魔術師の葛藤
「おはようございま……シスイ!!?」
次の朝、フィオルナルが赤くはれあがった翠の頬に悲鳴をあげた。
平手とはいえ、さすがの武人である。一夜明けたくらいでは、頬の熱は取れるどころか、痛みを増すくらいであった。
「一体、何が……」
「夜中に私とひと悶着起こせる相手なんて、決まっているんじゃない?」
「王がここへ? そんなこと、私は一言も……」
翠の言葉に一瞬面喰ったような顔をして、確かめるような声を漏らす。それに1つうなづいて、翠は内心でため息をついた。
「王は、……アナタを? お怪我は頬だけですか? その……お身体は?」
労わるように、立ち上がった翠の体を支えようとするフィオルナルに、翠はその誤解に気付いて苦笑する。
「大丈夫よ。何もされていないの。あぁ、何も……というと、頬は別だけど」
眠れない一夜が明けても、翠の後悔は変わらなかった。
翠の執着心の無さは、自らにも向いている。今さら、自分がどのように扱われようと、なにの感情も浮かぶはずがない。実際に、叩かれた頬も、痛い以外の感想はなかったし、例え、あのまま抱かれていても、翠はそれを受け止めただろう。そう、理解している。
にもかかわらず、翠はギルバートに感情を見せてしまった。彼女の立場で、中途半端な干渉など罪だと分かっていても。それでも、気付いた時には彼に感情を向けて、そして、次の瞬間、頬を叩かれていた。
フィオルナルは、翠が理不尽のもとに手折られなかったことにほっと息をつき、それでも、赤く腫れた頬に嘆く。翠は、その姿に悪いとは思いながらも、夜に起こったことを彼に話すことはなかった。また、踏み込みすぎた自分への戒めのために、フィオルナルの魔法による治療も拒絶する。
無理やり受け取らされた冷やしたタオルを頬にあてる翠に、物言いたげな視線を向けるフィオルナルに内心で苦笑していると、王の使いがやってきて、翠に無期限の謹慎を言い渡して去っていった。
「こんなことが……」
王の使いが去った私室で、茫然とフィオルナルがうめく。
「今に始まったことではないのでしょう?」
翠の耳にすら、ギルバートの暴虐は耳に届いている。フィオルナルに何を今さら、と言いたげに翠が首をかしげてみせると、意外にもフィオルナルがくってかかるように顔を向けた。
翠はその様子に苦笑して、フィオルナルが何か言葉を紡ぐ前に、そっと自分の指を押し当てて、それを制する。
「シスイ……?」
「フィンが私を大事に思ってくれていることには感謝するわ。けれど、だからといってアナタの立場にそぐわない言葉を出すのは、あまり良いことではないわね」
翠の言葉にフィオルナルは大きく目を見開いた。次いで、何かを耐えるようにその眉を寄せる。
「シスイ。私はアーガルです。アーガルはその主である妃と一心同体。そうであればこそ、己の主に対する理不尽は、例え王であっても、その怒りを向ける権利があります」
「それでも、アナタは王宮魔法師長なんでしょう? 宰相、近衛隊長と並んで王に次ぐ権力者。例えアナタがアーガルだとしても、このご時世に、国が一枚岩でなくなることを望むような人ではないと思っているわ」
「それでは私が、今の地位になければ、アナタのために怒ることをお許しいただけますか」
フィオルナルが翠の前に膝をつき、その手を取って懇願するように翠を見上げる。それが彼の本心である。そう分かっていて、翠は首を横にふった。
「駄目よ。私がアナタの力を借りないのは、アナタの地位や力や忠誠が不足していると感じているからではないわ。……私が辛くないからよ。だから、アナタの力を必要としていない。アナタが王宮魔法師長でも、神殿側の貴族でも、唯のフィンでも、ね。それは一緒」
「シスイ……!」
「お茶が飲みたいわ。フィン、お願いしてもいいかしら?」
それ以上、フィオルナルが喋ろうとするのを押しとどめて、話を変える。翠に忠実であるフィオルナルが、それ以上食い下がることはできない。それを分かっていて使う、卑怯な手段である。
フィオルナルの命を思うならば、彼が今の地位を手放すのは必須条件である。それでも、翠のために、フィオルナルが一方的に辞表を叩きつけるのでは駄目なのだ。フィオルナルにそこまでさせては要らぬ煙がたたないとも限らないし、なにより、そこまでさせたフィオルナルに返す心が翠にはないから。
だからこそ、フィオルナルが悩むのを分かっていて、翠は彼をつき放す。
主が、自分をかばうような言葉を発したことに、しかしフィオルナルは絶望した。翠の要望どおり、お茶を入れる影で、きつく拳を握りしめる。
主には、自分の中の葛藤に気付かれているかもしれないが、やはり、彼女は何も聞かなかった。
確かに翠が発した言葉は、フィオルナルを気遣うようなものであった。
しかし、自らの罪を悔い、背負い、彼女に一生をささげると決めたフィオルナルにしてみれば、それは、つき放された以外のなにものでもなかった。
実際に、そうなのかもしれない。アーガル制度について説明し、王の任命ではなく、彼女の任命でアーガルになる覚悟を告げたにもかかわらず、それが叶えられていない現状を考えれば、そうとしか思えない。
翠が、彼女をこの世界に召喚した原因でもあるフィオルナルに頼る気になれないのならば、それこそがフィオルナルの罪であり、彼女のために生きることで、許されようとしている彼への戒めだというのなら、そのことをもって彼が絶望することはない。
しかし、翠が見せるのは、フィオルナルだけではない、何者からの助けも不要とするような、一切の拒絶に感じた。
それは彼女の言葉どおり、彼女を興味本位で呼び出し、徒に側室の地位へしばりつけた本人が、彼女に無体を強いようとしたにも関わらず、翠が、どこかへ助けを求めたくなるような、何ら特別な感情を抱いてはいない、と、そういうことであった。
気付いて、愕然とする。
もしも、その彼女の感情が、フィオルナルが課した制約の賜物であるとしたならば。なんと自分は酷いことをしているのかと、ただその感情がフィオルナルを責めた。
彼の主である翠のために、否、同じ人としても、今回、フィオルナルは王という絶対君主に対し、しかし、その理不尽さに怒りを覚えた。フィオルナルですら感じるその感情を、その被害を受けた本人が感じていないのだとすれば、それは正しく異常である。
今まで、相手が人ではないからこそ気付かなかった理不尽を、一体どれだけの召喚獣に強いてきたのか。考えるだけで、フィオルナルは気が狂いそうな罪悪感に苛まれるのであった。




