エリアス・ホン
第八部隊の隊員室へと続く廊下には、古いコーヒーと汗、それに焼けた配線の匂いが混じって漂っていた。
マイクはダッフルバッグを肩に掛けたまま、金属製のドアの前に静かに立つ。
中からは賑やかな声が聞こえてきた。
笑い声。
怒鳴り声。
何か重い物が床に落ちる音。
そして突然、大音量の音楽が流れ始めたかと思えば――。
「そのクソ音楽止めろ! エリアスに窓から放り投げられたいのか!」
誰かが怒鳴った。
マイクは一度だけ瞬きをする。
(……思ってた雰囲気と全然違うな)
悪夢のような場所へ日常的に足を踏み入れる人間たちの部隊。
もっと重苦しい空気を想像していた。
ゆっくりとドアを押し開ける。
そして、その場で固まった。
「……なんだこれ」
部屋の中は惨状だった。
上半身裸の大男が部屋の中央で壊滅的に下手なダンスを踊り、その周りでは二人の男が古びたソファに座って腹を抱えて笑っている。
「イェーーーッ!」
「最高だぜ!」
「死にかけのゴリラみたいな踊りだな!」
「うるせぇ!」
机の上には食べ終えた弁当箱や空き容器が山積みになっている。
壊れかけた扇風機が隅で耳障りな音を立てながら回り続けていた。
なぜか壁には交通標識まで飾られている。
ソファでは、一人の男が毛布を頭まで被ったまま逆さ向きで眠っていた。
別の男は拳銃を分解して手入れしながら、片手でカップ麺をすすっている。
そして部屋の一番奥――。
窓際の椅子には、一人の男が静かに腰掛けていた。
片腕を肘掛けに預け、
手にはコーヒーカップ。
疲れ切った表情を浮かべながらも、どこか穏やかな笑みを湛えている。
エリアス・ホンだった。
騒がしい部屋の中で、彼だけがまるで別世界にいるように静かだった。
やがてエリアスが穏やかな声で口を開く。
「……よし、お前ら。馬鹿騒ぎは終わりだ。寝る準備をしろ」
踊っていた大男が大げさに胸を張る。
「俺は人を楽しませるために生まれてきた!」
「いや、お前はブサイクに生まれてきただけだ」
誰かが即座に返す。
部屋中が爆笑に包まれた。
その時だった。
ドアがきしむ音が響き、
全員の視線が一斉にマイクへ向く。
静寂。
マイクは本気で部屋を間違えたのではないかと思った。
上半身裸の大男がゆっくり腕を下ろす。
「……誰だ、お前?」
エリアスも入口へ視線を向けた。
そして小さく頷く。
「ああ」
椅子から静かに立ち上がる。
「新入りか」
マイクは慌ててバッグの肩紐を握り直した。
「は、はい! えっと……マイク・ドレンです! 二十二歳! 本日付で第八部隊へ配属になりました!」
エリアスはゆっくり歩み寄ってくる。
近くで見ると、その目には以前と同じ深い疲労が刻まれていた。
弱さではない。
ただ、果てしない疲れだ。
もう何年も眠るだけでは癒えなくなった人間の目だった。
エリアスはマイクの前で立ち止まる。
「ふむ」
それだけ言うと、壁際にある空いたベッドを指差した。
「荷物はそこへ置け」
マイクは素早く頷く。
「はい、隊長!」
エリアスは少しだけ眉をひそめた。
「そんな軍隊みたいに話さなくていい」
短く間を置く。
「……まだ前線じゃない」
その「まだ」という一言だけで、マイクは妙な居心地の悪さを覚えた。
彼は静かにバッグをベッドの横へ置く。
それでも部屋中の視線はまだ自分に集まっていた。
まるで縄張りへ迷い込んだ新しい動物を観察しているようだった。
マイクは軽く咳払いをする。
「えっと……マイク・ドレンです。シアン・セクター第十一地区から来ました」
エリアスは一度だけ頷いた。
「シアン・セクターか」
その表情に、ほんの少しだけ懐かしさが浮かぶ。
「あそこは昔、半年ほど担当していた」
マイクは少し驚いた。
「本当ですか?」
「六か月だけな」
するとソファの男が吹き出した。
「六か月? 毎週火曜日になるたび死にかけてたくせに」
「火曜日だけか?」
別の誰かが笑いながら返す。
エリアスは完全に聞き流していた。
マイクは静かに部屋を見渡した。
散らかっている。
それなのに、不思議と居心地が悪くなかった。
決して綺麗でも、整頓されているわけでもない。
だが、この部屋には確かな温かさがあった。
そのことが、マイクには少し意外だった。
パッチャーたちは皆、もっと暗く沈んだ人間ばかりだと思っていたからだ。
だが実際は違う。
ここはまるで――。
