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パッチャー

 マイクはほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたびに、あの囁きが戻ってきた。


 はっきりとではない。


 大声でもない。


 ただ、頭の奥にこびりつくには十分な音量だった。


 朝を迎える頃には、疲労のせいで目が焼けるように痛んだ。


 部屋にはインスタントコーヒーと古紙の匂いが漂っている。


 レナはソファの上で胡坐をかき、ヘッドホンをつけたまま、ひび割れたタブレットの画面をスクロールしていた。


 カーテンの隙間から細い線のように差し込む日光が、部屋を横切っている。


 マイクはタオルで髪を拭きながら洗面所から出てきた。


「ひどい顔」


 レナは視線を上げずに言った。


「お前もな、おはよう」


「病気?」


「たぶんな」


「休んだ方がいいよ」


 マイクはキッチンのカウンターから食パンの袋を掴んだ。


「で、プロの居候になるか?」


 レナがようやく彼を見た。


 彼の目の下には、濃い隈があった。


「本当に体調悪そう」


 マイクは彼女の言葉を無視し、一晩で魔法のように食べ物が現れていないか確かめるように、もう一度冷蔵庫をチェックした。


 何も変わっていない。


 相変わらず憂鬱な中身だ。


 賞味期限切れの牛乳を取り出し、日付を二秒間見つめてから、元に戻した。


 意気地なしめ。


 その様子を見ていたレナが鼻で笑った。


「ねえ、普通の人はダメになった牛乳は捨てるんだよ」


「普通の人は代わりの牛乳を買う余裕があるんだよ」


「それは正論」


 マイクは彼女の向かいに座り、額を押さえた。


 あの圧迫感が、まだそこにあった。


 昨夜よりは軽かった。


 だが、確かに存在する。


 見えない何かが、頭蓋骨の内側からゆっくりと押し寄せてくるような感覚だ。


「本当に大丈夫?」


 レナが静かに尋ねる。


「ただの寝不足だ」


「昨日、耳がおかしくなったって言ってたよね」


 マイクの手が止まった。


「ああ」


「普通じゃないよ」


「この街にあるものの半分は普通じゃないさ」


 レナはさらに言い返したそうな顔をしたが、言葉を飲み込んだ。


 背後では、テレビの音が小さく流れていた。


『――DOGC当局は、夜間に歪曲活動が活発化したことを受け、イースト・メリディアンの隔離壁の作動状態をさらに七十二時間延長すると発表しました――』


 マイクはぼんやりと画面に目を向けた。


 映像では、巨大な金属製のバリケードの背後に立つ兵士たちと、無人の街をスキャンするドローンが映し出されていた。


 封鎖された壁の向こうでは、いくつかのビルが、まるで目に見えない手で曲げられたかのようにわずかに歪んでいた。


 リポーターが緊張した声で話し続ける。


『――熱源スキャンによる生存者は確認されていないものの、封鎖区域の内部から子どもの泣き声に似た音が聞こえたという目撃証言が――』


 レナがテレビを消音にした。


「悪夢の燃料みたいな話を、食事のたびに聞かされなきゃいけないわけ?」


 マイクはかすかに笑った。


「無理だろうな」


 突如、彼のスマートフォンが震えた。


 仕事のメッセージだ。


 彼はそれを開いた。


『シフトの穴埋めが必要だ。可能なら早めに来てくれ』


 マイクは数秒間、そのメッセージを見つめた。


 それから、ため息をついた。


「最悪だ」


「仕事?」


「ああ」


「帰ってきたばかりなのに」


「そこがエキサイティングなところさ」


 レナはソファの背もたれに寄りかかった。


「辞めちゃえばいいのに」


「で、どうする?」


「それを自分で考えてよ」


 マイクは椅子からジャケットを掴み取った。


「思いついたら教えてやるよ」


 アパートの外の通路は、タバコの煙と湿ったコンクリートの匂いがした。


 マイクはバックパックを直しながら、ゆっくりと階段を下りていく。


 頭の中の圧迫感が、また一瞬だけ脈打った。


 彼は途中で足を止めた。


 奇妙な耳鳴りが耳を通り抜けていく。


 そして消えた。


 マイクは眉をひそめた。


「勘弁してくれ……」


通りに出る頃には、街はすでに混雑していた。


 朝の渋滞。


 仕事へ急ぐ人々。


 大声を出す露天商。


