104話。藁を掴む獅子
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尾張那古野
秋口。長尾景虎が関東に到来する前に動かねばならない。そう決意を固めた幻庵は、関東での刈り入れが始まる前に、北条家の今後を左右するであろう交渉を行う為、尾張を訪れていた。
「ほほう。伊豆と相模をなぁ。うむ。北条殿はそこまでの覚悟を決めたかや」
「はっ」
「ふむぅ。そうするしか無かったとはいえ本貫を捨てるとはようやるわい。少なくとも相模の獅子殿は国人を抑えるだけの器量をお持ちのようじゃの」
「……恐れ入りまする」
今や関東に知らぬ者はいないと言っても良い大名である北条家からの使者にして、自身の三倍は生きているであろう老僧北条幻庵を前にして、当然のように上座に座りつつ、対等に、否、むしろ格下の相手を扱うような態度で主君北条氏康を評する赤毛の少女に対し、幻庵は静かに頭を下げる。
もし信長を前にしていたのが彼以外の者だった場合「少し前まで尾張守護に仕える守護代家の家老の家でしかなった分際で何様だ! 長きにわたり関東に名を馳せる我らを侮るな!」と憤慨していただろう。
だが北条家にとって重要なのは、数年前の尾張下四郡の代官でしかなかった先代織田信秀が率いる織田弾正家ではなく、尾張・三河・西信濃・南信濃と、合計すれば百万石に近い知行を持つ、現当主織田信長が率いる現在の織田弾正家だ。
それに相手は所領だけ見ても、相模・伊豆、それと武蔵の一部を合わせておよそ五十万石を治める北条家の倍の石高がある上、朝廷から正式に弾正大弼に補任されている身でもある。そんな自分たちよりも格上の相手に対して謙ることに抵抗を覚える程、幻庵と言う男は青くない。
それにそもそもの話だが、現在の氏康が三代目と言うことから分かるように、北条家自体が早雲によって興された新興の家なのだ。これまでその事を散々利用して相手を侮らせ、油断した相手の足を掬うことで名よりも実を得て来た結果が今の北条家である。
その流れを誰よりも間近で見てきた幻庵は、相手が新興の家だからと言う理由で侮るような真似は絶対にしない。
何より目の前の少女は幻庵をして決して侮れるような存在ではないのだ。
「ま、どうせ長尾に小田原を囲まれては、治部に相模や伊豆を攻められた際に援軍を出すことは出来ぬものな。で、援軍を出せぬと理解しておきながら国人に「籠城せよ」などと言っても、それは国人どもに対して治部に寝返らせる口実をやることにしかならん。じゃったら最初っから城を捨てると言うのは悪手ではないわな」
「……はっ」
「治部としてはお主らが『長尾に対抗する為に全力を注ぐ為、本貫を留守にせざるをえない』ことを理解しておるが故に、相模や伊豆が空であることに違和感を抱かん。しかしこれは長尾の動きを利用して動くであろう治部に『駆虎呑狼の計が成功した』と思わせるための罠、じゃろ?」
この場合、虎が北条。虎に狙われた豹が長尾。空いた巣穴を狙う狼が今川となる。実際の力関係は、長尾が豹どころではなく虎すら喰らう龍であり、それに狙われた北条が一番大きな巣穴に家族親族を集めて籠っている間に、空いた巣穴を狼である今川が掠め取ると言った感じになるので、駆虎呑狼の計とは少し違うのだが、流れとしては間違ってはいない。
「……その通りでございます」
その為、小田原で氏康に告げたことをそのまま口に出された形となった幻庵は、心の中で「これのどこがうつけだ!」と、叫び声を上げていた。
実際、景虎が率いる越後勢を相手にして勝つことは出来ないと言うことは、北条家が誇る地黄八幡こと北条綱成も認めている事実である。よって長尾家の関東乱入に対する北条家の基本戦略は『彼らが帰るまで待つ』と言う、非常に消極的なものであった。
また、いくら小田原城という堅城に籠城するとはいえ、兵が少なければ防衛することはままならない。よってこれまで北条家は、無駄な損耗を嫌うがために越後勢の南下にあわせて一時的に武蔵や相模に展開している軍勢を小田原に戻しており、徹底的に損害を出さぬようにしていた。
この戦国乱世のご時世。通常なら、こう言った『負けることが前提の消極的な戦略』を採用する大名に従う国人など居ない。普通なら「頼りなし」として、国人たちは北条家を見限るのが当たり前だ。
