名前を呼んで
やがてフィオルナルは、翠を抱き上げたままで冷たいホールから出ると、瞬間。翠もろとも、瞬間移動をしたようだった。
ようだった、というのは言葉どおり、この世界に来たばかりの翠には一瞬で景色が変わる現象の説明などできるはずがないからであるが、僅かな浮遊感とともに場所が変わったので、そうではないかと思っただけである。
翠がフィオルナルの腕から下ろされた場所は、医務室に案内すると言って連れてこられたのではなかったか、と首をかしげたくなるような豪奢な部屋であった。
医務室、というよりは入院患者の病室に近いのかもしれない、と、部屋に備え付けらしい水差しや水桶を眺める。侍医がその場に控えているわけでもないようだ。
フィオルナルの勧めでベッドに腰掛けた翠の背中へ腕を回した彼は、失礼します、と1言。翠の背中に掌を当てた。
医療魔法、というものだろうか。背中に当てられた掌を中心に、なにか暖かいものが身体の中へ広がっていく。もちろん、翠はそれがフィオルナルの魔力だと知っている。
何か治療をしているのではなく、悪いところを探すようなソレに、ただ静かに、翠は魔力を受け入れた。
「お体に悪いところはないようです。先の立ちくらみは、急に立ち上がったためか、お疲れが原因でしょう。休めば問題ないと思われますので、ご安心を」
やがてフィオルナルは掌を離すとそう言って頭をさげた。
「そろそろ聞いても?」
「はい、なんなりと」
言って、フィオルナルはその場に膝をつく。その姿に、翠は小さく嘆息した。
「私、アナタに膝をつかせる立場になってしまったのね。年上と思われる男性に敬語を使わないのは慣れないのだけれど、きっとそれをしても、アナタを困らせてしまうわね」
「はい、アナタは王のリーリア。私はその従者にございます」
「……リーリア。……そう、それも分からないわ。せっかく腕輪をもらったけれど、言葉の意味までは教えてくれないみたい」
翠は困ったように眉を寄せる。
翠の困惑を見てとったフィオルナルが頷いた。
「それでは私に分かることをお話し致します」
そう言ったフィオルナルが話したのは、大方、翠の想像通りの物語であった。
その場所は、翠が生まれた世界とは異なる世界。他の世界との正式な交流など予定されてもいないので、世界自体に名前はない。
異世界との『正式な』交流は予定されていないが、一方的な略奪なら日常茶飯に行われているようで、異世界からの召喚魔法は、その世界ではポピュラーなのだという。
そして、翠も、その魔法で元いた世界から一方的に略奪されたようだった。
翠が降り立ったのはヴァルモンドと呼ばれる国。
『神殿』が強大な力を持つ宗教国家的な面を持ちながら、国家元首は王であり、今代の王はその武功で覇道をいく積極的侵略性を持った、なんともややこしい国であるが、大小の国々が群雄割拠し、まさに戦国時代と呼ばれるべき今の時代にあっては、独裁的な王が持つ強大な軍事力に、宗教による民意操作も容易であることが重なり、度重なる戦争と侵略によって得た広大な面積と豊富な資源を誇る、大陸随一の大国らしい。
そしてその王こそが、こちらも予想通り。翠がこの世界に呼び出された場で出会った『陛下』の男。名をギルバート・ヴァルフォス・ド・ヴァルモンドといった。
そして、王と同じミドルネームが追加され、スイ・ヴァルフォス・リーリアと呼ばれた翠に押しつけられた地位とは、やはり、王の側妃であった。
余談であるが、この国の妃の身位は全部で5種類あるという。
正妃を指し、妃の中でも最高位を意味する、朝姫。
王家傍流・または異国の王家出身の妃に与えられる位、昼姫。
貴族出身の妃に与えられる位、夕姫。
一般階級出身の妃に与えられる位、夜姫。
そして最後に、商売女、奴隷等、特殊な出身の妃に与えられる位、月姫であった。
現在の後宮事情は、イヴァリィが空席。カポネは1人。トゥジェは2人いるので、これは輿入れの早いものから順に、1を表す『ノ』と、2を表す『ディ』がついて、トゥジェノと、トゥジェディがいる。ジペットは1人。
そして、新たに加わったリーリアこと翠を合わせて、5人の妃がいるとのことであった。
ちなみに、それだけ妃がいるものの、現時点では子供はいないそうだ。