 頭上を行き交う配達用ドローン。


 すべてが正常に見えた。


 ほとんどは。


 交差点の近くには、巨大な警告看板が立っている。


『歪曲安全ホットライン:異常現象はただちに通報を』


 バス停の横の壁には、何枚もの古い行方不明者のポスターが貼られていた。


 最近のものもあれば。


 何年も前のものもある。


 もう誰も、それを剥がそうとはしなかった。


 マイクは、二人の男がコーヒーを飲みながら言い争っている小さな露店の前を通り過ぎた。


「本当だって、俺の従兄弟が見たんだよ。隔離線の外で、あの化け物の一匹が動いてるのをな」


「お前が酔っ払ってただけだろ」


「そいつ、笑ってたんだよ」


「酔っ払ってりゃ、何でも笑って見えるさ」


 マイクは歩き続けた。


 頭の中の圧迫感が、今度はより強く戻ってきた。


 視界がわずかに滲む。


 通りの音が、突然こもったように遠くなった。


 まるで水の中に押し込まれたかのように。


 マイクは交通標識のポールの近くで立ち止まり、それを強く掴んだ。


 耳鳴りが戻ってくる。


 大きく。


 鋭く。


 彼は強く目を閉じた。


 人々は気づくこともなく、彼の脇を通り過ぎていく。


 そして――。


 静寂。


 突然、誰かの手が彼の肩を掴んだ。


「大丈夫かい?」


 マイクはすぐに目を開けた。


 買い物袋を持った老女が、彼の隣に立っていた。


「今にも倒れそうに見えたよ」


「大丈夫です」


「大丈夫には見えないけどね」


 マイクは無理に小さく頷いた。


「あまり眠れなくて」


 女性はもう一秒だけ彼を見つめてから、ゆっくりと歩き去っていった。


 マイクは顔をこすった。


 何かがおかしい。


 確実におかしい。


 普通の疲れじゃない。


 ストレスでもない。


 頭の中が奇妙な感覚だった。


 思考の底に、ノイズが埋もれているような。


 スマートフォンが再び震えた。


 別の仕事メッセージだ。


『一体どこにいるんだ?』


 マイクは重いため息をついた。


 それから、再び歩き始めた。


 彼が到着した時、コンビニは混雑していた。


 入り口の近くまで、苛立った客の列が伸びている。


 三番通路のあたりで、誰かが怒鳴り声を上げていた。


 いつも通りの一日だ。


 マイクがエプロンを結んでいると、店長がすぐに彼の方へと突進してきた。


「遅刻だ」


「五分です」


「それが遅刻だと言っている」


「メッセージが来たのは三十分前ですよ」


「それなのに、どうして私を失望させられるんだ」


 マイクは彼の脇を通り過ぎた。


「優しい言葉をどうも」


 店長は怒りを込めて冷凍コーナーを指差した。


「全部補充しろ」


 マイクはだるそうに敬礼した。


「資本主義のためなら何でも」


 数時間がゆっくりと過ぎていった。


 段ボール箱。


 客。


 掃除。


 また客。


 正午頃には、泣き叫ぶ子どもがドリンクのディスプレイを丸ごとひっくり返した。


 老人が、店のスキャナーは「脳波を追跡している」と店を非難した。


 ある女性は、三年前の期限切れの緊急クーポンで支払おうとした。


 マイクはそのすべてを、黙々と処理した。


 夕方になる頃には、足の感覚がなくなっていた。


 彼は倉庫の壁に寄りかかり、水を飲んだ。


 その時、またあの圧迫感が襲ってきた。


 強く。


 マイクは危うくボトルを落としそうになった。


 耳鳴りが頭の中で激しく爆発する。


 部屋が回転した。


 積み上げられた段ボール箱が、半秒間だけ歪んで見えた。


 視覚的な問題ではない。


 間違っている。


 その形が、そこに属していないかのような感覚だ。


 マイクは強く瞬きをした。


 また元に戻る。


「なんなんだ、一体……」


 倉庫のドアが開いた。


 同僚のダレンが、備品を抱えて入ってきた。


「今は幽霊と会話中か?」


 マイクはすぐに姿勢を正した。


「ただの寝不足だ」


「死人みたいに顔色が悪いぞ」


「ありがとよ」


「いや大真面目に、一回診てもらった方がいいって」


 マイクは笑いそうになった。


「どこの金で?」


 ダレンは彼にエナジードリンクを放り投げた。


「シフト中に死なれる前に、これでも飲んどけ」


 マイクはそれを受け止めた。


「ロマンチックだな」


 ダレンは肩をすくめた。


