103話。谷に突き落とされている獅子
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相模・小田原城
北条早雲こと伊勢宗瑞が扇谷上杉家の家臣であった大森藤頼より奪って以来、名実ともに後北条家の躍進を支えたこの城は、氏綱、氏康と年月を重ねる毎に増築を行いその防御力を増しており、今となっては日ノ本に名高い難攻不落の城として知られるほどの堅城となっている。
そんな日ノ本有数の堅城のとある一室において、後北条家当主である北条氏康と、その家臣にして一門衆を束ねる老僧北条幻庵は、深刻な表情を浮かべながら相模や駿河が描かれた地図を前にして膝を突き合わせていた。
「これは、成功と言えるのか?」
「……何とも難しいところです」
手に持った扇子でポンポンと交互に甲斐と駿河を差しながら呻く氏康に、幻庵も渋い顔をしながら甲斐に置いた白い石を弾く。
「まさかここまで信虎が阿呆だったとは。いや、信虎に誘われた木曽とやらが阿呆なのやも知れぬが、流石にこれはなかろう」
「奴の衰えを見誤りました。申し訳ござらん」
「いや、叔父上のせいでは……」
「拙僧があれを買い被っていたのは事実にござる。それがわかっておれば、奴との接触は長尾が動く直前まで控えておりました」
「あぁ。うむ。それは確かに」
氏康が溜め息混じりに信虎を罵倒すれば、幻庵は甲斐の国主を勤めた経験がある信虎がここまでの阿呆だったことを見抜けなかったことを謝罪する。
そもそも信虎と接触した北条家の狙いは二つ。
一つは『今川義元が長尾景虎の南征に同調して伊豆か相模に入った際に、甲斐で信虎を独立させ、信虎に駿河を。そして織田に東三河から遠江を攻めさせることで今川家の脅威を取り除く』と言うものであり、もう一つは『織田との停戦を即座に信虎に破らせ、なし崩し的に今川と織田を戦わせる』と言うものであった。
一つ目の策の場合は、それで今川家が潰れればそれで良し。その後、晴信(信玄)を擁する織田と、甲斐と駿河を治めた信虎が戦うだろうから、北条家は長尾景虎が越後に帰るまで篭城し、帰ったらいつも通り関東の地を接収して領土を広めつつ、織田と武田の双方が疲弊するよう働きかけることで、西の安全を確保するつもりだった。
二つ目の策にしても、信虎が動いて停戦を破ることで今川と織田が戦ってくれるならそれだけで十分なので、あとは長尾が越後に帰還した後に自分たちが駿河に攻め入って、河東郡を取り戻すことも出来るはず。と言うものだ。
大きな違いは信虎が独立するかどうかだが、どちらに転んでも北条が得をする。そう確信して実行に移された策だったのだが……今回、この策は何の成果も見せずに水泡に帰してしまった。
その原因も、ただ時を待てば良いだけだったはずの信虎が短気をおこし、その僅かな時を待つことが出来なかったと言う、実に下らない理由なのだから、氏康とて文句の一つも言いたくなるというものだ。
しかも、その際に信虎が起こした動きも悪かった。
北条家としては、彼には自身がそれなりの準備を整えた上で、義元が動いた隙を突いて甲斐で独立をしてくれたり、自身が軍勢を率いて南信濃にいる織田勢に戦をしかけつつ、それを諌めに来た今川と険悪になってくれればそれで良かったのだ。
しかし当の信虎は何を考えたか、自分の準備も終わらない内に西信濃に居る木曽に対して織田が治める南信濃攻めを行うよう指示を出してしまった。
これだけでも『阿呆が!』と言いたくなるのに、さらに悪いのが木曽が即座に信虎の誘いに応じてしまったことだ。
今となっては信虎が木曽に対してどのような内容の書状を送ったのかは不明だが、木曽の行動の早さから察するに、恐らく『今川だけでなく北条も味方をするから心配はいらん』と、このような、相当威勢の良いことを言った上で『南信濃をやる』などと言った大盤振る舞いを約束していたのだと思われる。
そんな信虎が勝手にばら蒔いた空手形はともかくとして。
信虎の誘いに応じた木曽は勢いよく南信濃に攻め込んだものの、当の信虎の準備が出来ていないこともあり、西信濃と甲斐からの軍勢で挟撃を行うどころか、木曽勢が単独で攻め入ることとなってしまう。
