初訓練
床に何かが激しく叩きつけられる重い音で、マイクは目を覚ました。
ドスン!
ベッドの下で床板が微かに震えていた。マイクは片目をうっすらと開け、見覚えのない薄暗い天井を見上げた。空気は冷たく、古びた金属と工業用洗剤の匂いが仄かに漂っている。
そうだ。第八部隊の宿舎だ。家ではない。
ほんの一瞬、夢であってくれと願った。だが、それは再び起きた。
ドスン!
「ほら行った! 限界を超えろ!」
マイクは横を向いた。部屋の中央では、ローナンが上半身裸で汗を撒き散らしながら、まるで狂気にとり憑かれたかのように腕立て伏せを繰り返していた。壁のデジタル時計は午前五時十二分を示している。
マイクは長い沈黙の後、彼をじっと見つめた。
「……何やってんだ?」
ローナンがカッと顔を上げた。顔は真っ赤だ。
「おう! 起きたか」
「あいにくね」
マイクはそう呟くと、再び顔を枕にうずめた。
「よし。起きろ。出るぞ」
マイクは薄暗い光の中で目を細めた。
「どこへ行くってんだよ? 朝の五時だぞ、ローナン。太陽だってまだ起きてねえよ」
「筋トレ(グラインド)に太陽の都合なんか関係ねえ」
ローナンは跳ね起きるように立ち上がった。
「筋トレ(グラインド)だって二度寝くらい考慮すべきだろ」
「甘いな、新兵。そういう考えだから化け物に食われるんだ」
マイクは呻き声を上げながら起き上がり、目から眠気を擦り落とした。昨日の疲れのせいで、全身の筋肉がまだ鉛のように重かった。
「お前は新人だからな、今日は手加減してやる」
ローナンがニヤリと笑った。
マイクはその笑みが気に入らなかった。
「『手加減』の定義を聞かせろ」
「腕立て百回。血の巡りを良くする程度だ」
マイクはただ彼を見つめた。
「……本気で狂ってんのか?」
ローナンは心底心外だという顔をした。
「準備運動にもならねえよ」
「違うな」
部屋の隅から掠れた乾いた声が聞こえた。
「お前が脳筋なだけだ」
マイクは軽く跳ね起き、ソファの方を見た。そこにはブランケットを身に纏い、湯気の立つコーヒーカップを握りしめたデックスが座っていた。マイクが彼の姿をまともに見るのはこれが初めてだった。ボサボサの白髪、幽霊のように白い肌、そして首の横を駆け抜けるギザギザの傷跡。超人兵士というよりは、2019年から一度も眠っていない大学院生のように見えた。
「ああ」
マイクは彼を指差した。
「あんたが……ブランケット幽霊か」
デックスは静かに、味わうようにコーヒーを一口すすった。
「それが僕の公式肩書だ。ああ」
「あっちで死んでるのかと思ったぜ」
ローナンがソファを指差して鼻を鳴らした。
デックスは視線すら上げなかった。
「直立水分補給の練習をしてたんだよ。芸術の一種だ」
「現場の事件事故物件にしか見えなかったがな」
「居心地のいい事件現場だ」
部屋はすでにコーヒーの湯気とローナンの脳筋エネルギーで混沌としていた。
側面のドアがスライドして開き、髪をきつくポニーテールに結び直しながらミラが出てきた。彼女はすでにコンバットジャケット、重厚なブーツ、腰のホルスターに収められた拳銃と、完全装備を整えている。何時間も前から起きていたかのようだった。
彼女は部屋を一通り見回し、視線をマイクで止めた。
「よし。起きているな」
「ベーグルを食べる前に、この男に殺されそうなんですけど」
「いつものことだ」
彼女は椅子からジャケットをひっ掴むと、マイクに向かって放り投げた。
「着替えろ。出発する」
マイクは関節を鳴らしながら立ち上がった。
「どこへ?」
「射撃場だ。それから、お前の初グリッチへ行く」
部屋の空気が一変したのが分かった。軽口が止まったわけではないが、どこか……鋭さを増した。まるで全員が仮面をつけ直したかのようだ。
マイクは悟った。
この連中は二つの世界に生きているのだ。
睡眠の体勢について不毛な議論をする世界と、存在するはずのないものと戦う世界に。
「準備できた」
マイクはジャケットを羽織りながら言った。
ミラが頷いた。
「行くぞ」
この時間の地下通路は不気味だった。照明は低い琥珀色に落とされ、聞こえる音といえば遠くの換気音と、警備の交代が立てる時折の重い足音だけだった。
