さようなら。身代わりを望んだ母上
親指の腹が、四年物の丸い腹をそっと押した。返ってくる弾力は上々、香りも上々、ついでに卓上の丸パンまであと三月は寝かせたい膨れ方に見える。職業病は食欲より先に働くらしい。
「古蔵はオリアン嬢に任せる予定だったと聞いています」
背中側で、ダンスタン・コールリッジの声がした。働き手へ向けるときの彼は、扉を閉めるように語尾を切る。返事がまだでも、話はもう向こう側だ。
「だが、あそこは損が出る。温みが安定せず、今年も返しが難しい。公平を期すなら、七年ここを見たメリサンド嬢が引き受けるべきでしょう」
(姉様ではなく、わたくしが?)
口に出さず、メリサンドは四年物をもう一度押した。丸い。ダンスタンの理屈もよく丸い。どこを押しても同じ言い分が返ってくるあたり、品なら大層扱いやすかっただろう。
「オリアンは、ようやく勘定部屋を覚えたところですもの。今、損を背負わせては」
ヴェスタ・カーロウの相談口調に、オリアンが小さく息を吐いた。古蔵の担当を外されると知らされたときの安堵だった。本人の希望は、どうやら本人に先に尋ねられていたらしい。
「どちらも娘です。だからこそ、できる者が多く負うのが家のためでしょう」
「ええ。末なら大丈夫でしょう」
末なら、耐えるだろう——
ヴェスタはすぐに答えた。メリサンドへ声を掛けるより、古蔵の損をどちらへ置くか決めるほうが早かったのだ。家を守る相談とは、なかなか便利な包み紙である。中に娘を一人詰めても、外からは立派に見える。
ダンスタンが若い働き手たちを振り返った。
「明日、割り当てを出す。段数を揃えれば負担も揃う。余計な勘に頼る必要はない」
働き手たちは頷いた。ヴェスタも頷いた。その輪の中で、オリアンだけが蔵の奥へ目をやったが、メリサンドとは目が合わなかった。
四年物の皮に添えた親指は、いつもどおり動いていた。本人へ告げられない話ほど、よく聞こえる。蔵の壁は湿りを抱くのが仕事だが、秘密まで抱えるとは契約外ではなかろうか。
「メリサンド」
ようやくヴェスタが振り向いたとき、呼びかけの先にはもう誰もいなかった。メリサンドは次の棚へ移り、丸い品を一つずつ押していた。七年分の手順に、背中側で決められた役目を挟む場所はなかった。
* * *
翌朝、ダンスタンは棚札を上から順に抜いた。返す日、灰を当てた日、皮の緩みを見た日。七年かけて増えた札は、彼の手にかかれば古紙の束である。仕事が早い。間違えるための支度に限れば、満点を差し上げてもよかった。
「段の数だけあれば足りる」
彼は抜いた札を卓へ重ね、代わりに働き手の名と担当段を書いた紙を壁へ貼った。一人につき三段、曜日ごとに上下を入れ替える。温みも湿りも、紙の上ではじつに従順だった。
「これなら誰でも回せる」
若い働き手の一人が言うと、隣も「三段なら半日ですね」と笑った。ダンスタンは満足そうに顎を引いた。
「そういうことだ。これまで仕事を難しく見せすぎていたんだよ」
メリサンドは割り当てを端から数えた。段は合っている。人も足りている。日だけがない。四年物のように寝かせれば味が出る欠落ではないが、せっかくなので黙って熟すのを待つことにした。
「異論は?」
「ございません」
ダンスタンは少し拍子を外された顔をした。反論を待っていたのか、服従を待っていたのか。どちらにしても、こちらが困った顔を添えなければ完成しない話だったらしい。
「では古蔵へ移ってもらう。明日からだ」
「承知いたしました。こちらの棚は、半年先まで返せるよう整えてございます」
「半年?」
「急に手が替われば品が驚きますので。わたくしより素直な子たちばかりですけれど、驚くと皮へ出します」
「そんな必要はない。割り当てどおりに回せばいい」
なるほど、品にも紙を読ませるおつもりだ。識字教育まで名代の仕事に含まれるとは知らなかった。
メリサンドは棚の端に立ち、残っていた札を一枚ずつ確かめた。返しの済んだものは右、まだ先のものは左。左に残るのは、半年より向こうの品だけだった。
昼前、乳を納める三軒へ短い言伝を出した。寒に入る週。書いたのはそれだけである。季節は割り当て表を見ないし、外の者は長い説明を喜ばない。肝心な日が一つあれば足りる。