「死体の片付けの書類仕事は面倒だからな」


マイクが仕事を終えて店を出る頃には、太陽はすでに沈んでいた。


 濡れた道路の上で、街灯が明滅している。


 夜の街は、より冷たく見えた。


 より疲れていて。


 より、素直だった。


 マイクは小さな薬局の前を通り過ぎようとして、突然足を止めた。


 またあの耳鳴りが戻ってきた。


 鋭く。


 攻撃的に。


 膝の力がわずかに抜ける。


 近くにいたカップルが不安そうに彼を一瞥し、急ぎ足で立ち去っていった。


 マイクは光る薬局の看板を一秒間見つめた。


 それから、静かに悪態をついた。


「クソが」


 クリニックの待合室は、消毒液と安物の芳香剤の匂いがした。


 壁に取り付けられたテレビでは、音のない緊急映像が流れており、何人かの疲れ切った人々がプラスチックの椅子に座って静かに待っていた。


 マイクは隅の席に座り、こめかみを揉んだ。


 やがて、看護師がドアを開けた。


「マイク・ドレンさん」


 彼はすぐに立ち上がった。


 医師は五十代半ばほどに見えた。


 細い眼鏡。


 ボサボサの髪。


 死んだような目。


 何年も前に人生を楽しむのをやめたのが一目でわかる、そんな男だった。


「症状は?」


「頭の圧迫感。耳鳴り。めまいです」


「いつから?」


「昨夜から始まりました」


 医師はタブレットに何かを打ち込んだ。


「幻覚は?」


 マイクは躊躇した。


「……あるかもしれません」


「視覚的、それとも聴覚的?」


「囁き声です」


 医師はタイピングを一瞬止めた。


「何と言っていた?」


 マイクは肩をすくめた。


「はっきりとは聞こえませんでした」


 医師が、ようやく彼をまっすぐ見た。


「最近、活動中のグリッチ区域の近くに立ち入ったことは?」


「ないです」


「友人や家族で、最近暴露した者は?」


「いません」


 医師はゆっくりと頷いた。


 それから、デスクの横に置かれていた小さな装置に手を伸ばした。


「腕を出して」


 マイクは従った。


 装置が彼の手首をゆっくりとスキャンしていく。


 かすかな青い光が一度明滅した。


 それから、赤に変わった。


 医師はすぐに眉をひそめた。


「もう一度」


 彼は再スキャンした。


 赤色の光。


 今度は、彼の表情がわずかに変わった。


 より深刻なものに。


「何ですか?」


 マイクが尋ねる。


「動かないで」


 医師は引き出しから別のスキャナーを取り出した。


 より大きく、軍用のものだ。


 マイクは、その側面に刻印されたDOGCのロゴに気づいた。


 今度のスキャンは長くかかった。


 機械が突然、鋭い音を発した。


『警告:異常反応を検出』


 部屋が静まり返った。


 マイクは機械を見つめた。


 医師はマイクを見つめた。


「……どういう意味ですか?」


 医師はゆっくりと背もたれに寄りかかった。


「君はこれまでに、《変異者適性試験》を受けたことはあるかね?」


 マイクは瞬きをした。


「ないです」


「受けた方がいい」


 一秒間、マイクは本当に息の仕方を忘れた。


「え?」


 医師は腕を組んだ。


「このスキャンだけで公式に何かを断定することはできないが、君の神経系は歪曲エネルギーに反応している」


 マイクは黙って彼を見つめた。


 一日中続いていた頭の圧迫感が、初めて完全に消え去っていた。


「それって、つまり……」


「覚醒した可能性がある」


 マイクの心臓の鼓動が、一瞬で跳ね上がった。


 覚醒。


 能力者アルタード


 彼の脳は、その言葉を処理することを拒絶しかけていた。


 医師は淡々と続けた。


「ここから三つ隣の地区に、検証センターがある。明日の朝、行きなさい」


 マイクは、その後の言葉をほとんど聞いていなかった。


 覚醒。


 クソみたいな能力者。


 金。


 ギルド。


 住宅。


 まともな食べ物。


 レナのための薬。


 もうコンビニで働く必要はない。


 ひび割れたコップの下に積み重なった、未払いの請求書ももうない。


 野良犬のように、その日暮らしで生き延びる必要もないのだ。


 何年ぶりだろうか。


 マイクは希望を感じていた。


 本物の、希望を。


 帰り道は、足取りが軽く感じられた。


 街が、突然違って見えた。


 より明るく。