「あんたら、いつもこんな地下で暮らしてんのか?」
マイクはミラの歩調に合わせながら尋ねた。後ろからはローナンが消火器ほどもある大きさのプロテインシェイクを舐めながらついてきている。
「大体はな」
ミラが答えた。
「なんでだ? ちょっと……気が滅入るだろ」
ミラは振り返らなかった。
「窓が少ないからだ。この仕事じゃ、窓なんて外部から『何かが覗き込むための場所』でしかない」
マイクはエアコンのせいではない寒気を覚えた。
「見よ!」
ローナンが大声を上げ、緊張を破った。
彼らは一段高くなったプラットフォームに三台のバイクが設置された搬入作業場に到着していた。マイクが見たことのあるような普通のオートバイではない。無骨で、マットブラックの装甲に覆われ、フレームに沿って青いラインが発光している。床から十五センチほど浮いているため、スタンドすらついていなかった。
「なんだよ、あれ……」
マイクは息をのんだ。
「Mバイクだ」
ローナンが誇らしげに言った。
「Mバイクって名付けたのか? 本気で?」
「軍用級ホバーバイク(ミリタリー・グレード・ホバーバイク)だ」
ミラがローナンを無視して訂正した。
「物理法則が崩壊し始めたグリッチ区域を通り抜ける、最も速い手段だ」
マイクは一歩近づき、下部で明滅する青い光を見つめた。
「待て……まさか俺にこれに乗れって言ってるのか?」
「そうだ」
「車の免許すら持ってないんだぞ、ミラ」
「上等だ」
彼女は先頭のバイクに跨がった。
「変な癖がついていない分、教えやすい」
「恐ろしいことを言うな!」
ローナンが自分の車両に飛び乗ると、彼の体重を受けて機械が満足げな駆動音を響かせた。
「リラックスしろ、マイク! すべてはバランスだ。時速三百キロで走るサーフボードだと思えばいい!」
デックスが三台目のバイクの横にあくびをしながら現れた。
「実際はそんなものじゃない。傾けすぎたら、アスファルトで顔面をチーズおろし器みたいに削り落とすことになる」
「裏切り者め」
ローナンが呟いた。
ミラがマイクの胸に向けてヘルメットを放り投げた。
「乗れ」
マイクはバイクを見つめた。まるで自分に噛みつこうと待ち構えている肉食昆虫のように見えた。
「違法な匂いしかしないんだが」
「私たちがやる仕事の大半はそうだ」
ミラが返した。
「跨がれ」
マイクは乗り込んだ。バイクが彼の下でゆらりと揺れ、彼は即座にハンドルを強く握りしめた。指関節が真っ白になる。
「最悪だ。めちゃくちゃ嫌だこれ」
「スロットルは右だ」
ミラが指差した。
「ブレーキは左。親指のスティックにある赤のトグルには触るなよ」
マイクは赤いトグルを見つめた。
「赤のトグルってなんだ?」
「『あの壁を突き破りたいボタン』だ」
ローナンが楽しそうに口を挟んだ。
エンジンが起動し、歯の根に響くような深く震える重低音が鳴り響いた。
「待て、動いてる――動いてるって!」
バイクが左に数センチ流れると、マイクが悲鳴を上げた。
「余計な力が入っているからだ。肩の力を抜け」
ミラが命じた。
「リラックスなんてできるか! 浮いてる爆弾の上に座ってんだぞ!」
近くにいた数人の整備兵が手を止め、高みの見物を決め込んでいた。
「新人か?」
一人がレンチに寄りかかりながら尋ねた。
「今にも泣き出しそうだな」
もう一人が答える。
「聞こえてんだよ!」
マイクは叫んだ。
ミラが出口のトンネルを指差した。
「ついて来い。ゆっくり、慎重にな」
マイクは息を整え、握りを緩めると、ミリ単位でスロットルをわずかに捻った。バイクが滑り出した。滑らかだった――恐ろしいほど滑らかに。氷の上を滑っているようだが、完璧に制御されている。
「お……」
マイクは呟いた。
「いける。そんなに悪くないな」
もう少しアクセルを踏み込んだ。風がヘルメットをかすめて吹き抜けていく。彼は自分でも顔がほころんでいくのを感じた。
「おい、乗れてるぞ! 俺、マジで――」
床のわずかな段差に乗り上げた瞬間、彼は本能的にハンドルを強く握りしめてしまった。その拍子に、手がスロットルを奥まで全開に捻り込んだ。
ルォォォォン!
