観察
「周りを見ろ」
マイクはその場に立ち、眩しい日差しに目を細めた。野原は静かで、風が草原を優しく撫でている。
木製の柵の近くでは数頭のヤギが草を食み、木々の集まる辺りでは何匹かのウサギが飛び跳ねていた。
まるで絵葉書のような、完璧に穏やかな景色だった。
だからこそ、余計に落ち着かなかった。
ミラは腕を組み、彼を見つめていた。
「見続けろ」
マイクはゆっくりと頷いた。
「もっと速く」
ミラが鋭く言った。
「え?」
「速くやれ」
マイクは慌てて頭を左右へ振り始めた。
左。
右。
柵。
草。
空。
木々。
大きな岩のそばに座っている、どこか妙な雰囲気のウサギ。
彼の視線は次々と動き回り、一つひとつの光景を脳に焼き付けようとした。
近くではローナンが草の上に座り、ポテトチップスをバリバリと豪快に噛み砕いている。
「道に迷った観光客みたいな顔してるぞ」
ローナンが笑った。
「うるさい」
マイクは視線を動かしたまま呟いた。
ミラはそのやり取りを無視した。
「いい。止まれ」
マイクは瞬きをしながら彼女の方へ向き直った。
「さて」
ミラは指を一本立て、マイクを指差した。
「半径二十メートル以内に、動物は何匹いた?」
マイクは一瞬固まった。
「……それだけ? テストってこれ?」
「質問に答えろ」
マイクは反射的に頭を動かし、もう一度数え直そうとした。
「見るな」
ミラが鋭く言った。
マイクはその場で動きを止めた。
「目を閉じろ」
マイクは長く疲れたようなため息をつきながらも、言われた通りにした。
ぎゅっと目を閉じる。
闇。
聞こえるのは風の音と、乾いた土の匂いだけだった。
彼は頭の中で、さっき見た景色を映像のように再生し始める。
「ウサギが二十匹」
マイクはゆっくりと言った。
「それと、ヤギが三頭」
ミラは小さく頷いた。
「いい」
少し間を置いてから、静かに続けた。
「だが、ウサギは二十一匹だ」
マイクはすぐに眉をひそめた。
「違う」
ミラが片眉を上げる。
「違う?」
「二十二匹だ」
マイクは迷いなく言い切った。
その言葉に、ローナンでさえチップスを食べる手を止め、顔を上げた。
「ほぉ? 自信満々じゃねえか、新人」
マイクは目を閉じたまま、もう一度野原の光景を思い浮かべる。
「あの木の近くにあるギザギザの岩の後ろに、一匹隠れてた」
「見えたのは耳の先っぽだけだった」
誰も、しばらく何も言わなかった。
やがて、ミラが小石を拾う音が聞こえた。
ヒュッ。
小石が岩へ向かって投げられる。
次の瞬間。
一匹のウサギが岩陰から飛び出し、野原を一目散に駆け抜けていった。
マイクはちょうどその姿を見届けるように目を開けた。
ローナンが大声で笑う。
「おおっ! いい目してるじゃねえか!」
ミラはマイクを見つめた。
笑ってはいなかった。
だが、その目には――興味があった。
まるで、今初めて彼という人間を見たかのように。
「……いい」
彼女は短くそう言った。
マイクは少し気まずそうに首の後ろを掻いた。
「さっき、ほんの少しだけ動いたのが見えただけだ。大したことじゃない」
ミラは静かに言った。
「ほとんどの人間は、小さな違和感を見逃す」
彼女は少し間を置く。
「そしてグリッチでは、その『小さな違和感』が命を奪う」
再び風が吹き、木々の葉がさらさらと揺れた。
ミラはしばらくマイクを見つめてから、背を向ける。
「よし。第二段階だ」
ローナンが頭の後ろで腕を組み、大きく伸びをした。
「あー、ここからが楽しい時間だ。苦しみの始まりってやつだな」
ミラは相手にしなかった。
「次は聴覚を鍛える」
マイクは眉をひそめた。