 可能性に満ちている。


 遠くに見える検問所の光さえも、それほど威圧的には見えなかった。


 マイクは、ほとんど笑みを浮かべながらアパートに入った。


 レナはすぐに気づいた。


「気味が悪いんだけど」


 マイクはバッグをソファに放り投げた。


「俺、能力者かもしれない」


 静寂。


 それから――。


「は?」


 マイクは何日かぶりに笑った。


「医者に、適性試験を受けろって言われたんだ」


 レナはタブレットを落としそうになりながら、勢いよく立ち上がった。


「嘘でしょ」


「大真面目だ」


「冗談言わないでよ」


「誓ってもいい」


 レナは目を丸くして彼を見つめた。


 それから突然、彼がバランスを崩しそうになるほどの強さで抱きついてきた。


「嘘、信じられない……!」


 マイクは困惑しながら笑った。


「落ち着けって」


「落ち着いてなんていられる? マイク、これがどういう意味かわかってるの?」


 ああ。


 わかっている。


 痛いほどに。


 その夜、二人はほとんど眠れなかった。


 馬鹿げたことをたくさん話した。


 もっと広いアパート。


 もっといい学校。


 ギルドの給料。


 どんな能力が手に入るか。


 レナは「炎」だと予想した。


 マイクは、人生が自分に炎の力をくれるほど優しくないという理由で「なし」に賭けた。


 それでも。


 その夜、アパートには希望が満ちていた。


 小さく。


 脆い。


 けれど、本物の希望が。


 翌朝、マイクは変異者検証センターの前に立っていた。


 その建物は、病院というよりも軍事施設のように見えた。


 入り口の近くには武装した警備員が立っている。


 敷地の周囲には巨大な金属製のバリケード。


 何十人もの人々が、不安そうに外で待っていた。


 興奮している者もいれば。


 怯えている者もいる。


 マイクはゆっくりと中に入った。


 受付の女性が彼に用紙を手渡した。


「初めての検証ですか?」


「はい」


「十二号室へ」


 検査プロセスは二時間近くかかった。


 血液サンプル。


 神経スキャン。


 歪曲反応の測定。


 心理評価。


 マイクはすべての質問に、静かに答えた。


 最後に、彼は冷たい白い部屋の中に座り、ガラススクリーンの向こう側で試験官が彼の結果を確認するのを待っていた。


 男の表情は、最初は読み取れなかった。


 それが、ゆっくりと変わっていった。


 興奮ではない。


 驚きでもない。


 別の何か。


 哀れみだ。


 マイクの胃が、わずかに引き締められた。


 試験官がボタンを押した。


「マイク・ドレンさん」


「はい」


 男は話す前に、一瞬だけ躊躇した。


「君の能力者分類が確定した」


 マイクの胸のつかえが、一瞬で取れた。


 しかし、試験官は続けた。


「支援型特化」


 マイクは沈黙した。


 男は再び画面に目を落とした。


 それから、ついにその言葉を口にした。


「《パッチャー(継ぎ当て屋)》だ」


 部屋が静まり返った。


 完全に、静かになった。


 ガラス越しでも、二人のスタッフが彼の方を一瞬だけ見つめ、すぐに視線を逸らしたのがわかった。


 祝福の声はない。


 興奮もない。


 未来の約束もない。


 ただ、沈黙だけがあった。


 マイクはわずかに眉をひそめた。


「……それって、悪いことですか?」


 試験官はゆっくりと息を吐き出した。


 苛立っているのではない。


 疲れているのだ。


 この会話を、これまでに何度も繰り返してきたかのように。


「三営業日以内に、グリッチ統制局から招集通知が届く」


「質問の答えになっていません」


 再びの間。


 それから、試験官はついに彼の目をまっすぐに見つめた。


「パッチャーは、すべての能力者分類の中で最も死亡率が高い」


 マイクは、冷たい何かが胸の奥に居座るのを感じた。


 試験官は静かに続けた。


「大半は、長期の現場任務を生き延びることができない」


 昨夜からマイクが抱えていた希望が、彼の中で音もなくひび割れた。


 粉々に砕け散ったわけではない。


 まだ、そこまではいっていない。


 だが、恐怖が入り込むには十分なほどの、ひび割れだった。

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