陣の制約
地下のホールから戻ると、翠は医務室に籠ることになった。
ずっと思案顔をしていた翠を見たフィオルナルが、そうするように提案したからである。
翠自身も、よく知らない場所で、わけも分からず動き回るリスクを把握していたので、言われたとおりにする。
フィオルナルが淹れたお茶を飲みながら、翠は結局、フィオルナルが彼自身の魔法によって、その命を削っている事実を告げることはできなかった。
翠という異分子が紛れ込んだ世界から、その存在による影響を排すること。翠はそれを、願望ではなく、義務であると考えている。もちろん、翠の存在そのものが影響だと言われてしまえば、そのとおりだ。そう分かってはいても、翠はその世界に存在したままで、その影響だけを取り除きたいという、自分の我儘に従う。
なぜなら、分からないからだ。
翠が存在することで、翠のために、今後もフィオルナルは命を削りながら魔法を行使するかもしれない。
逆に、例えば、翠が忽然と姿を消せば、フィオルナルは魔法を使わなくなるのだろうか。翠という存在がなくとも、フィオルナルは自らの命を犠牲に、魔法を使い続けるのではないだろうか。
翠が垣間見た限りにおいても、フィオルナルの魔法の腕は相当である。果たして、その力の行使にどこまで、翠という存在が影響を与えているのか。
……分からない。分からないから、翠には行動を起こせない。
翠は溜息を隠して、翠の空になったカップに、お茶を注ぎ直すフィオルナルを盗み見る。
彼こそが今現時点において、この世界唯一の味方であると理解している。
理解しておいて、それでも、翠の行動原理は彼に左右されない。
そんな自分が、普通の人間から見れば、冷酷との謗りを免れないことも分かっている。
どこまでいってもスッキリとしない思考に、フィオルナルに断りを告げて、翠は少しの間眠ることにした。
夕方頃になって、翠は準備が整ったらしい離宮の一室へ移動することになった。
夕食の世話を焼き終えたフィオルナルは、まだ疲れが残っているだろうから、と翠に遠慮して早々に部屋を辞している。
既に何食か食事をしたが、食事など生命活動さえ維持できればよいのだと分かってはいても、日本に生まれついての約20年、その味に慣れきった翠にとっても違和感を感じさせないものだったことに、少しほっとしてしまった。
昼間に少し眠ってしまった翠が眠くなるには、まだ少し時間が早いようで、フィオルナルが置いていった国の文化について書かれた本を読んでいると、部屋の外が俄かに騒がしくなり、間もなく、部屋の外で待機していた衛士が来客を告げた。
その事実に翠は目を見開く。
夜、序列最下位とはいえ、一応の側妃の部屋を訪ねることが許される客など、1人しかいない。
そもそも翠の了承すら必要とされていなかったようで、衛士を半ば押しのけるようにして、一応の彼女の夫である男は、何の遠慮もなく室内へ踏み込んできた。
その表情は新しいおもちゃを見る子供か、はたまた犬のようである。
「……どのようにお迎えするのが正しいのでしょう。先触れなど頂いておりましたら、フィオルナルにでも聞いておいたのですけれど」
王に合図されて、それが当然のようにさっさと部屋を出て行ってしまう衛士の後ろ姿を見送って、翠はため息を押し隠して遠まわしに非難の色を示す。
「俺は気まぐれなのでな。そんなものは出した試しがない」
翠にとって、側妃などは当然初めての経験であるが、目の前の男を規格外だと思うのは、決して的外れではないはずだ。翠はギルバートのあまりの奔放さに今度こそ、内心でしっかりとため息をついた。
「迎えの言葉より、俺に言うべきことはないのか? どこの出とも知らぬお前を室に入れ、部屋や世話役まで手配してやったのだが?」
翠という存在を喚び出すだけでは飽き足らず、鳥のように籠を与えておきながら、さすがの言い草である。王とはそれほどまでに偉い存在なのかもしれないが、翠は今に至ってすら、その臣民にはなった覚えがない。だからして、さすがの翠も僅かに呆れた。
しかし、それが明確な感情となる前に霧散したのに気付いて、目を見開いた。
その様子をどう受け取ったのか、ギルバートが嗜虐的な笑みを浮かべる。その様子が視界の隅に映ったが、しかし、今の翠にしてみれば、そんなことは二の次だった。
自らも知らぬ間に、その感情が抑制されるような現象が起こるとは。
思い返してみれば、喚び出されてから何かに対して、負の感情を抱いたのはこれが初めてであった。そこまで考えて、今朝方見たばかりの魔法陣に思い至る。
魔法陣の制約は、喚び出すものが生来持つ性質を選別するものだと、フィオルナルは説明したはずだった。翠自身が読みとった魔法陣も、間違いなくそういうものであった。
だとすれば、なるほど。フィオルナルが、命を注ぎこんだ影響が、こんなところに出ているのか。翠は内心で唸った。
理由は分かった。魔法陣にすら描きこまれていないことではあるが、元々が腕のいい魔法師が命を燃やす勢いで注いた魔力が、半ば暴走のような形で作用したのだろう。
とはいえ、理由が分かったからと、そのような制約を翠が受け入れる謂れはない。
否、翠が翠である限り、その感情に、内面に、何らかの制約を受けるなど、許してはならない。
翠はそう思い至って、自らに付された制約を焼き消した。自分の内面を解析し、そこに掛けられた鍵を、消滅させた(・・・・・)。
もちろん、件の魔法陣に付された第4の制約にすら気付かず、そのまま儀式を行わせた王には、たった今、目の前で起こった変化を認識することなど不可能であった。
「どうした?」
黙り込んだままの翠に、ギルバートは面白そうにその表情を覗き込む。その様子に僅かに居心地の悪さを感じて、翠はため息と共に吐き出した。
そういえば、この男がまだ居たのだったか。一端、思考の渦から浮上して、目の前の男を見つめる。睨みつけたりはしない。先ほどはさすがに少し呆れたが、それも王の言い回しに呆れただけであり、王個人に向けた憤りはもちろん、それ以外のどんな感情すら持ち合わせてはいなかった。
「いえ……私の記憶では、愛玩動物というものは、与えられたものをただ享受するだけの存在ではなかったかと、思いだしていただけですわ」
辛辣だったかもしれない。どうせ、私を人などとみていないくせにと、そう言ったのだ。
「ほう、自らの立場をよく理解しているらしいな……」
「お褒めいただき光栄ですわ」
翠の返しに、一瞬の瞠目のうち、犬が狼にでも化けたかのように、どこか酷薄な笑みを浮かべたギルバートは無言で翠の腕をとると、そのままに彼女をベッドへ押し倒した。
「ならばそのまま、俺のすべてを享受してみろ」
ギシリと、褥が翠の心のきしみを音にした。