なぜ、1度放られそうになった翠にリーリアの地位が与えられたのかといえば、やはり『神殿』の力であった。
王が自由に定め改廃できる法とは別に、『神殿』は『神殿』で規則をもち、王を含めて『国民総信徒』であるヴァルモンドでは、いかな王でも、その規則を守らねば、『神殿』に突く隙を与えることになるらしい。
もちろん、時に国家元首である王すら縛れる権力を持った『神殿』と王側が手に手を取り合って国政をできるハズもないので、王も進んで自らの隙となる規則違反をするわけにはいかない。
今回、問題になった『神殿』の規則は『異世界のもの虐げること是を赦さず』という不可侵の掟であった。それならば賓客扱いくらいにしてほしかったところであるが、今さら言ってどうにかなるものでもない。翠はつきたくなる溜息を飲みこんだ。。
側妃の位階で言えば最下位とはいえ、『リーリア』である翠にもそれなりの待遇が約束される。その1つが、ヴァルモンド独特の文化である、アーガル(専用使用人)制度であった。
アーガルとは、王宮の人材から与えられる女中や侍女とは別に、妃の任意で持てる使用人であった。衣食住は保障されるものの、その給金が王宮から支払われない代わりに、その人事権は妃が全権を握る。
側妃は3人、公務負担が大きいという理由で正妃は5人持つことを許されるそれは、王にすべてを委ねる妃が持つ、特権中の特権であった。
例外的に、妃のアーガルが空席であり、その影響が大きい時のみ、王が代理でアーガルを任命することができるが、王任命のアーガルは、その後、妃が自由に罷免でき、その罷免権を王は持たない。
正式に妃がアーガルを持つには、改めて妃がアーガルを任命し、アーガルになろうとするものがそれを受け入れる必要がある。
王すら排除されるアーガルの人事権。もちろん、その責任が小さいはずがない。
妃と、アーガルは一蓮托生。
アーガルになったものは、どれほど下級の出身でも、否、たとえ奴隷や(一部の重罪を除く)犯罪者であったとしても、アーガルになった瞬間、奴隷や前科の経歴は消え、妃と同位まで、その身分が押し上がる。
その代わりに、妃はアーガルの、アーガルは妃の一生を負う。
1度、正式にアーガルになったものは、妃ですらその罷免権を失う。正式なアーガルがその役目を終えるのは、そのアーガル自身か、妃の死を持ってのみ、だ。
アーガルになった後に犯したアーガルの罪は妃の罪となるし、妃に不遇の死を遂げさせたアーガルは、後宮を放逐され、その後、名のある場に雇い入れられることは二度とない。
結果的に、妃がアーガルとして受け入れるのは、真に信の置けるもののみであり、アーガルがそれを受け入れるのは、自分よりも妃が大事という生家由縁の者であったり、妃の死後、アーガルを放逐されても問題ない身分を持っていたり、逆にアーガルになる前から既に何も持っていないものだけであった。
蛇足だが、生殖能力を持つ男であっても、宦官等にはせず、アーガルにできるが、妃とアーガルの不貞は、ヴァルモンドにおいては、国家反逆罪や王族殺しを越えた重罪とのこと。
もっとも、アーガル制度ができてからの長い歳月の中で、バレずに危ない橋を渡りきった妃とアーガルもいたかもしれないが、ちょっとやそっとの覚悟では手を出せないだけのリスクがある。
ちなみに、フィオルナルは『神殿』の統治者である『師父』を生み出すの家系の傍流出身の権力者。しかも、仕えた王宮では強国ヴァルモンドの一翼を成す魔法師団を統率する立場、王宮魔法師長の位についているので、翠が不遇の死を遂げても安泰である。
というか、アーガルの立場など、彼にとって従う人間と余計なリスクを増やすだけの重しでしかないだろう。
それでも、アーガルを抱えるメリットとデメリットを隠さず説明してくれた彼は、最後に、翠が彼を正式なアーガルとして欲するならば受け入れると告げた。
それに礼を告げた翠が、しかし、その場ですぐに彼をアーガルに任命しなかったのは、彼を信用しなかったからではない。まるで、贖罪のように翠に従うフィオルナルを憐れんだのでもない。ただ、間違いなく世界の異分子であることを自覚している翠が、フィオルナルの一生を背負う覚悟を持てなかったからである。
だから。
「……やっぱり私を翠と呼んでほしいわ」