死のことを考えないよう、必死に馬鹿をやっている連中の集まりだった。
その時だった。
上半身裸の大男が、ずしん、と床を鳴らしながらマイクの前まで歩いてくる。
近くまで来て初めて分かった。
(……でかい)
太っているわけではない。
まるで戦車のような体格だった。
腕はマイクの太腿よりも太く、肩や胸には無数の古傷が走っている。
それなのに――。
どうしようもなく楽しそうな顔をしていた。
男は腕を組み、大げさにマイクを見下ろす。
「よし、新入り」
マイクも見上げる。
「……はい?」
男は人差し指を突きつけた。
「質問だ」
「質問?」
「この答えで、お前が兄弟になるか――」
部屋中が妙に静かになる。
「敵になるかが決まる」
マイクはゆっくり瞬きをした。
「……そんなに重要なんですか?」
「重要だ」
男は真剣な顔で身を乗り出す。
「もしデスノートを手に入れたら――」
マイクは思わず目を見開いた。
「使うか?」
一瞬、部屋が静まり返る。
そして次の瞬間。
「おっ!」
「いい質問だ!」
「慎重に答えろよ!」
周囲が一斉に騒ぎ始めた。
マイクは数秒間、大男の顔を見つめる。
それから肩をすくめた。
「場合によりますね」
男は目を細めた。
「何次第だ?」
「その日に俺をイラつかせた相手が、それだけの価値があるかどうかです」
一瞬の沈黙。
そして――。
「ぶはははは!」
「最高!」
「こいつ気に入った!」
「仲間だ!」
部屋中が爆笑した。
大男は豪快にマイクの肩を叩く。
ほとんど吹き飛ばされるほどの威力だった。
「ようこそ第八部隊へ!」
マイクはよろけながら肩を押さえる。
「痛っ! 力加減どうなってるんですか!」
男は腹を抱えて笑う。
「俺はローナンだ!」
「トラックに殴られたのかと思いました」
「褒め言葉として受け取っておく!」
「褒めてません」
ローナンは全く気にしていなかった。
その時、窓際で煙草を吸っていた女性が口を開く。
「調子に乗らせないで」
マイクはそちらを見る。
二十五歳くらいだろうか。
鋭い目つき。
後ろで束ねた暗い赤髪。
顎には細い傷跡が何本も走っている。
彼女は煙草を軽く自分へ向けた。
「ミラ」
そして毛布を被って眠る男を指差す。
「あれはデックス」
毛布の下から片手だけがゆっくり上がった。
「……まだ生きてる」
「残念ながらね」
ミラが即座に返す。
そのやり取りを見て、マイクの肩から少しだけ力が抜けた。
完全ではない。
それでも、少しだけ呼吸が楽になる。
エリアスは再び窓際へ戻り、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。
「飯は食ったか?」
マイクは少し驚く。
「……まだです」
「そうか」
マイクは首を傾げる。
エリアスはキッチンの方を指差した。
「どこかに残り物がある」
マイクは苦笑した。
「その言い方、ちょっと怖いですね」
「免疫はつく」
ミラが小さく吹き出す。
ローナンは得意げに冷蔵庫を開け放った。
「見よ!」
中に入っていたのは――。
インスタントラーメン。
ビール。
賞味期限切れのソース。
エナジードリンク。
そして何なのか判別不能な緑色の野菜。
マイクはしばらく無言で冷蔵庫を眺めた。
「……恐ろしいですね」
ローナンは胸を張る。
「俺たちはプロとして生き延びてる!」
毛布の下からデックスの声が響いた。
「緑の容器だけは触るな」
マイクはゆっくり指差す。
「……あれ、動いてません?」
「誰も知らん」
「なるほど」
その説明で十分だった。
部屋はゆっくりと、いつもの空気を取り戻していった。
誰かが音楽の音量を少しだけ下げる。
ミラに何度も怒られた末、ローナンもようやくシャツを着た。
マイクは紙の器に入った温め直しのラーメンを手に、テーブルへ腰を下ろす。
思っていたより悪くない味だった。
向かいでは、エリアスが任務ファイルを静かに読み続けている。
必要以上に話すことはない。
それでも部屋の誰もが、自然と彼を中心に動いていた。
誰も軽々しく邪魔をしない。
誰も彼の前では長く馬鹿騒ぎを続けない。
そこにあったのは恐怖ではない。
敬意だった。
本物の敬意。
そしてマイクは、もう一つの共通点にも気づく。
この部屋にいる全員が傷を負っていた。
目に見える傷。
見えない傷。
その両方を。
ミラが彼の視線に気づく。
「そんなに見るなよ、新入り」
