諦めか、覚悟か
無言のままの翠に、何かを耐えるように唇を噛みしめた『エリツァ』は、体を起こし、先ほど『陛下』に向けたように膝をついた。
「シィ(様)・スイ・ヴァルフォス・リーリア。私の名はフィオルナル・アイシュ・エリツアールド。王のリーリア(月姫様)であらせられる貴女様のアーガルを仰せつかりました。これから、どうぞ、よろしくお願いいたします」
「……」
言葉は理解できても、男の言った内容をすんなりと頭で理解することは難しかった。
その場で座り込んだままの翠に、フィオルナルは一瞬……ほんの僅か一瞬、もしも翠が本当に混乱していたのであれば、決して気付かなかったような時間、痛ましそうな色を瞳に浮かべる。
「リーリア、立てますか? 貴女さまのお部屋が整うまで、医務室へご案内します。この部屋は冷えます。どうぞ、お手を」
とりあえず、だ。
翠は自分に差し出された男の手をじ、とみつめる。
そうして、なるべく冷静に、頭の中を整理した。
翠は、何らかの方法で……この世界に呼び出された。
それは、もはや受け入れるしかないのだろう。呼び出した張本人らしい人物が、『陛下』と呼ぶ男を前にして、翠を『異世界の女』であると紹介したのだから。
紹介された『陛下』も驚いてはいなかったことから、事故や偶発的な理由ではなく、何らかの意図を持って呼びだされたことも、想像はできる。
そして翠は、その『陛下』から、何かの地位を与えられたらしい。『神殿の規則』とやらのおかげで放られることはないようだが、それが今後、どう転がるのか分かったものではない今は、素直によかった、とは受け入れられない。
そして、その与えられた地位の所為か、名と名乗ったにも関わらず、『リーリア』と呼ばれた翠は、目の前の男……他称『エリツァ』ことフィオルナルを世話人として獲得したらしかった。
とりあえず、現時点で分かるのはそんなところか。翠は内心で小さく頷く。
大丈夫。
想像もしていなかったことではあるが、幸い、翠はその程度のことを受け止められない存在ではなかった。
あぁ、あとそれから。
フィオルナルも、『陛下』も、異世界の人間に何の警戒もないようだ。
尤も、意図して呼びだしておいて捕えられては困るが、何が呼びだされるのか分からない空間に、『陛下』と呼ばれる人間が2人きりで臨むとは。
もちろん、フィオルナルが一騎当千の力の持ち主である可能性もあるが、それにしたって、地位を与えるのも即決であった。
理由は分からないが、わけの分からない場所で、自分が警戒されていないのは、悪いことではない。そしてどうやらフィオルナルが、翠に対して激しい罪悪感を抱いているのも分かっている。
なので。
翠があまりにも反応しないのを勘違いしたのか、引っ込められようとした、フィオルナルの手を、翠は出来る限りの笑顔でとることにしたのであった。
フィオルナルに引き上げられるように立ち上がった瞬間、翠を襲ったのは、急激な立ちくらみだった。否、正確には違う。
翠をその場所へ呼びだした力の残滓が、翠の身体に流れ込んだのだ。
残滓とはいえ、人ひとり、呼びだした力が僅かであるはずはない。
その力は強大だった。そして、その力が魔力であると、翠には分かっていた。
魔力など存在しない世界に生まれた翠の身体には、当然、魔力は存在しない。
しかし翠は、その存在故に、魔力を受け入れるためのキャパシティは持っていた。
それも、人ひとりが扱いきれるレベルを大きく凌駕する大きさで。
そして、今まで空洞であったその場所に、行き場を無くし、その場を漂っていた魔力が流れ込んだのだ。
翠自身、魔力が欲しいなどとは思っていなかった。この世界で魔力を使って何かをする予定はない。もっといえば、翠自ら、なんらかの行動を起こしたいとも思っていない。
なにより、魔力がある世界なのだ。魔力を察知する方法があるかもしれない。翠の持つ魔力の受け皿が満ちれば、その魔力を察知できる存在は、卒倒するに違いない。
それほどまでの力は、今の翠には要、不要どころか、邪魔でしかない。
そのため、よろけた翠を抱きとめた男に絶対に気取られない身体の内側で魔力の流れを作り、身体に流れ込んだ魔力を、そっくりそのまま、排出することにした。
足の裏から吐き出された魔力は、ちょうどその場にあった魔法陣へ吸い込まれた。
もちろん、既にその役目を終えた魔法陣が、再び異界の扉を開くことはない。
ただし、流した魔力はその魔法陣に収まった。カチリと、パズルのピースが填まったような音がした。もちろん、幻聴である。
それは紛れもなく、翠自身がその世界に填まってしまった音なのだから。
よろめいた翠を咄嗟に引き寄せ、抱きとめたフィオルナルは、そのまま一言断りを入れると、その細腕からは想像できない力で翠を抱き上げた。
翠は初めて男性に抱きあげられた驚きに身を固めるが、暴れて落ちるなど、わざわざ自分から痛い思いをすることもない。下ろしてもらえないだろうということも雰囲気で感じると、諦めてフィオルナルの首に自ら腕を回した。




