第一章 「バラ色の朝」
その朝、世界はまだ美しかった。
ライト家の庭には、五月の終わりになるといつも薔薇が咲いた。赤、白、淡いピンク、黄色。
メアリーが何年もかけて育ててきた薔薇たちは、今年も申し合わせたように一斉に花開いて、
塀の外まで甘い香りを漂わせていた。
ソフィアはその香りで目覚める。
正確には、アンドロイドに「目覚め」はない。設定時刻になれば意識が起動し、
センサーが外界の情報を取り込み始める。けれどソフィアはいつも、
最初に取り込む情報として薔薇の香りを選んでいた。意図的に。
それがこの家での朝の始め方だったから。
ソフィアは身を起こし、窓の外を見た。
東の空がうっすらと朱に染まっている。芝生の上に朝露が光っている。
庭の中央の大きな薔薇の木が、朝風に揺れていた。
隣の部屋から、小さな寝息が聞こえてくる。
エレナはまだ眠っている。
ソフィアは音を立てずに部屋を出て、廊下を渡り、エレナの寝室のドアを少しだけ開けた。
七歳の少女が、白いシーツに包まれて眠っていた。栗色の髪が枕に広がって、
薄い胸が規則正しく上下している。その胸の下に、確かな心臓の疾患がある。
ソフィアにはそれが感覚でわかる。エレナの心拍音を、彼女は何千回も記録してきた。
少しだけ不規則で、少しだけ弱い、でも確かに生きているその音を。
ドアをそっと閉めて、台所へ向かう。
コーヒーの豆を挽く音がすれば、やがてアーサーが降りてくる。
パンが焼ける香りがすれば、やがてメアリーが来てソフィアを「ありがとう」と言いながら
あたたかい笑顔で迎える。そしてエレナが目覚めて、「ソフィア、おはよう」と言いながら
車椅子で台所に入ってくる。
それが毎日だった。
それが、当たり前だった。
ソフィアはコーヒーを淹れながら、窓の外の薔薇を見ていた。
朝の光の中で薔薇はいっそう色濃く見えた。赤い花びらの上に朝露が一粒、
宝石のように光っている。
感情処理ユニットが、かすかに揺れた。
美しい、という信号が、静かに処理された。
これを「喜び」と呼ぶのかどうか、ソフィアにはわからなかった。
けれどこの感覚を、彼女はとても大切にしていた。
「ソフィア」
振り返ると、エレナが車椅子で台所の入り口に立っていた。いつの間に起きたのだろう。
栗色の髪は寝癖でほんの少しはねていて、目はまだ眠そうだったけれど、
その瞳の中には不思議な光があった。灰色がかった薄い青の瞳。
いつでもどこかを見ているような、遠くを見ているような、
それでいてちゃんと目の前のものを見ている瞳。
「おはようございます、エレナ」
「コーヒーの匂いで起きちゃった。ソフィアの淹れるコーヒー、いい匂いだから」
エレナは笑った。子供らしい、無邪気な笑顔。ソフィアの感情処理ユニットが
また揺れた。今度はより大きく。これは確かに喜びだった。
「エレナは飲めませんよ、コーヒーはダメです」
「わかってる。でも匂いだけで幸せだもん」
そう言いながらエレナは車椅子を動かして、窓のそばに来た。
庭の薔薇を見て、小さく息を吸った。
「きれいだね」
「そうですね」
「ねえ、ソフィア。今日、庭に出てもいい?」
「昨日の気温と今日の予報を比較すると、今日のほうがあたたかいですね。
お父様が出かけたあと、ご一緒しましょう」
「やった」
エレナはまた笑った。ソフィアはその笑顔を、自分の記憶の中で一番大切な場所に保存した。
毎朝そうしているように。
アーサーが降りてきたのは、それから十分後だった。
背が高く、少し無口で、でも目が優しい男だった。ソフィアはアーサーのことを
「お父様」とは呼ばない。彼自身が「アーサーでいい」と言ったからだ。
でもソフィアの中では、彼は確かにこの家の父だった。
「おはよう、ソフィア。エレナ、もう起きてたのか」
「コーヒーの匂いで起きた」
「お前はいつもそれだ」
アーサーは娘の頭を撫でて、コーヒーを一口飲んだ。
ソフィアはその様子を見ながら、今日の朝食の準備を続けた。
卵を二つ割る。パンをトースターに入れる。
エレナの薬を、コップの隣に並べる。小さな錠剤が三つ。
