憐み、そして怒り
国、ヴァルモンドすべてに害意などを向けることのない制約を課されている……とギルバートが信じている彼女からの抵抗は、果たして酷く弱々しく、彼の衣服をかすっただけであった。
万が一でも爪が傷など付けないように、と配慮したのは翠ではあるが、しかし、その僅かな抵抗にさえ、ギルバートは驚き見せた。
フィオルナルに代わって、束の間、着替え等の世話をしてくれる女官たちの噂によれば、ギルバートは相当、女遊びが激しいようで、彼がこれまで手篭めにしてきた中には、決して合意の上でないものも含まれているだろうに。
翠は、僅かであっても驚きを表したギルバートを意外に感じた。
ギルバートは目の前の新鮮な反応に驚いた。目の前の小賢しいと表現して障りないような女が、抵抗をするとは思わなかったからである。
覇王としてその名を轟かせた今となっては、その目の前に現れる女たちは、すべて等しく、彼の前に膝をつく存在であった。
ヴァルモンドが今ほど落ち着いていなかった過去には、半ば無理やり手折った花もある。正直にいえば、ギルバートの嗜好はそちらに傾くのだが。それはそうとしても、目の前の側妃が小さくとはいえ反抗を見せるとは思わなかった。
翠は異世界人である。召喚された異世界のものは、国にとって害悪を為し得ないよう制約がかけられているが、それは一切の反抗心を持たないというわけではない、ということを、召喚獣を使って戦争を行うギルバートは当然に知っていた。
召喚陣の制約は、それが抵抗をみせようとも、結果として国の害悪にはなりえない存在を呼び出すものだった。
反抗を見せる獣たちも、その世話をする者を牙で刺し貫くような酷い暴れ方はしなかったし、檻を壊して脱走し野に下るようなこともなく、躾をすれば、すぐに思い通りになるという。
陣の制約にどういう作用があるのかは分からないが、魔法に疎いギルバートにとっても、そして召喚陣を知るすべての人間にとって、制約とはそういう物だと信じられていた。
ギルバートは翠の頭の良さを、部屋に入ってからの僅かな言葉の応酬で見抜いていた。言葉遣いこそ、丁寧さを保っていたが、その内容は慇懃無礼そのもので、ギルバートを非難するものであった。
召喚されて2日とはいえ、ギルバートの苛烈さが伝わるには十分な時間のはずである。そのくらい、ギルバート本人でも知っている。
実際に、もし、その部屋に他に人間がいれば、ギルバートはその体裁を保つために、翠を切り捨てていただろう。もし、そうせずとも、翠の身分を剥奪し、城の外へ放りだすくらいは簡単である。それで彼女が飢え死ぬとしても。例え、フィオルナルを側に仕えさせたとて、翠の衣食住と命綱を握っているのは、間違いなくギルバートであった。
だからこそ、頭のまわる翠が、苛烈な王であり、彼女の命を握っている男に抵抗するのか。ギルバートには思いもつかなかった。
が、しかし、そう思いながら、ギルバートは己の心に浮かんだ別の感情にも気付く。
ギルバートは、目の前の新しい側妃を確かに、面白いと感じていた。そうして、翠を自分のものにしたとき、翠の、そして自分の心がどのように変わるのか、試したくなった。
だからこそ、目の前で足掻く矮小な生き物のその先の反応を見てみたくて、ギルバートは彼女の夜着を払うその手をとめる。
そんなギルバートの心の移り変わりを正しく見抜いたように、次の瞬間、翠はギルバートの瞳に、そのまっすぐな視線を向けた。
黒く澄んだ瞳にギルバートの灰色の瞳が映る。
「王はどんな愛玩動物がお望みですか? アナタは、その言葉にただ頷くことしかできない人形たちに、飽いてらっしゃるんでしょう? だから、私を喚んだんでしょう? それなのに、他の女たちと同じ、アナタにとってつまらない反応を、私にお望みなんですか? 私が、ただアナタから頂くものを安穏と享受することが、本当にお望み?」
翠の言葉に、瞳に、ギルバートは呑まれていた。見つめる先の、吸い込まれそうな黒が浮かべる無感情の色が、ふと、彼の見ている前でその色を変えた。それは、海の凪が一瞬にして大波となり向かってくるように。一見穏やかそうに目尻の下がった瞳の中で、映る感情が歪み、怒涛となってギルバートへ押し寄せる。
それは、手篭めにされそうになったことへの怒りではない。異世界へ喚び出されたことへの悲哀でもない。
ギルバートは己に向けられる感情に鋭いが故に、翠に反逆の意図がないことを見抜いてしまった。自分を害する感情ではない、そう、気付いてしまったが故に、翠の感情に対して無抵抗になり、そして一瞬後、飲みこまれる。
翠の瞳に浮かんだ感情は……。
それを理解した瞬間、サッとギルバートの中にあった高揚感にも似た感覚がひいた。足先から、指の先から、頭のてっぺんまで、まるで冷水が逆流するように。体が冷え切る。
頭が働く前に、バシリと、ギルバートの手は翠の頬を打っていた。それは反射的な、反応。
「生意気な、女め……」
ギルバートは翠の瞳から逃げるように身体ごと視線をそらせると、そのまま怒りを押し殺し、憎々しさに溢れた、かすれた声で呻いた。
一瞬、胸元の懐刀に手を伸ばしかけて、やめる。ここで女を殺しては、己が、彼女に向けられた感情を認めるようではないか。それは、彼女に敗北することを意味するのではないか。……そんなこと、許せるわけがない。
ギルバートは無言でベッドを下りると、そのまま部屋を出て行った。
バタン、と荒々しく閉められた扉を見つめて。
「かわいそうな人」
先には決して言葉にしなかった心の内を、翠が静かに零した。
瞳に今も映っているだろう、憐みの感情を閉ざすように瞼を閉じて。熱をもったままの頬などそのままに、ベッドの上で脱力する。
ギルバートがどう感じたか。あの一瞬では、翠に想像がつくはずもなかったが、決して同情などで王を見下す意図は翠にはなかった。その場しのぎの戯言でもない。でも、だからこそ、性質が悪い。
あれは、翠の本心だ。
翠はギルバートに向けるようで、その実、彼の瞳に映った自分の瞳を見つめていた。
唯々諾々と頷く周囲の者たち。すべての物事が自分の思い通りになる中で、いつか自分が間違うのではないか。否、いつかとはいつだ。或いは、すでに、今。
ギルバートが誰ともしれない、ただ肩書が珍しいだけの、他と変わり映えのない唯の女に、ある種の熱を抱いたのを知った時、彼の瞳にその色を見つけたとき。
その感情は自然と溢れてしまったのだ。あぁ、彼は現状に飽いている、と。
もちろん、自分が暇つぶしで喚び出されたことは分かっていた。そのつもりだった。でも、理解できていなかった。彼の退屈が、自分がかつて抱いたものと同種だったとは。
そのことに辿りついた瞬間、何の思惑も、意図もなく、あの感情が浮かんでいた。
自分でも制御しきれなかった思いをギルバートに向けてしまった。せめて……。
「傷ついて、いなければ……」
それは、無理かもしれない。だって、彼にはられた頬が痛い。きっと、彼の手も……。
そうして、翠は眠れぬ夜を過ごした。




