけ、背中に残っていた。