マイクは慌てて目を逸らした。
「すみません」
ミラは煙をゆっくり吐き出す。
「そのうち自分にもできる」
その言葉に、誰も笑わなかった。
一瞬だけ部屋が静かになる。
マイクは器の中のラーメンへ視線を落とした。
「……みんな、ここにはどれくらいいるんですか?」
「長すぎるくらいだ」
毛布の下からデックスがぼそりと答える。
「私は三年」
ミラが言う。
ローナンは隣へどかりと腰を下ろした。
「俺は二年!」
マイクはゆっくりエリアスを見る。
彼はページを一枚めくりながら答えた。
「七年」
マイクは思わずむせそうになった。
「七年……?」
「大抵は、皆そういう反応をする」
七年間。
パッチャーとして。
それは異常だった。
検査官は言っていた。
ほとんどのパッチャーは長く生きられないと。
なのに、この男は七年間も生き延びている。
ローナンがニヤリと笑う。
「ボスは別格だからな」
ミラも静かに頷いた。
「昔、一度だけアビスクラスのグリッチ拡散から生還してる」
マイクはゆっくりエリアスへ目を向けた。
「……本当ですか?」
エリアスは静かにコーヒーを飲む。
「運が悪い日だっただけだ」
「悪い日ぃ!?」
ローナンが大声を上げた。
「十一時間も行方不明だったんだぞ!」
「法的には一回死んでた!」
「全身血まみれで、別のパッチャーを肩に担いで帰ってきたじゃねぇか!」
エリアスは本気で首を傾げた。
「……少し盛ってるな」
「盛ってねぇよ!」
マイクは改めてエリアスを見つめる。
静かで、
疲れていて、
落ち着いている。
だが今なら分かる。
この男は普通じゃない。
パッチャーの中でも。
エリアスがふと視線を上げる。
「考え事が顔に出てるぞ」
マイクは瞬きをした。
「え?」
エリアスは指先で自分の顔を軽く指した。
「全部書いてある」
「……すみません」
部屋にまた笑いが広がる。
マイクは照れ隠しに首の後ろを掻いた。
エリアスは穏やかに言う。
「謝る必要はない」
その表情が少しだけ変わった。
真剣になる。
「だが、一つだけ覚えておけ」
部屋の空気が自然と静まった。
ローナンさえ口を閉じる。
エリアスは椅子にもたれた。
「パッチャーは勇敢だから生き残るわけじゃない」
マイクは黙って耳を傾ける。
「逃げるべき時を知っているから、生き残る」
部屋は完全に静まり返った。
エリアスは続ける。
「英雄気取りの馬鹿は、グリッチの中じゃすぐ死ぬ」
疲れた瞳がまっすぐマイクを見る。
「もし本能が『何かがおかしい』と告げたら――」
その声は少しだけ低くなった。
「必ず従え」
その一言には重みがあった。
助言ではない。
経験だった。
血を流して得た経験。
その瞬間、マイクの頭に再びあの耳鳴りがよみがえる。
頭を締め付ける圧迫感。
囁き声。
気づけば、スプーンを握る手に力が入っていた。
エリアスはすぐにそれへ気づく。
「……大丈夫か?」
マイクは慌てて顔を上げた。
「え、ええ」
短い沈黙。
エリアスは一度だけ頷く。
「今夜はしっかり寝ろ」
「明日、動く」
マイクは首を傾げた。
「どこへ?」
誰もすぐには答えなかった。
やがてミラが静かに口を開く。
「初めてのグリッチだ」
また部屋が静まり返る。
マイクはその時ようやく理解した。
この部屋の人間は、
笑って、
馬鹿をやって、
冗談を飛ばしている。
けれど、その心の奥では皆、
待っている。
サイレンを。
次の任務を。
現実がまた壊れる瞬間を。
そして、その事実は――
恐怖よりも、
ずっと孤独だった。
ミラが「初めてのグリッチ」と口にしてから、部屋はしばらく静まり返っていた。
どこかで音楽が小さく流れている。
窓を叩く雨音。
ローナンは潰れたポテトチップスの袋を抱えたまま、虚空を見つめながら黙々と食べていた。
マイクもまた、静かに座っていた。
初めてのグリッチ。
その言葉を聞いただけで、胃の奥がわずかに締めつけられる。
やがてエリアスが椅子から立ち上がった。
「……今日はここまでだ」
ミラは空き缶を灰皿代わりにして煙草を揉み消す。
デックスは毛布をさらに頭まで引き上げ、まるで埋葬を待つ死体のようだった。
ローナンは大きく伸びをし、全身の骨を派手に鳴らす。
「その音、本当に気持ち悪い」
ミラが呆れたように言う。
「男らしさの音だ」
「関節炎の音でしょ」
ローナンは本気で傷ついたような顔をした。