当然のことながら、三河守や彼から信任を受けて南信濃を預かる秋山は、木曽ごときが単独で勝てる相手ではない。
結局あっさりと蹴散らされた上に、苛烈な反撃を受けてしまい、ただ被害を出しただけで終わってしまった木曽は、まともに抵抗することも出来ずに降伏。
その際に信虎から南信濃を攻めるよう指示を受けたと言う書状を織田に回収されてしまう。
この為『今川家が抱える武将である信虎による休戦協定違反』が判明し、織田はその報復として東三河に侵攻して、そのまま東三河を制圧してしまったのだ。
ここまでならまだ良い。
しかしここで信虎や氏康らにとって誤算だったのが、義元が織田に奪われた東三河の奪還よりも、関白と自身の顔に泥を塗った信虎の討伐を優先させてしまったことだ。
これにより、本来北条攻めの為に用意していたはずの軍勢が甲斐に向かうことになり、迎撃の準備が出来ていなかった信虎はあっさりと討ち取られてしまう。
さらに北条家にとっての誤算は続く。
北条家としては、ほぼ無傷で信虎を討った今川勢が、その余勢を駆って東三河を取り戻すために織田に攻勢をかけるかと思っていたのだが、ここで義元は『関白殿下の顔に泥を塗った大罪人を討ち取った。この度のこやつの動きは今川家の本意ではない』と、素直に謝罪してしまったのだ。
義元が謝罪した相手は織田と言うよりは停戦を仲介した関白近衛前久なのだろうが、それでも謝罪は謝罪。
木曽を降伏させ、さらに東三河も手に入れた上でこうして正面から謝罪をされた織田は『これ以上今川の罪を鳴らし続けることは難しいものがある』と判断したのか、一時攻勢を緩め、東三河から先に兵を進めることはしなかった。
この隙を突き、今川は遠江に兵を展開させ、防備を固めることに成功する。
結局、立て続けに二回も停戦を破られたことに憤る織田家と、正式な謝罪をしたにも関わらず兵を引かないことに憤る今川家が三河と遠江で対陣することとなったものの、両家共に関白の顔を潰す気は無いので『緊張状態にあることは事実なのだが、一触即発とも言い切れない』と言う、なんとも微妙な状態になってしまう。
まぁ微妙な関係とは言っても、三河の軍を指揮する三河守は『隙があれば遠江も取る』と公言しているし、それを聞いた今川も『調子に乗るな』と意気を上げているらしいので、ある意味では北条家の狙い通りとも言えなくもない。
しかしながら、氏康や幻庵から見て信虎は本当に必要最低限の仕事しかしていないし、今回の一連の動きのせいで今川の内部にいた信虎派の人間が完全に排除されたことを考えれば、その働きはマイナスと判断せざるを得ない状況であった。
よって、現在地図の前で頭を悩ませている二人の本音としては『なんでもう少し待てなかった!』とか『せめて自分の準備が終わるまで書状を出すのを待てや!』と、罵倒しながら信虎の首を全力で蹴り飛ばしたいところだ。
しかし、それも過ぎたこと。死んだ阿呆よりも生きている脅威に対処すべく、氏康は思考を切り替える。
「で、今川がこちらに来る可能性は有ると思うか?」
「……難しいところですな」
氏康や幻庵が予想する今川の基本戦略は、刈り入れが終わり次第越後から南下してくるであろう長尾と連携しての挟撃、である。
この場合北条家として特に注意すべき点は、こちらが小田原に篭った際にがら空きの伊豆や相模の諸城が今川に落とされることだ。
この場合厄介なのは、双方の距離が離れているため、今川は別に長尾と連絡を密にしなくとも同士討ちの心配が無いことだ。
また景虎が土地に頓着しないことも問題を助長させる一因である。
なにせ、あの酒の飲み過ぎで常識をどこかに捨て去った自称軍神様は、たとえ今川が火事場泥棒のような真似をしようとも『自分が今川に利用されようとも北条が滅ぶならそれで良い』と平然と言い切るような異常者なのだ。
だからこそ今川は、自分達に都合が良いタイミングで動くだけで最良の結果を出せる。こう言った事情を考えれば、長尾の動きにあわせて今川が相模か伊豆に仕掛けて来る可能性は非常に高いと思われる。
しかしここで問題になるのが織田の動きだ。