ある程度、フィオルナルの説明を聞き終わり、その内容を自らの脳内で咀嚼し終えた翠は、もう1度改めて、目の前の男へ申し出た。
「お言葉ですがリーリア、俗世の名を呼ぶことは、後宮ではその身を軽んじていると捉えられます。アーガルである私に、到底許されることでは……」
「それでもよ。……私は今日、いろいろなものをなくしたわ。家、家族、友達。今までの生活。一般人としての私。自由。そして、22年間の過去。世界。……今、私に残ってる、元の世界で与えられたものなんて、私の身体と記憶を除けば、この名前しかないの。その名前も、すでに姓を無くしたわ。……この場所で、残った名前さえ奪われたら、私は、もう自分を自分だとは思えない。それは要するに、私は死んだのと同じではない?」
翠の言葉にフィオルナルはハッと目を見開いた。
「リーリア……」
翠の言葉が適切に、フィオルナルの罪の意識を苛んでいく。我ながら酷いとは思うが、執着心の薄い翠にだって譲れないものはある。翠はまだ、天に帰りたくはないのだ。
「立場があるというなら、2人の時だけでもいいわ。アナタが私を生かして」
「……仰せのままに、シィ・スイ(スイ様)」
そうして呼ばれた名前に、翠はほっと息をついた。
翠は、彼女の名前だけは、どうしても奪われるわけにはいかなかった。
人の身体は名付けられたときから、その名によって縛られる。真名などという言葉があるのはその為だ。
だから、翠は身体の制御を保つためにも、翠の名を捨てるわけにはいかない。
その名を誰も呼ばなくなってしまったその時は、倉橋翠の名を持つ偽物の身体は脆くも崩れ去り、倉橋翠は、真実、死んでしまうだろうから……。
「あと3つだけ教えて欲しいの。1つめ、何故、私が喚ばれたのか。2つめ、何故、正体不明の異世界の人間を相手に警戒せず、妃の地位まで与えられるのか。3つめ、元の世界に戻る方法はあるのか」
その3つの質問のうち、翠にとって意味のある返事が返って来たのは2つ目の質問のみであった。
1つ目に関してはほぼ黙秘と変わらないが、『王の望みのままに』という簡潔な回答から、王の言葉を実際に聞いていた翠には容易に想像がついた。それが、ただの暇つぶし程度の理由であるのだと。
3つ目の質問に対する回答も簡潔で、『無い』の1言につきた。フィオルナルは、その立場に懸けて、異世界への帰還の魔法を探すと言おうとしたが、それを止めたのは翠だった。別に帰りたいわけではないから構わない、と。安心してもよいはずの翠の言葉に、やはり、フィオルナルは顔を歪めた。
そして、2つ目の質問。
この世界で、異世界からの一方的な略奪、もとい召喚魔法は長い間の研究を経て、広く普及している。そして、研究成果として最も重宝されているのが、召喚対象の選別だった。
例えば、悪意のないもの、といった制約を加えることで、慣れない世界に喚び出されても、周囲の人間を害さない、穏やかな気性を持ったものが喚び出されるのだとか。
貴族の間でも、召喚獣はペットして人気が高く、召喚の魔法陣に定型的に記載される『決してヴァルモンドに対して害悪を為し得ないもの』という一節は、貴族の初等教育で習うそうだ。
絶滅危惧種が知らぬ間に行方不明になっては、召喚元の世界では堪ったものではないが、無限にある世界から喚び出し元を選ぶことはできないので、同じ世界から繰り返し略奪することは難しそうだ。
話は逸れたが、要するに、仮にも王の前に喚び出すものだ。詳しい制約の説明をフィオルナルは避けたが、警戒の必要がないだけの制約をかけた、と彼は説明した。
召喚魔法の行使が日常である世界なのだ。数は実績であり、初等教育で習うという『制約』が、今まで破られたことはないのだろう。それはそれは、人間がどんな言葉を重ねるよりも信用がおけるに違いない。
おかしなことだ。生き物の善性がその一生で変化しないとでも思っているのだろうか。
否、例え、善意の塊である生物がいたところで、それがよかれと思って為した結果が、巡りに巡って、どこかで国の害にならないと、なぜ言い切れるのだろう。
とはいえ。
自分にとって不利になることを、わざわざ口にすることもない。
かけた制約の詳細について言葉を濁したフィオルナルに、直接聞き出すことを諦めた翠は、今は一旦制約のことは忘れることにして、頭の中の思考をやめた。