「鍵は明朝、お返しします」
「古蔵の鍵を受け取るんだ。返す必要はない」
「二つを持つ手はございませんので」
メリサンドは壁の紙を見上げた。三段ずつ。まっすぐな線。あまりに整っているので、葬列の人数表に見えなくもない。
「蔵は、ひとつ増えるだけでございますね」
ダンスタンは、それを受諾と数えた。算術がお好きな方は、足された数ばかり見て、引かれたものをよく落とす。
* * *
翌朝、メリサンドは古蔵へ行かなかった。七年使った鍵を掌に載せ、蔵の入口に立つダンスタンへ差し出した。
「これは、何のつもりだ」
「鍵でございます」
「見れば分かる。君は古蔵を任されたんだぞ」
「昨日、伺いました」
「なら、なぜ置く」
鍵は小さく鳴って、卓の上に収まった。誰かを責める音には向いていない。けれど扉を閉めるには、あれで十分だった。
メリサンドはダンスタンへ一礼した。彼の後ろには若い働き手たち、その脇にはオリアン、少し離れてヴェスタがいる。決めた順に並べたなら、ずいぶん正確な配置である。
「半年分は返してあります。その先は、壁の割り当てに従えばよろしいかと」
「待て。勝手に辞めるなど許されない。家の仕事だ」
「わたくしへ尋ねずお決めになれるお仕事なら、わたくしがいなくともお決めになった方々で続けられましょう」
「言葉遊びをしている場合ではない。古蔵の損はどうする」
「公平にお分けくださいませ」
ダンスタンの口が開いた。閉じた扉にも蝶番はあるらしい。もう一度開きかけたところで、メリサンドは彼の横を通った。
「メリサンド」
ヴェスタが呼んだ。
メリサンドの手は、四年物の上にあった。最後に皮を確かめておこうと、親指を置いていた。いつもなら、そこからほんの少し押す。
「ヴェスタ様」
親指が止まった。
ヴェスタは一歩近づき、けれど娘の名を重ねなかった。昨日より近い場所にいるのに、相談を始めるまでが遠い。
「古蔵は、あなたなら立て直せるでしょう。オリアンにはまだ荷が重いの。しばらくでいいのよ。家のために」
四年物は、棚の中央に一つだけまっすぐ立っていた。灰を当てた夜も、皮が緩んだ夏も、朝まで温みが落ちなかった冬も知っている。月数にも目減りにもできたはずなのに、その一つだけは、どうにも勘定へ入ってくれなかった。
「ヴェスタ様。さようなら。」
軽口は出なかった。指も動かなかった。
「わたくしはこの一つを、七年、わたくしの蔵だと思うて返しておりました」
四年物から手を離し、メリサンドはもう一度だけ一礼した。鍵は卓上、品は棚、七年分の手は彼女についてくる。持ち出しとしては、ずいぶん軽い。
「メリサンド、話は終わっていない!」
背中にダンスタンの声が当たったが、振り返らなかった。終わっていない話というのは、たいてい終わらせたくない側がそう呼ぶだけである。こちらの手控えでは、もうきれいに閉じていた。
* * *
半年、何も起きなかった。
棚は落ちず、皮も裂けず、注文どおりの品が出た。メリサンドが出る前に返しておいた半年分は、壁の割り当てをたいそう立派に見せた。働いた者が消えても仕事だけ残るとは、名代にとって気持ちのよい奇跡だったに違いない。
「やはり段数で足りたんだ」
ダンスタンは勘定部屋で笑ったという。古蔵にも人を回し、損を均したと報告まで上げた。まだ一つも新しく返していない棚を前にして、彼の手柄はよく育った。熟成の才能がおありだ。中身が空でも、半年でこれほど膨らむ。
そのころメリサンドは、借りた小さな石室で頼まれ物を返していた。棚は二段、窓は一つ。屈めば頭をぶつける天井だったが、役目を背中側で決める者はいない。狭さというものは、余計な人まで入れなければ案外広い。
ある日、戸口を塞ぐほど大きな包みを抱えて、ジェスロ・ミルウォードが来た。四十年乳を納めてきた老人は、挨拶より先に包みを卓へ置いた。
「うちはもうカーロウへ出さない」
「こちらの棚は二段しかございませんよ」
「見りゃ分かる」
「三つ預ければ、一つはわたくしの寝床へ参ります」
「寝かせるのは品だけにしろ」
ジェスロは包みの紐を解いた。白い塊が三つ、布の中で行儀よく並んでいる。メリサンドの親指が一つ目を押すと、老人はそれを見て鼻を鳴らした。