「難しい、か。叔父上は、織田がこのまま大人しくしている筈がないと?」
そうあって欲しい。氏康がそんな思いを込めながら確認を取れば、幻庵は力強く頷いて肯定の意を示す。
「はっ。織田弾正。決して尾張や駿河で噂されるような『うつけ』ではありませぬ」
実際に使者として尾張へと赴いた幻庵は、実際に信長を見た際にそう結論付けていた。
「あの者は異端ではあっても無能ではござらん。周囲があの者を理解出来ぬが故の『うつけ』と言う評価なのでしょうが、多少目端が利く者が見れば、警戒こそすれ、侮ることなど出来ませぬ」
器が大きすぎて尾張の国人程度では理解できない。故に『うつけ』なのだ。
「うむ。それはわかる」
幻庵がそう断言し、氏康もそれを否定しない。それは信長が『結果』と言う、何よりも説得力が有るモノで己の価値を証明しているからだ。
美濃の青大将や斯波武衛らはそれを理解できずに戦ったが故に返り討ちに遇い、今川もそれを理解するのが遅れたがために三河を奪われている。
更にはいつの間にか武田を吸収し信濃にまで手を伸ばしているのだ。
このように家督を継いでから一年と少しで所領を倍、否、数倍以上に拡大させた俊英を『うつけ』と呼べるような人間がどこにいると言うのか。
しかし、その俊英と向き合う今川義元も、伊達に海道一の弓取りと呼ばれている訳ではない。彼が家督を継いでからと言うもの、武田も北条もどれだけ苦渋を飲まされてきたかは今さら語るまでもない。
「つまり叔父上は……」
「はい。織田を使うべきかと」
双方が油断できないなら、油断できない同士をぶつければよい。元々が長年争ってきた不倶戴天の敵なのだからそれ自体はそんなに難しくは無いだろう。
しかし問題は時期だ。
「やはりそれしかない、か。しかしどうやって織田を動かす?」
現在、石高だけで言えば織田は今川とほぼ同程度の所領を持つ。
故にこれまで遠江と駿河を支配してきた今川家と、急激に勢力を増し、日の出の勢いがある織田家が本格的にぶつかれば、長期戦になることは確実。
だからこそ「せめて長尾が越後に帰るまでは今川を引き付けて欲しい」と考える北条家とすれば、なんとしてでも織田と今川を戦わせたい。
その為の駒の一つが信虎である。元々織田家には『信虎が甲斐で兵を興した後に今川を三方から囲んで潰す。織田が遠江を取り、武田(北条)が駿河を貰う』と言って約定を結んでいたのだ。
しかし今やそのようなことを言える立場ではなくなってしまった。
何せ今の織田家には関白に対する遠慮は有れども、北条家のために無理をしてまで今川と戦う理由がないのだ。
加えて、これまで急激に勢力を伸ばしたが故に、そろそろ内政に専念したいと言う思いもあるはず。
このような状況で、何を以て織田を動かすのか。
氏康が頭を悩ませている中、幻庵は覚悟を決めた表情をして氏康に声をかける。
「……殿。一時とは言え、伊豆や相模の一部を失う覚悟はありますか?」
「……叔父上?」
北条家の本貫とも言える伊豆を捨てる。これまで早雲らとともに命を懸けて手に入れた伊豆を。
それを伝え聞くだけの自分などよりも、余程伊豆への想いが強いはずの叔父上がそれを言うのか。
血を吐くような、苦悶の表情を浮かべる幻庵を見て、彼が何を言わんとしているのかを察した氏康もまた、先人への申し訳なさとそれを選択せざるをえない自身の情けなさに表情を歪ませるのであった。
北条家の事情。
景虎=サンは、自分が立ち去った後、誰が土地を治めようと興味が無いので良いのですが、北条をはじめとした関東の諸将にしてみたら長尾が帰った後が本番ですからねぇ。
越冬なのか、出稼ぎなのか、はたまた口減らしなのかは知りませんが、とにかく大変なんですってお話。
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あれ? ジャンル別1位? つーか、この作品で1日で千ポイントを超えたのって初めてじゃないですか?
……異世界の読者様はノリが良くて素敵ですね!
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