彼女の理由
「そういえば、お願いがあるの」
次の日。フィオルナルが運んだ朝食を食べ終え、昨日の今日だから、と翠の体を医療魔法で調べたフィオルナルがお墨付きを出すと、それに微笑んで礼をした彼の主がふと、思いついたように声をもらした。
「なんなりと」
今日の夕刻までには新しい部屋への移動もできようが、未だ自室すらない翠には不便なことも多かろうと、フィオルナルは神妙な気持ちで頭を下げる。
「あの部屋へ行きたいのだけれど」
「あの部屋……?」
「私が初めてこの世界へやってきた、あの、少し寒い部屋」
思いもよらなかった彼女の『願い』に、フィオルナルは目を見開いた。
「恐れながら……、理由をお伺いしても?」
この世界へ降り立った当時は混乱していて、じっくりと魔法を検分する余裕もなかった。今になって、翠はまだ昨日のことである、『その時』を思い出す。
この世界のことや召喚魔法についての話を聞いたのは、急くようにあの地下室を出た後のことだった。
そしてじっくり話を聞いてみれば、ふと、疑問が浮かんだのだ。
『なぜ、私が』と。
翠は翠であるから、自分が魔法とはトンと縁のない生活を送ることに確信を持っていた。否、そもそも地球があり、日本がある、あの世界にうまれた時から、魔法の『ような』と表現できる文明の進化にこそ、目を見張ることはあっても、魔法というそれそのものが、自分の身に影響を及ぼすことなど、あるはずがなかった。
それが、まさか。世界を隔てて召喚されるなどという、おおごとに巻き込まれるなんて。
想像もできるハズがない。否。そんなこと、ありえないと理解していた(・・・・・・)ハズであるのに。
何が、それを歪めたのか。
「諦めの悪い女と思われるかもしれないけれど。それでも、私の世界と繋がった、繋がっていたハズのあの場所を、もう1度自分の目で確かめてみたいの。そこに、世界がもう1度繋がるきっかけが、そう簡単に転がっているはずがないことを、しっかりと確認しておきたいの。……駄目かしら?」
自分はズルい。
目の前の、自分に忠誠を誓ってくれているのだろう男に対して、どういう言葉を並べれば、そこにつけ込めるのかを知って、そしてその通りのことをしてしまう。
翠の言葉にすっかり畏まってしまったフィオルナルを見つめて、翠は口の端だけで自嘲した。
「冷たい、わね」
地下の通路を一歩ずつ進みながら、なんとはなしに呟く。
地下室までの瞬間移動を提案したフィオルナルに少し我儘を言って、地下室の少し前からは自分の足で歩くことにした。あまりに動かないのも体が鈍ってしまうと思ったからだ。
ただ、フィオルナルが心配する、城内の他人との接触はもちろん懸念点だったので、歩く距離は少しだけになった。これから向かう部屋は、大事な研究が行われる場所でもあるため、普段はフィオルナルの許可が無ければ入れないらしく、そんな部屋に続く廊下にも、当然人の姿はない。間もなく、お目当ての地下室に辿りついた。
「地下ですから、どこからか冷気が流れ込んで来ているのかもしれません。……お身体に障る前に、戻らねば」
「えぇ、分かっているわ。ありがとう」
翠は小さくうなづきながら、差し出されたショールを受け取る。
翠がショールを羽織ったのを見て、フィオルナルが宙へ手をかざして何かを唱えた。
陽だまりの中、何か優しいものに、例えば、草花に、そっと呼びかけるような、暖かな音色。それに心地よさを感じた瞬間、パッと、白みがかった光が溢れた。
その光に照らされて、白い地面に描かれた陣が黒々と姿を現す。
医療魔術も、瞬間移動も、詠唱がないまま、気付いたら使われていたから、詠唱を聞いたのは初めてだった。その優しい声音に、魔法とはそんなにも暖かなものなのかと少し驚く。
そんな感情のまま、足下を見下ろして、ほうっと息をついた。
「キレイに、残っているのね」
『あのとき』には、地下室は松明の光で彩られていたようで、黒い炭となったそれの代わりに、魔法の白い光が、より一層、魔法陣の黒さを縁取っている。
「陣は魔力の込められたインクで描きます。インクの魔力が消えるまで、褪せることはありません。逆に、魔力が消えるか、術者が命じればあとかたもなく消え去ります。魔法式は時として国力すら表す、極秘事項ですから。もっとも、陣が残っていても二重に魔法が発生することはありえません」
大型の攻撃魔法1つどこかの国に漏れるだけで、国の存亡が関わるご時世である。陣の消去を意のままにできることは、むしろ当然のリスク管理だろう。
「自然に消えるまで、どれくらい?」
翠は慎重に魔法陣を検分しながら、視線も向けずに問う。
「1日ほどでしょうか。インクに込められた魔力の量で長短を変えることはできます。研究や大事の際につかう場合は、あまりすぐに消えるインクは使用しません。失敗した時の原因究明が難しくなってしまうので」
「なるほ……」
フィオルナルの説明にうなづこうとした翠の言葉が停止した。
「シス……っ」
怪訝に思ったフィオルナルが呼びかけようとして声を詰まらせた。
翠が鋭い目つきで、魔法陣の一角を見つめていたからであった。
『人間』『女』『決してヴァルモンドに対し害意を持ちえないこと』。
あらかじめフィオルナルから聞いていたように、魔法陣には呼び出すモノへの制約が付与されていた。1つ1つ確認していた翠は内心で首をかしげる。
そのような条件であれば、他にも選択肢など山ほどあるだろうに。
そう、思っていた矢先に見つけたのである。
まるで芸術でも見ているかのように、緻密に描かれた魔法陣。フィオルナルがその筋で優秀であることが一目でわかり、また、彼の真面目な性格がよく表れているような陣であった。
だからこそ、それは目立っていた。
真っ白で折り目正しく整えられた布に落ちた、1点の黒い染みのように。
キレイに計算されつくした陣に、無理矢理作られたスペース。そこに足された1つの制約。
それが、『元の世界に執着しないもの』であった。
小さなスペースに押し込むように描かれた制約。それを見つけた翠は息を詰まらせた。
たった1か所の陣に込められた魔力の量。しかしそれは、フィオルナルの命すら燃やすような、強力な執念が見えるものであった。
これだ、と、翠は咄嗟に理解した。
これが、翠を喚んだのだ、と。
理解してしまって、瞑目する。そして次に目を開いた時、翠はフィオルナルに微笑みかけていた。
「戻りましょうか」
「っ……もう、いいので?」
「えぇ。あぁ、そうだ。どうせ夕方にも消える陣なんでしょうけど、これ、消してもらえるかしら?」
翠は陣を指して言う。そして、フィオルナルが何か言う前に追い打ちをかけた。
「希望を残したくないので、今すぐに」
「仰せのままに」
フィオルナルは何も言えなかった。
あの願いを。自らの醜い自己満足を描きなぐった、その部分を、彼の主が、否、彼の被害者が、犠牲者が、見つめて立ち尽くしていた。
彼女がソレを見つめて絶句したのを見て、気付いているのか、と勘ぐった。
そうしておいて、首を振る。そんなハズはない。否、今に至っては、彼女が万が一、何かの理由で気づいていたのだとしても、それを言及する気は起こらなった。
この世界の魔法を追求しつづけた結果、彼自身がどんな罪を背負ったのかを考えれば、そんな気が起きようハズもなかった。