「嬢ちゃん。おれたちはあの蔵に売ってたんじゃない。あんたの手に売ってたんだ」
短い言葉だった。値も条件も付いていない。なのに七年分のどの手控えより、きれいに彼女の取り分が書かれていた。
メリサンドは二段の棚を見た。三つなら入る。寝床も守れる。なんとも景気のよい算術ではないか。
「では、寒に入る週に」
「覚えてる」
ジェスロはそれだけ言い、空になった布を畳んだ。
* * *
綻びは、翌年の夏の終わりに一つだけ現れた。
上から二段目、返しの遅れた一つの皮が、朝にはまだ指二本分だった膨れを夕刻までに広げた。札が残っていれば、返す日を越したと分かったはずの品である。だが札は、以前にダンスタンが抜いて束にした。
「昨日は何ともなかった」
若い働き手が両手で押さえようとした。膨れた皮が裂け、重みの偏った丸が棚板の縁へ傾く。
「下を空けろ!」
間に合わなかった。
一つが落ちた。下段の二つにぶつかり、板が外れ、さらにその下へ丸い品が連なった。鈍い音が三度、四度、床から返る。割り当てどおり三段を持っていた手は、どれを先に支えるか決められなかった。
酸い匂いの中で、誰かが床の古紙を拾った。束からほどけた札だった。若い働き手たちはもう「誰でも回せる」と言わず、汚れた札を一枚ずつ拾い直した。
秋に届くはずだった注文は、一通だけ来なかった。毎年同じ数を求めていた取引先から、今年は便りそのものがなかった。ジェスロの荷車も門前で止まらず、道を曲がってメリサンドの小さな石室へ向かった。
「ミルウォードさんには、こちらから条件を整えてお話しします」
訪ねてきたダンスタンは、老人に椅子を勧め、返事を待ってから敬称を添えた。蔵で働く者へは扉を閉める声が、外の商人を前にすると隙間風ほど細くなる。
「条件の話じゃねえ」
「ですが、長年のお取引です。カーロウ家との信用を」
「落ちたのは棚だけじゃなかったな」
ジェスロは荷車の手綱を引いた。ダンスタンの返事を待つ礼儀までは、取引に含めなかったらしい。
オリアンは落ちた棚の前に立ち、床へ染みた中身を見た。損の数を聞き、返せない注文を確かめ、外套も脱がずに三軒を回った。帰ってきたときには裾が泥で重くなっていた。
「コールリッジ様。鍵を置いてください」
「今、立て直しの案をまとめている。人員を増やし、今度こそ均等に」
「もう結構です」
「オリアン嬢、これは君一人が決めることでは」
「母上にも話しました。勘定部屋も蔵も、あなたにはお任せしません」
ダンスタンの手から鍵が離れた。卓に置かれた音は、小さかった。メリサンドが置いた朝と同じだけ小さく、それでも役目を一つ終わらせるには足りた。
オリアンは鍵を取ると、若い働き手たちへ向き直った。
「残った品を数えます。詫びはわたくしが行きます。札は捨てないで」
誰もメリサンドを呼び戻せとは言わなかった。落ちた棚の始末は、落ちなかった手へ押しつけてよい仕事ではない。オリアンはようやく、自分が免れた損の置き場所を見ていた。
* * *
シベル・ロークは、小さな石室へ入るなり天井へ頭をぶつけた。顔をしかめたまま二段の棚を見回し、ジェスロの品の脇へ三通の紙を置く。寒に入る週だけが、それぞれ同じ位置に記されていた。
「近隣の三軒からです。修道院の品と合わせて、お願いがあります」
「棚でしたら、ご覧のとおり満員でございます。次のお客様には、わたくしの寝床かシベル様のお膝をお貸しすることになりますね」
「膝は長期の熟成に向きません。ですから、空いている蔵を一つ整えました」
シベルは鍵を出したが、メリサンドの前へすぐには置かなかった。まず三通の紙を彼女へ向け、その上に鍵を重ねた。
「棚ではなく、あなたの名で引き受けてください」
メリサンド・カーロウ。その名で預かり、その名で返す。家の棚を借りる手でも、姉の損を埋める末娘でもない。紙の上ではたった一行なのに、七年かけても空かなかった場所へ、するりと収まった。
「報酬と人手はこちらに。品を入れる順は、あなたが決めてください」
「たいへん危険なご提案です。わたくし、丸い物を見ると片端から押しますよ」
「その親指を頼んでいるんです」
シベルは鍵を置いた。メリサンドが取るまで手を離さず、返事を待った。