バイクが悲鳴を上げた。ロケットのように急速発進し、マイクの頭が後ろへ跳ね飛ばされた。
「うわああああっ! 助け――これどうやって止めるんだよ!?」
「ブレーキだ!」
ローナンが大笑いしながら叫んだ。
「どれがブレーキだよ!?」
「反対側のハンドルに決まってんだろ、天才!」
マイクはミラの脇をロケットのごとく通り抜け、積み上げられた段ボールに掠りそうになりながら、足を宙でバタつかせた。彼は死に物狂いの力で左のハンドルを握りつぶした。バイクは単に止まっただけではなかった。180度旋回し、横滑りしながら、コンクリートの支柱から数センチのところでピタリと停止した。
搬入作業場に静寂が訪れた。
マイクは胸を激しく上下させ、ヘルメットが目の上で斜めに傾いたままそこに座り込んでいた。
整備兵がゆっくりとコーヒーカップを下ろした。
「建物を脱出する前に死にかけたぞ。新記録だな」
ローナンはハンドルに覆いかぶさり、腹を抱えて大爆笑していた。
デックスはただため息をつき、こめかみを揉んだ。
ミラがマイクの隣に乗りつけ、彼を長い間見つめた。
「神が見えた……」
マイクはバイザー越しに囁いた。
「整備兵のツナギを着てた……」
「それはよかったな」
ミラの声には何の感情もこもっていなかった。
「もう一度やるぞ。今度は叫ぶな。士気に関わる」
マイクはヘルメットの位置を直し、トンネルの出口を見つめた。
「この仕事、本気で、本気で大嫌いだ」
移動には四十分近くかかった。
到着する頃には、バイクを強く握りしめすぎてマイクの手は痛んでいた。
走っている途中のどこかで、事故る恐怖は消えていた。
代わりに、ローナンに対する恐怖が芽生えていた。
この巨大なバカは、どういうわけか次のことを同時にやりながら運転していたのだ。
ポテトチップスを食う。
大声で歌う。
片手運転。
街灯のポールに二度激突しかける。
ミラは何度か、本気で彼を撃ち殺しそうな顔をしていた。
遠くへ進むにつれ、街並みはゆっくりと姿を変えていった。
立ち並ぶ高層ビル群がまず姿を消した。
次に交通量。
そして一般人。
やがて道路は誰もいなくなり、古びていった。
巨大な隔離壁が目立つようになってくる。
完全に捨て去られたように見えるエリアもあった。
誰もいない道路の脇には、壊れた車が放置されたままだ。
錆びついたシャッターの奥で、店は閉じられたまま。
いくつかのビルの壁には、何年も前に何かによって焼き払われたかのような、巨大な黒い痕が生々しく残っていた。
至る所に警告看板が目に留まった。
『この先歪曲エリア』
『一般人立ち入り禁止』
『DOGC許可が必要』
このあたりの空気は静かだった。
静かすぎた。
空気そのものが、どこか重く感じられた。
ローナンがようやく、巨大な金属製の門の近くでバイクを減速させた。
「着いたぞ」
マイクは再び転びそうになりながら、彼らの隣に不器用に停車した。
「このバイク、大嫌いだ」
「そのうち好きになるさ」
「心底疑わしいね」
ミラはヘルメットを脱ぎ、バイクに引っかけた。
彼らの目の前には、小さなエリアを囲むように建造された重厚な強化壁がそびえ立っていた。
フェンスの上で、探照灯がゆっくりと回転している。
入り口の検問所には、武装した警備員が数人立っていた。
そして門の上には――
黒い鋼鉄の上に、色褪せた巨大な文字が塗られていた。
『不規則級グリッチ』
マイクはそれを静かに見つめた。
本物のグリッチ区域をこの目で見るのは、これが初めてだった。
テレビ越しではない。
ニュースの映像でもない。
本物だ。
その事実が、彼の胸をわずかに締め付けた。
警備員たちは身分証を素早く確認すると、門を開けた。
重い金属のドアが、鈍い不快な音を立ててゆっくりと開いていく。
マイクが予想していたのは――
暗闇。
化け物。
廃墟と化したビル。
ホラー映画のようなクソみたいな光景。
しかし――
彼は固まった。
「……は?」
壁の内側に広がっていたのは、野原だった。
正真正銘の野原。
草木。
木々。
小さな木製の柵。
何頭かのヤギが、だるそうに草を食みながら徘徊している。
近くの土の上を、ウサギがピョンピョンと跳ねていた。
数羽のニワトリが、小さな鳴き声を上げながら歩き回っている。