「聴覚? 何のために?」
「グリッチの中では、お前の目は簡単に騙される」
ミラの声が一段低くなる。
その瞬間、マイクの胃の奥に、あの冷たい嫌な感覚がまた結ばれた。
「そこにはいない人間が見える」
ミラは続けた。
「どこにも繋がっていない扉が見える」
「友人のふりをした怪物が見える」
さっきまで明るく感じていた野原が、急に色褪せたように思えた。
「だが――」
ミラは自分の耳の横を軽く叩く。
「耳は、目ほど簡単には騙されない」
ローナンがポテトチップスを一枚空へ向けながら口を挟む。
「まあ、グリッチが囁き始めたら話は別だけどな」
マイクは青ざめた顔でローナンを見た。
「待て……それ、本当にあるのか?」
ローナンはニヤリと笑う。
「そのうち嫌でも分かるさ」
……あいつら、その台詞好きだよな。
マイクは心の中で毒づいた。
ミラが一歩近づく。
「もう一度、目を閉じろ」
今度のマイクは何も言い返さなかった。
素直に目を閉じる。
世界が一瞬で変わった。
視界を失うと、あらゆる音が急に大きくなったように感じる。
草原を吹き抜ける風の音。
遠くで軋む基地の金属製の壁。
ヤギが干し草を噛み砕く音。
そしてもちろん――
ローナンがポテトチップスの袋をガサガサ鳴らしている音。
……本当にあいつは腹が立つ。
マイクは意識を集中させた。
近くの音を押しのけるように、さらに遠くへ耳を澄ませる。
モォー。
かすかに聞こえた。
遠くからだ。
モォー。
今度は別の方向。
暗闇の中から、ミラの静かな声が聞こえる。
「すべてを観察しろ」
彼女は少しだけ沈黙を置いた。
「今度は耳を使え」
「脳に足りない情報を勝手に埋めさせるな」
マイクは微動だにせず立ち尽くした。
ただ、耳を澄ませる。
「答えろ」
ミラが静かに囁く。
「牛は何頭いる?」
マイクは目を閉じたままだった。
風が耳元を通り過ぎていく。
だが、彼はもう木々を見てはいなかった。
地面の音に耳を澄ませていた。
音が、少しずつ鮮明になっていく。
草が擦れる音。
動物たちの息遣い。
遠くで揺れるフェンスの鎖がぶつかる小さな金属音。
そして――
ドスン。
続けて、もう一度。
ドスン。
マイクは眉をひそめた。
あれは草を食む動物が立てる不規則な足音ではない。
規則正しい。
重い。
そして、少しずつ近づいてきている。
「近くにいる牛は……三頭だけだ」
マイクは少し震えた声で言った。
ミラは何も答えない。
「でも……」
マイクはさらに集中した。
ローナンの呼吸音すら意識の外へ追いやる。
地響きは、さらに速くなっていた。
一組の足音ではない。
何十もの足音。
重く連続する振動が、ブーツの裏を通して足の裏を震わせ始める。
「……何かが来る」
マイクは小さく呟いた。
ローナンがチップスを食べる手を止める。
袋の音が止み、巨体が静かになった。
マイクはさらに強く目を閉じた。
「こっちへ真っ直ぐ向かってきてる」
遠くでヤギたちが散り散りに逃げる音が聞こえた。
さっき見つけた三頭の牛も、慌てて鳴き声を上げながら逃げ出そうとしている。
ようやくミラが口を開いた。
その声は氷のように冷たかった。
「……そう」
マイクは片目だけを開けた。
ミラは木々の向こう――野原の果てをじっと見つめている。
一歩も動いていない。
「それで」
彼女は腕を組んだ。
「奴らは何をするつもりだ?」
マイクは唾を飲み込んだ。
超能力者でなくても、この空気は分かる。
「……襲ってくる」
誰も動かなかった。
やがて、ミラは小さく頷く。
「いい」
マイクは両目を開け、瞬きをした。
「……いい?」