「お引き受けいたします」
新しい蔵には、壁沿いに棚が四つあった。講の女衆が板を拭き、布を煮て、届いた品へ一軒ずつ名札を結んだ。段ではなく、返す日から置き場所を決める。誰の手がどれを見たかも残す。仕事が難しく見えるなら結構。難しいものを簡単だと言い張って床へ落とすより、ずっと片づけが楽だった。
最初の品を棚へ入れた夕方、オリアンが一人で来た。両腕に抱えていたのは、あの四年物だった。中央の一つだけが、崩れた棚から離れた場所でまっすぐ立ち、傷もなく残っていたという。
「これは、あなたのものよ」
「家の品です」
「七年、あなたが返した品。手控えはわたくしが直したわ」
オリアンは四年物を新しい棚の前へ置いた。帰ってほしいとも、助けてほしいとも言わなかった。
「残った働き手と注文は、わたくしが引き受ける。母上にも、そう伝えた」
「姉様」
「それだけ」
オリアンは短く一礼し、空の両手で帰っていった。メリサンドは追わなかった。四年物にも、すぐには触れなかった。
新しい棚の中央で、その一つはまっすぐ立っていた。
* * *
冬の入口、ダンスタンとヴェスタが新しい蔵を訪れた。
ダンスタンは扉の前で帽子を取り、メリサンドが「どうぞ」と言うまで敷居を越えなかった。外の商人へ見せていた整った礼儀が、ずいぶん遅れて彼女の分まで届いたらしい。遅配の品なら受け取りを断れる。
「メリサンド嬢。お時間をいただき、感謝します」
「返しの時期ですので、長くは取れません」
「もちろんです。メリサンド嬢、カーロウ家の蔵は今、人手も信用も足りていない。君の経験が必要です。メリサンド嬢が戻れば、取引先も安心するでしょう」
以前は段の数に入っていなかった名を、彼は三度も呼んだ。数え方を覚えたことだけは褒めてもよい。もっとも、七年遅れでは利息が高すぎる。
「役目を離れた方が、何をお決めになるのでしょう」
「私は助言を求められているだけです。過去の行き違いはあった。しかし家を立て直すには、皆が力を合わせなければ」
ダンスタンの語尾は棚板より薄くなっていた。背後で若い働き手が頷いてくれないと、断定にも支えが要るらしい。
ヴェスタは何も言わず、四年物を見ていた。以前より皮の色が深くなり、新しい棚の中央に一つだけまっすぐ立っている。
「母上」
メリサンドが促すと、ヴェスタの唇が動いた。
「メ……」
娘の名は出なかった。背中側なら役目を決められた口が、正面では最初の一音にも届かない。
「家へ、戻ってちょうだい。オリアン一人では難しいの。あなたなら分かるでしょう。あの蔵も、まだやり直せるわ」
メリサンドは棚札を一枚、指先でまっすぐにした。四年物の前には、彼女自身の名と返す日が書かれている。誰の代わりでもない一行だった。
「蔵は、ひとつ増えるだけでございますね」
ダンスタンの顔に、ようやく意味が届いた。ヴェスタは四年物から目を上げたが、やはり娘の名を呼べなかった。
「ヴェスタ様。さようなら。」
七年分を二言で返す。目減りなし。上出来だ。
メリサンドが扉を開けると、ダンスタンは何か言いかけ、ヴェスタの横で口を閉じた。二人は並んで敷居を越えた。追う者はいなかった。
扉が閉じると、奥から講の女衆が大鍋を運んできた。豆のスープから立つ湯気が、棚の冷気に白くほどける。
「これ、いつ切るんだい」
一人が四年物を顎で示した。
「本日です。七年待ちましたので、これ以上は食い意地へ利息を払いません」
「人数分あるかね」
「薄く切れば。厚く切りたい方は、明日の分の豆を減らします」
相談は一息でまとまった。四年物を卓へ移し、メリサンドは丸い皮へ親指を置いた。
ゆっくり押す。深くなった弾力が、きちんと戻ってきた。
切り分けた一片は女衆の皿へ、次も、その次も。メリサンドの皿にも同じ厚さが載った。誰かの損を代わりに呑み込むためではなく、自分で選んだ者たちと分けるための一つだった。
「冷めるよ」
「では、座りましょう」
メリサンドは卓についた。湯気の立つスープは、座っていただいても冷めないらしい。七年目にして覚えた、悪くない知識だった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




