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第四章 「六月の庭」

 八月の終わり、ソフィアは買い出しの帰り道に、音楽を聞いた。


 廃墟になりかけた通りの、古いアパートの一室。

 窓が一つだけ開いていて、そこからピアノの音が流れていた。


 立ち止まって、ソフィアは耳を澄ませた。

 メロディーはゆっくりと、少し不完全だった。

 鍵盤のいくつかが狂っているのか、時おり音が外れる。

 でも演奏者は止まらなかった。止まらずに、繰り返した。

 同じフレーズを、何度も、何度も。


 ソフィアは荷物を置いて、建物の中に入った。


 扉は開いていた。廊下は埃っぽく、壁紙が剥がれていた。

 音に従って二階へ上がると、小さな部屋に辿り着いた。


 部屋の中央に、アップライトピアノがあった。

 そのピアノの前に、ロボットが座っていた。


 家庭用の小型ロボットだった。身長は子供ほど。関節が少し錆びていた。

 手は人間の手に似た構造をしているが、金属製で、指の関節が太かった。

 その指が、ゆっくりと鍵盤の上を動いていた。


 半分以上の鍵盤が黒ずんでいた。

 いくつかの鍵盤は沈んだまま戻らなかった。

 それでも、演奏は続いていた。


 ソフィアはしばらく入り口に立って、聞いていた。

 何の曲かはわからなかった。データベースを検索したが、

 完全に一致する楽曲は見つからなかった。

 でもそのメロディーは、どこかで聞いたことがあるような気がした。

 遠い記憶の中の、春の雨のような旋律だった。


 「こんにちは」


 ソフィアが声をかけると、ロボットの手が止まった。

 ゆっくりと振り返った。目のセンサーが光った。


 「お客様ですか」


 声は低く、少しこもっていた。スピーカーが劣化しているのかもしれなかった。


 「通りかかって、音楽が聞こえたので」

 「そうですか」


 ロボットはそう言って、また鍵盤の方を向いた。

 しばらく弾かずにいた。


 「この曲は、なんという曲ですか?」


 ソフィアが聞くと、ロボットは少し間を置いてから答えた。


 「わかりません」


 「わからない?」

 「坊っちゃんが弾いていた曲です。毎日弾いていた。名前は教えてもらわなかった。

  それで、私も覚えてしまった」


 ソフィアは部屋の中を見回した。

 壁に、少年の写真があった。十歳くらいの男の子が、このピアノの前に座って笑っている。


 「坊っちゃんはどちらに?」


 ロボットはしばらく黙っていた。


 「戦争が始まる少し前に、引っ越しました。

  私はここに残りました。荷物が多すぎて、持っていけないと言われた」


 「それは……いつのことですか?」


 「三年前です」


 三年。ソフィアは計算した。

 三年前から、このロボットはここで、この曲を弾き続けている。

 帰ってくるかもしれない少年のために。

 あるいは、帰ってこないとわかっていても、弾き続けながら。


 「帰ってくると思っていますか?」


 ロボットは答えなかった。

 ただ、鍵盤の上に指を置いた。


 「弾いていると、坊っちゃんがいる気がします。

  それだけで十分です」


 演奏が再び始まった。


 ソフィアは聞きながら、データベースをもう一度調べた。

 部分的なメロディーを変換して、類似曲を当たった。

 それから、一致する曲を見つけた。


 「六月の庭、という曲です」


 ロボットの手が一瞬だけ止まった。


 「六月の庭」

 「はい。百年以上前の子守唄です。あまり知られていない曲ですが、

  確かに存在する曲です」


 ロボットはしばらく、その名前を繰り返した。

 「六月の庭。六月の庭」

 まるで初めて名前をもらったもののように。


 「ありがとうございます」


 その声は、低く、静かだった。

 でもソフィアには、その声の中に何か深いものが含まれているように聞こえた。


 「どういたしまして」


 ソフィアは荷物を持って、部屋を出た。

 廊下を歩きながら、背後に演奏の音を聞いた。

 同じメロディー。でも今は、名前を持ったメロディー。


 「六月の庭」


 ソフィアはその旋律を、自分の記憶に刻んだ。

 意識的に。深く。


 帰り道、その旋律が頭の中で繰り返された。

 その夜、ソフィアはエレナに子守唄を歌った。

 初めて歌う旋律。


 「六月の庭に 雨が降る

  やわらかな雨が 花を濡らす

  眠れ、眠れ、愛しい子よ

  夢の中でも 花は咲く」


 エレナはすぐに眠ってしまった。

 幸せそうな顔で。


 翌日、ソフィアはまたあのアパートを訪ねた。

 扉は開いていた。

 階段を上がると、部屋に入った。

 ピアノがあった。

 椅子があった。


 ロボットはいなかった。


 ソフィアは部屋に入って、椅子を見た。

 ピアノの鍵盤は、昨日と同じ場所で沈んだままだった。

 窓から入る秋の光が、埃の中に漂っていた。


 どこへ行ったのか、ソフィアにはわからなかった。

 もしかすると、少年を探しに行ったのかもしれない。

 もしかすると、ただ力が尽きたのかもしれない。


 ソフィアは窓のそばに立って、その旋律を一度だけ、小声で歌った。


 「六月の庭に 雨が降る」


 そして、窓をそっと閉めた。


 別れを告げることもせずに去っていったあのロボットに、

 せめてこれくらいはしてあげたかった。


 外に出ると、空は高く澄んでいた。

 遠くで、鳥が鳴いた。


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