「森から姿を現す前に気づいた」
ローナンは草の上から立ち上がり、巨大な腕を思い切り伸ばした。
関節が銃声のようにバキバキと鳴る。
「大したもんだ、新人。普通なら目を閉じたまま踏み潰されて終わりだったぞ」
マイクはローナンとミラを交互に見た。
心臓が肋骨を叩くように激しく脈打っている。
「待て……これも訓練の一部なんだよな?」
「お前たちが操ってるんだろ?」
その瞬間――
地面が震え始めた。
ミラは無表情のままマイクを見た。
「いや」
マイクの口がぽかんと開く。
「……は?」
「いやって、どういう意味だ!?」
ミラはマイクの後ろを指差した。
「自分の目で見ろ」
マイクは勢いよく振り返った。
野原の遥か先――木々の境界線が、突然弾け飛んだ。
巨大な黒い影が次々と茂みを突き破る。
地面を叩く無数の蹄の音は、まるで雷鳴のように轟いていた。
マイクはその場で凍りつく。
牛の群れだった。
だが――普通の牛ではない。
筋肉は異様なほど膨れ上がり、その動きはぎこちなく、それでいて獰猛だった。
目は見開かれ、濁った乳白色に染まっている。
一頭は顎があり得ない角度まで外れ、歯の隙間から黒い粘液を垂らしていた。
別の一頭は、首中に太い紫色の血管が浮き出て脈打っている。
さっきまでの穏やかな牧場の空気は、完全に消え失せた。
マイクは慌てて一歩後ずさる。
「なんだよ、あれ!? 一体どうなってるんだ!?」
牛の群れは一直線に突進してくる。
ただ走っているのではない。
獲物を狩るように。
「おい! なんであんたら平然と突っ立ってるんだよ!?」
マイクはミラへ叫んだ。
ミラは肩を軽く回して身体をほぐす。
「不規則級グリッチでは、よくあることだ」
「この土地の野生動物は……少し厄介になる」
「これが『よくあること』なのかよ!?」
ローナンは腹を抱えて笑った。
「落ち着け、新人!」
「全然落ち着ける見た目じゃないだろ!!」
「まあ、ちょっと悪魔っぽいだけだ!」
マイクは突進してくる肉と角の壁を指差した。
「その言い方、まったく安心できねぇよ!!」
牛たちはもう目の前まで迫っていた。
地面を砕く轟音。
感染した肺から漏れるような、湿った荒い鼻息。
そのすべてが耳をつんざく。
マイクは腰へ手を伸ばした。
だが、何もない。
銃も。
ナイフも。
あるのはジャケットと最悪な予感だけだった。
ミラは背中へ手を回し、二本の短剣を抜く。
艶のない黒い刃。
何度も実戦を潜り抜けてきた傷跡が刻まれている。
マイクはその小さな刃を見つめた。
「……まさか、それであの怪物牛の大群と戦うつもりなのか?」
「今日はな」
ミラは平然と答えた。
「自殺だろ、それ」
「違う」
彼女は一歩前へ出る。
「仕事だ」
ローナンは首を鳴らした。
ミラのような静けさはなかった。
腹を空かせた猛獣のような顔だった。
まるで、この瞬間を朝からずっと待ち望んでいたかのように。
「いいか、新人」
ローナンの声が低く唸る。
「俺たちはエリートの『改変者』じゃねぇ」
「派手な火の玉も」
「怪力も」
「そんな便利な力は持ってねぇ」
マイクは突進してくる牛の群れを見てから、ローナンへ視線を戻した。
「だったら、なんであんたは叫ばないんだ!?」
ローナンは凶悪な笑みを浮かべた。
「弱いままのパッチャーは――」
牛の群れとの距離は十五メートル。
十二メートル。
「一日目で死ぬ」
土埃が舞い上がり、砂粒がマイクの目を刺した。
ローナンは先頭の牛の進路へ踏み出す。
ミラは獲物を狩る獣のように低く身を沈めた。
そして――
肉と角の壁が、貨物列車のような勢いで二人へ激突した。