エリアスは二人を完全に無視し、壁に掛けられた巨大な任務ボードへ歩いていく。
マイクは、その赤い任務票の中に数か月前の日付が書かれたものが混じっていることに気づいた。
つまり――。
何か月も閉鎖できないグリッチが存在するということだ。
その事実だけで背筋が寒くなる。
エリアスはボードから目を離さないまま口を開いた。
「ミラ」
「はい?」
「新入りはお前が担当しろ」
マイクは思わず顔を上げる。
ミラはすでに面倒そうな顔をしていた。
「本気ですか?」
「ああ」
「なんで私なんです?」
「ローナンに任せたら、面白い死に方しか教えない」
「ひどいな、それ」
ローナンが不満そうに呟く。
エリアスはゆっくり振り返った。
「明日はローナンも同行だ」
ローナンは胸を張る。
「やっぱり俺の才能が認められたか」
「力仕事担当だから」
ミラが即座に切り捨てる。
「俺は芸術家だ」
「脳筋の間違いでしょ」
マイクは危うく吹き出しかけた。
エリアスは静かにマイクの前まで歩いてくる。
「最初は基礎訓練だ」
「現場での行動」
「歪曲現象への対処」
「そして、生き残るためのルールを覚えろ」
ミラは腕を組みながらため息をついた。
「分かりました」
そしてマイクを一度見回す。
「でも、やっぱり弱そう」
マイクはすぐ反論しかける。
「ちょっ――」
「違う」
エリアスが静かに遮った。
部屋はまた静まり返る。
エリアスはミラを見て言う。
「身体は確かに弱いかもしれない」
そして視線をマイクへ移した。
「だが――」
ほんの少し間が空く。
「意志は違う」
マイクはわずかに眉をひそめた。
エリアスは静かに続ける。
「それだけは分かる」
その言葉は、不思議なほど胸に響いた。
今まで誰にも、そんなことを言われたことはない。
教師にも。
店長にも。
自分自身にさえ。
ミラも改めてマイクを見る。
今度は先ほどとは違う目だった。
少しだけ、見方を変えたような。
ローナンがニヤニヤ笑う。
「おお」
マイクは首を傾げた。
「何ですか?」
ローナンはエリアスを指差す。
「ボスが人を褒めるなんて滅多にないぞ」
「あれは褒めたうちに入らない」
ミラが肩をすくめる。
「エリアス基準なら、ほぼ告白だけどね」
「黙れ」
毛布の下からデックスのくぐもった声が聞こえた。
「静かに死なせてくれ……」
部屋に再び笑いが戻る。
だがマイクは、まだエリアスの言葉を考えていた。
――意志。
なぜ、この人はそんなことを言ったのだろう。
まだ会ったばかりなのに。
その時、不意に思い出す。
検証センター。
耳鳴り。
頭を締めつける圧迫感。
囁き声。
胸が少しだけ重くなった。
(……今は考えない方がいい)
エリアスは壁の時計へ目を向ける。
「寝ろ」
誰も逆らわなかった。
それだけで、この部隊における彼の存在がどれほど大きいか分かる。
部屋は少しずつ静かになっていく。
ミラは何冊かのファイルを抱えて隣室へ向かった。
ローナンは何故か突然腕立て伏せを始める。
デックスは相変わらず死体だった。
マイクは空いたベッドの横で静かに荷物をほどく。
中に入っていたのは、わずかな着替え。
古いヘッドホン。
スマートフォンの充電器。
そして――。
レナと叔父との写真が入った、小さな写真立て。
それが、今の彼の人生のほとんどだった。
写真をベッドの横へ丁寧に置き、ゆっくり腰を下ろす。
マットレスが小さく軋んだ。
隊員室は先ほどより静かだった。
薄暗い照明。
小さな話し声。
地下施設のどこか遠くから聞こえる警報。
マイクは壁にもたれ、静かに息を吐く。
明日。
訓練が始まる。
現実が壊れた場所で、生き残る術を学ぶ日が来る。
胸の中には、
恐怖。
好奇心。
期待。
それらが入り混じった、奇妙な感情が渦巻いていた。
その時だった。
腕立て伏せの途中だったローナンが突然顔を上げる。
「最後に一つだけ」
マイクはもうため息をついていた。
「今度は何です?」
ローナンは真剣な顔で指を立てる。
「もしゾンビが世界中に溢れたら――」
マイクは額を押さえた。
「……なんでそんな話になるんですか」
「答えろ」
「嫌です」
「俺を置いて逃げるのか?」
「もちろん」
ローナンは本気で傷ついた顔になった。
「ボス! 新入りが冷たい!」
エリアスは書類から顔も上げず、静かに言った。
「寝ろ、ローナン」
「……はい」