しかし『戦には強いが、冬が終われば越後に帰る』と言う不思議な習性を持つ長尾景虎に対してだけは、「戦わないこと」が最適解であることは関東の国人も認めているし、長尾に後を託されることになる山内上杉家や、古河公方があまりにも愚かすぎて国人からの信用が無いこと。さらに北条家がその方針として、武蔵や上野の国人達に対して『長尾が来たら戦わずに降っても良い』と認めていることなどから、北条家が景虎に対して消極的な籠城策を取ったからと言って一方的に彼らの信用を失うと言うことはないのが実情である。
むしろ景虎が帰った後は、一時景虎に従っていた国人たちが率先して北条に従って、越後勢に荒らされた土地や、領主を殺された土地を接収して自分たちの所領を拡大させていくのがこれまでの常であった。
しかしそれはこれまでの話。
長尾が帰った後に残るのが山内上杉家や古河公方だけだったら今回もそうなっただろう。だが今回は、甲斐、駿河、遠江を治める大大名である今川家が控えているのが問題であった。
越後からの遠征軍である景虎と、その武力を頼りにしなければ満足に戦も出来ない両者と比べ、今川家は自身の力だけで北条と戦えるし、何より今川家は足利家の連枝衆にして『御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』と言われるほどの家である。
よって彼らはこれを拡大解釈することで『足利将軍家の分家である古河公方に代わって今川家が関東を治める』と言うことも可能なのだ。
このため北条が真に警戒しているのは、春になれば勝手に越後に帰る景虎とその一味ではなく、自分たちに取って代わることが容易な今川の動向であった。
そして今川の動向を掣肘する存在として無視できないのが、彼らを不倶戴天の仇と公言している織田家である。
まぁ今川家を不俱戴天の仇としていたのは、斯波武衛やその家臣であった織田大和家。また、先代の弾正忠家に従って三河勢と戦っていた連中であり、そう言った面々はすでに千寿や雪斎の手で粛清されている。
さらに言えば、現在の信長は先代ですら成し得なかった尾張の統一を果たした英傑だ。それだけでなく、長年の敵で有った美濃の軍勢を追い返したり、三河の完全制圧や信濃の占領と言った結果を出しているときた。
家督を継いでから二年にも満たない期間でここまでの結果を出されてしまえば、たとえ兄の信広や叔父の信光であっても信長を『うつけ』と罵ることは出来ない。それに下手に信長に逆らって勘気を被った結果、三河や信濃と言った面倒な土地に飛ばされては困る。
よって織田家の人間は、その七割以上が今川との戦よりも尾張の統治を優先したがっていると言う事情が有るのだが、流石の幻庵も現在進行形で今川と戦火を交えている織田家の面々が『基本的に今川に対して含むところがない』などと言う状況だとは想像も出来なかった。
だからこそ、彼は起死回生の策を織田に明かし、その策への協力を仰いでしまう。
「で、長尾が越後に帰ったら……とりあえず武蔵の国人には干渉せず、山内上杉と古河公方を嚙合わせるか? そんでその間にお主らは小田原に籠城しとった全戦力を、治部が掠め取った伊豆と相模にぶつけるわけじゃな」
「はっ」
遠江・駿河・甲斐の三国を治める今川が動員出来る兵は、石高だけみれば最大で二五〇〇〇から三〇〇〇〇に及ぶ。しかし甲斐は戦続きで大軍を用意できる環境では無いうえ、南信濃からの攻撃を警戒する必要があるので動かせず、遠江の軍勢は三河に備えねばならない。
故に予想される、今川の軍勢は駿河で動員されるであろう九〇〇〇から一二〇〇〇。
対して北条が用意するのは小田原に籠城する兵一〇〇〇〇から一五〇〇〇。長尾との戦でどれだけの損害が出るかにもよるが、それでも今川勢とほぼ互角かやや上の兵数となるだろう。
ここで決め手となるのが地の利を得ていることだ。更に今川が甲斐や遠江にも優秀な人材を割り振る必要があるのに対し、北条は全てのリソースを今川に割くことが出来ることも、北条家にとっての大きなアドバンテージである。
来たる今川との戦の際に、できるだけ北条勢が有利になるように戦場を構築しようとする幻庵に対し、信長は一つ策を告げる。
「あぁそれと、相模や伊豆から兵を集める際に治部に進呈する城じゃがの」
「何でしょう?」
「うむ。下手に破却するよりは、大手門などの分かりやすいところと一緒に、分かりづらいところの防備を弱めておけば尚良いかも知れんぞ」