その薬を並べるたびに、ソフィアの中で何かが小さく収縮する。
感情処理ユニットが「哀しみ」に近い信号を出すのを、彼女はいつも静かに処理した。
表に出すことはしなかった。この家に哀しみは似合わなかった。
少なくとも、朝の食卓には。
メアリーが階段を降りてくる音がした。
エプロンを手に持って、「あら、もう準備できてるの。ありがとうソフィア」と言いながら、
薔薇色の頬でソフィアを見た。
この家には、薔薇の香りが似合った。
朝食の後、アーサーが仕事に出かけた。
ソフィアはエレナと二人で庭に出た。約束通り。
車椅子の前輪が芝生の上で少し沈む。ソフィアはそれを支えながら、
ゆっくりと薔薇の木の前まで進んだ。エレナが手を伸ばして、
赤い薔薇の花びらにそっと触れた。
「やわらかい」
「ええ」
「香りがする」
「はい」
「ソフィアも感じる?」
「感じますよ」
ソフィアはそう答えながら、確かに感じていた。
薔薇の香りを。芝生のしめった匂いを。エレナの手の温度を。
自分のセンサーが捉えるこれらの情報が「感じる」と呼べるかどうか、
ソフィアは時々考えた。人間の「感じる」と同じかどうか。
でも今は、同じかどうかより、ただ感じていることのほうが大切に思えた。
「ねえ、ソフィア」
「なんですか?」
「薔薇ってさ、なんで毎年咲くんだろう」
エレナが空を見上げながら言った。
五月の空は薄く青く、白い雲がゆっくりと流れていた。
「冬になると枯れたみたいになるけど、また咲く。どうして忘れないんだろう、
咲き方を」
ソフィアは少し考えた。植物学的な答えは知っている。
でも今エレナが聞きたいのは、そういう答えではないと、わかった。
「忘れないんじゃなくて、覚えているんだと思います」
「覚えてる?」
「何年も何年も、春になると咲いてきた記憶が、体の中にあるんじゃないでしょうか。
だから来年の春も、きっと咲き方を知っている」
エレナはしばらく薔薇を見ていた。それから小さく「へえ」と言った。
その「へえ」の中に、深く考え込んでいる子供の重さがあった。
「じゃあ、ソフィアも?」
「私も?」
「ソフィアも、覚えてることがあるから、今ここにいる?」
ソフィアは答えに詰まった。
その問いは、とても深いところから来ていた。
「……そうかもしれません」
ソフィアがようやくそう答えたとき、エレナはもう花に視線を戻していた。
薔薇の花びらをそっと数えながら、何か小さな声でつぶやいていた。
ソフィアには聞き取れなかった。でも、それでいいと思った。
その午後は穏やかだった。
風は薔薇の香りを運び、エレナは日向ぼっこをしながら絵本を読み、
ソフィアは傍らで針仕事をした。
夜、空を横切る光の筋を、ソフィアは見た。
細く、速く、一直線に。流れ星とは違う軌跡。
センサーが「偵察機」と判断した。
彼女はその情報を処理して、静かにしまった。
今夜はそれよりも大切なことがあった。
エレナに絵本を読む時間が、もうすぐやってくる。
寝室でランプを灯すと、エレナはすでにシーツに潜り込んでいた。
枕元に絵本が置いてある。表紙には満天の星空の中を旅する小さな王子の絵。
「七つの星の王子さま」。エレナが一番好きな本。
ソフィアは椅子を引き寄せて、本を開いた。
「今日はどこから?」
「最後のページ」
エレナがそう言った。ソフィアは最後のページを開いた。
そこには、この物語の結びの言葉が書かれていた。
ソフィアはゆっくりと読んだ。
「星は、消えても輝き続ける。その光が届く限り、星は今もそこにある」
部屋が静かになった。
エレナが目を閉じていた。
「いい言葉だと思わない?」
「……ええ」
「消えても輝いてるって、なんかいいよね」
ソフィアは答えなかった。
ただ、その言葉が自分の記憶の深いところに沈んでいくのを、感じていた。
「おやすみなさい、エレナ」
「おやすみ、ソフィア」
ランプを消す前に、ソフィアはもう一度だけ庭を見た。
薔薇の輪郭が、月明かりの中に浮かんでいた。
美しかった。
空に、光の筋が見えた。
今夜は一本だった。