マイクは困惑しながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
「……ここ、本当にグリッチなのか?」
隣でローナンがニヤリと笑った。
「俺も最初にまったく同じこと言ったぜ」
マイクはミラの方を見た。
「ただの農場に見えるけど」
「すぐに分かる」
その答えに、彼は再び居心地の悪さを覚えた。
三人で敷地の奥へと進んでいく。
その場所は穏やかだった。
穏やかすぎた。
頭上の空は普通に見える。
風も普通に感じられる。
動物たちですら、ごく自然に振る舞っている。
少なくとも……
一見した限りでは。
歩きながら、マイクはわずかに眉をひそめた。
何かがおかしい。
危険というわけではない。
ただ、すぐには言語化できない違和感がそこにあった。
やがて、ミラが野原の中央付近で足を止めた。
「よし」
マイクは彼女を見た。
「当面の間、ここがお前の訓練場だ」
近くの草の上に、ローナンが大袈裟に倒れ込んだ。
「やっとかよ。ケツが痛くて堪らん」
「犯罪者みたいな運転をするからだろ」
ミラが吐き捨てた。
「才能ある犯罪者、な」
マイクは二人を無視し、もう一度周りを見渡した。
「……で、具体的にここで何をやるんだ?」
ミラは腕を組んだ。
「訓練だ」
「それは分かってる」
彼女は野原の周りを指差した。
「パッチャー(継ぎ当て屋)には、ド派手な戦闘能力はない」
マイクは黙って聞いていた。
「炎を吹くこともできない」
「ビルを殴り倒すこともできない」
「空を飛んでカッコつけることもできない」
ローナンが誇らしげに指を一本立てた。
「俺が飛んだらカッコいいぞ」
「死体に見えるだけだ」
「それでもカッコいい」
ミラは無視した。
「パッチャーにあるのは、『生存能力』だけだ」
彼女のトーンが、より真剣みを帯びた。
「グリッチ内部では、戦闘力よりも感知力の方が重要になる」
マイクは真剣に耳を傾けた。
「大半の能力者は、反応が遅すぎるから死ぬ」
ミラは自分の目を指差した。
「パッチャーが生き残れるのは、誰よりも先に異変に気づくからだ」
風が野原を穏やかに吹き抜けていった。
木のかたわらで、一羽のウサギが突然ピタリと動きを止めた。
マイクの視線が、自然とそのウサギへと向けられた。
ミラはそれに即座に気づいた。
「いい筋だ」
マイクは彼女を振り返った。
「え?」
「気づいたな」
「あのウサギ?」
ミラは一度頷いた。
「何が変わった?」
マイクは再びその動物に目をやった。
それは完全に静止していた。
草を食むこともなく。
身じろぎもせず。
ただ、どこかをじっと見つめている。
「……分からない」
「なら、見続けろ」
マイクは微かに眉をひそめた。
ウサギは静かに見つめ続けていた。
そして――
ゆっくりと、首を後ろへ捻りすぎた。
物理的に首がそんな角度まで回転するはずがないほど、ぐるりと。
マイクは息をのんだ。
ウサギは首が上下逆さまになった状態のまま、彼をじっと見つめ返していた。
草の上でローナンが薄っすらと笑った。
「お出ましだ」
マイクの腕に、寒気がスッと走った。
野原を包んでいた穏やかな空気は、一瞬にして偽物に感じられた。
表面の絵の具の下に、何か別のものを隠しているかのような。
ミラが静かに彼の隣へ歩み寄った。
「ちょっとした教訓だ」
マイクはウサギから目を離せなかった。
「私たちパッチャーが生き残れるのは、強いからじゃない」
ウサギは何事もなかったかのように、突然また普通に跳ね回りはじめた。
まるで、最初から何も起きていなかったかのように。
ミラの静かな声が続いた。
「注意を払っているから、生き残れるんだ」
マイクはゆっくりと、再び周囲の野原を見回した。
今度は、より多くのものが見えてきた。
柵の近くにいるニワトリは、一度も瞬きをしていない。
一頭のヤギの影が、本体の動きよりコンマ数秒遅れて動いている。
風が止んでいるというのに、木々がザワザワと音を立てて揺れている。
胃の奥がキュッと締め付けられた。
ミラは静かに彼を見つめた。
「だから、まずは基本から始める」
マイクはゆっくりと唾を飲み込んだ。
「最初の感覚は……」
彼女は彼の目を指差した。
「……『見る力』だ」
再び微かな風が野原を吹き抜けた。
そしてミラは静かに言った。
「お前の周囲を、観察しろ」