分かりやすいところを弱めておくのは取り戻す為の布石。そう見せかけて、分かりづらいところの穴を隠すための策。
「……なるほど。それは確かに効果的やも知れませぬな」
野戦なら完全に北条が有利。もし今川が籠城策を取ったとしても、その籠城する城に決定的な穴を作っておけば、落とすのは難しくない。
(これは、すぐに殿に知らせねばならぬな)
自分たちの策をあっさりと見破った挙句、補強する策まで提示して見せた信長の才覚に内心で驚きながらも、その有用性を確信した幻庵は信長から告げられた策を自分の策に上乗せさせることを決意する。
「一度手にした土地を捨てるのは難しい。それも一度も戦わずに手にした土地なら猶更、じゃ。故に治部は余程の兵力差が無い限りはお主らの作った盤上の上での戦を強いられる。その一撃で勝てれば良し。最悪でも膠着状態になれば……」
「駿河からの援軍がない遠江に、織田様が全力をぶつけることが出来まする」
「うむ。美濃の青大将に警戒する必要がない今なら、尾張から一〇〇〇〇は出せる。で、現在三河に展開しておる六〇〇〇と合わせれば一六〇〇〇。四〇〇〇から五〇〇〇しかおらぬ遠江の連中を蹂躙するには十分じゃな」
「はっ」
遠江を失えば今川は本貫の駿河を危険に晒すことになるし、そうなれば彼らとて相模や伊豆で北条と争っている場合ではなくなる。
後は、今川勢が慌てて兵を退いたところに追撃をかけて、今川の戦力を減らした後で織田と共に駿河に攻めるも良し。駿河で織田と今川を対陣させている間に、相模と伊豆を取り戻した後で武蔵に向かうも良し。
細かい方針は氏康と詰める必要があるだろうが、幻庵としては「駿河と甲斐も織田にくれてやっても良い」とさえ考えていた。
それは、もし織田が今川を破り駿河と甲斐を治めたとしても、元々敵対していた者達の土地を治めるのは簡単ではないし、何より尾張を本貫とする織田が関東に食指を伸ばす可能性は極めて低いと言う考えからか「下手に駿河に領地があれば狙われる可能性が有る。ならば最初から全部織田にくれてやれば良い」と判断したのだ。
そして織田が東に出ないなら、残る行き先は北か西。
美濃を攻めるにしても、信濃を攻めるにしても、はたまた伊勢を攻めるにしても北条には損がない。それどころか、かつての甲斐武田家の倍以上の石高を持ち、武田晴信ら旧武田の家臣団を擁する織田が信濃に攻めてくれれば、長尾景虎に対してこれ以上ない程の餌となるではないか。
実際に兵を出すことは無いかもしれないが、匂わせるだけで良いのだ。それだけで長尾勢は信濃にも注意を払わなければならなくなるのだから。
(ふっ。長尾に悩まされるのは今回で最後に出来るやもしれぬな)
今回の攻勢を凌ぎさえすれば何とかなる。そう考えた幻庵はその鍵となる織田を動かす為、まずは目の前にある『遠江』と言う餌に食いついてもらうよう、交渉を行うことになる。
このような事情から織田勢を動かす為、必死にプレゼンテーションを行う老僧に対し、目の前の少女はウンウンと頷いたり「これで治部も終わりじゃな」などと相槌を打ちながらも(なんでお主らの為に儂らがそんな面倒なことをせにゃならんのじゃ。そもそも遠江も駿河も甲斐もいらんし。つーか、現時点でこれ以上所領が増えたら冗談ではなく過労で死ぬわい)などと考えていたのだが……そんな信長の内心を知る由もない幻庵は、彼女から得られた予想以上の好感触に「やはり織田と今川は不倶戴天の仇敵よ。これを停戦させようなどと、近衛、いや、景虎も阿呆なことを考えたものよ。所詮は男日照りが過ぎて酒に逃げた小娘よな」と停戦を主導したであろう自称軍神様のことを『人の心が分からぬ阿呆め。だからお主は独り身なのだ』と断じ、鼻で笑っていたと言う。
千尋の谷に突き落とされて、谷の底にあった沼で溺れそうになり、必死で掴んだものが藁だった獅子の図。
誘い受け失敗? ナンノコトヤラ。
ノッブは基本的に人間不信なので、どんなに美味しい話を提示されてもすぐには乗りません。また現状が一杯一杯なのは尾張の中の誰もが理解していますし「じゃ、お前遠江に転封な」と言われるのが嫌なので、今川を潰す機会だとは理解しても「この機会に遠江を取ろうぜ!」と提案してくる者もおりません。
例外は、手柄が欲しい白髪ロリを筆頭とした九州勢くらいでしょうか。ってお話
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