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グリッチ

この物語を読んでいただき、ありがとうございます。


『ゲームのパッチのように現実を書き換える』というアイデアから生まれた作品です。


最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。

第一話 グリッチ(前編)


 部屋に響いているのは、紙の上をペン先が走る音だけだった。


 レナは窓際に座り、片脚を折りたたみながら、小さなテーブルいっぱいに教科書やノートを広げていた。古びたデスクライトの淡い黄色い光が彼女の顔の半分だけを照らし、残り半分は静かな闇に溶け込んでいる。


 彼女はペンの後ろを口にくわえたまま、数式で埋め尽くされたページをじっと見つめていた。


 窓の外では、遠く離れたマンション群の向こうに、青白い隔離区域の警戒灯がゆっくりと明滅している。


 ここからでも東地区を封鎖するバリケードははっきりと見えた。


 巨大な警告スクリーンが夜霧の中でぼんやりと輝き、その上空を軍用ドローンが静かに巡回している。


 もう誰も、それを特別な光景だとは思わなかった。


 恐怖と共に生きることを、この街はとうの昔に覚えてしまったのだ。


 玄関のドアが開き、マイク・ドレンが肩で押すようにして中へ入ってきた。


 ドアを閉めると同時に、小さな部屋へ安物のインスタントラーメンと古本の匂いが広がる。


 身体は鉛のように重かった。


 レナが顔を上げる。


「遅かったね」


 マイクは返事の代わりにリュックをソファの横へ放り投げた。


「四番通路で客が吐いた」


「また?」


「いつもの酔っ払いだ」


「かわいそう」


「いや、汚い」


 レナは小さく吹き出すと、再び参考書へ視線を戻した。


 マイクはその場に立ったまま、部屋を見渡す。


 狭いワンルームだから、玄関からほとんど全部が見えてしまう。


 壁際に置かれた古びた灰色のソファ。


 二人立てば身動きも難しいほど狭いキッチン。


 ひび割れたマグカップの下に押さえつけられた未払いの請求書。


 そして、玄関脇に今も掛けられたままの叔父のコート。


 何か月も誰も触れていない。


 レナですら。


 先に目を逸らしたのはマイクだった。


 仕事用のジャケットを脱ぎ、流し台へ向かう。


 冷たい水が手を流れていく。


 窓の外からは、街のざわめきがかすかに聞こえていた。


 サイレン。


 遠くを走る車。


 巡回ドローンの低い駆動音。


 今では、どれも日常の音だった。


 部屋の隅に置かれたテレビから、ニュースキャスターの声が流れる。


『――DOGCは、イースト・メリディアン付近で発生したレベル2《歪曲級グリッチ》について、依然として不安定な状態が続いていると発表しました。封鎖作業が完了するまで、市民は周辺区域への立ち入りを控えるよう呼びかけています――』


 レナはリモコンを取り、音量を少し下げた。


 マイクは冷蔵庫を開く。


 半分だけ残ったキャベツ。


 卵。


 賞味期限切れの牛乳。


 水が一本。


 静かに扉を閉める。


「まだラーメン残ってるか?」


「戸棚にあるよ」


「どれくらい?」


「今夜を乗り切れるくらいには」


 マイクは苦笑した。


「最近、お前ちょっと芝居がかってきたな」


「誰の影響だと思う?」


「それは不幸だ」


 レナの口元に、小さな笑みが浮かぶ。


 マイクはラーメンを取り出し、鍋に湯を沸かし始めた。


 湯気がゆっくりと狭いキッチンへ広がっていく。


 その間もレナは、何事もなかったように勉強を続けていた。


 二人の間に流れる沈黙は、不思議と気まずくはない。


 長い年月を共に過ごした二人は、多くを言葉にしなくても互いを理解できるようになっていた。


 マイクは無意識に麺をかき混ぜながら、壁掛け時計へ目を向ける。


 午後十一時四十三分。


 また一日が終わる。


 そして、また朝を待つ夜が始まる。


 ラーメンが茹で上がると、二つの器へ分け、一つをレナの前へ置いた。


「ありがと」


「明日も学校だろ?」


「来週から試験」


「じゃあ寝ろ」


「寝たら落ちる」


「……それは正論だ」


 レナは本から目を離さないまま箸を手に取った。


 マイクも向かいへ座り、静かに麺をすすった。


 味はいつもと変わらない。


 安っぽく。


 塩辛く。


 そして、食べ終わればすぐ忘れてしまう味だった。



テレビでは、ニュースキャスターの声が淡々と流れ続けていた。


『昨日、南地区の検問所付近で発生したグリッチの拡大により、現在も三名の行方が分かっていません。目撃者によると、通信が途絶える直前、放棄された建物の内部から誰かの声が聞こえたとのことです――』


 マイクは、ほとんど耳を貸していなかった。


 そんな話は、子どもの頃から何度も聞いてきた。


 グリッチが初めて現れた頃、人々は恐怖に震えた。


 だが今では違う。


 それは嵐のように。


 病気のように。


 戦争のように。


 世界の「当たり前」になってしまっていた。


 人は慣れる。


 慣れるしか、生きていけないからだ。


 その時だった。


 建物の外から、低く重いエンジン音が響いた。


 マイクは反射的に窓へ視線を向ける。


 眩しい白色灯が、夜の道路をゆっくりと横切っていく。


 検問部隊だ。


 二台の装甲車が静かに進み、その屋根に搭載されたスキャナーが淡い青い光を周囲へ照射している。


 さらに先には、仮設バリケードの前で武装した隊員たちが警戒を続けていた。


 ――対歪曲検問。


 また始まったらしい。


 マイクは黙ってその光景を見つめる。


 近くでは、買い物袋を抱えた男が警備員へ怒鳴っていた。


「また道路を封鎖するのかよ!」


「定期検査です」


 警備員は感情のない声で答える。


「今は真夜中だぞ!」


「通行してください」


 再び青白い光が道路を掃く。


 マイクは静かにカーテンを閉めた。


「……また近くでグリッチでも出たのかな」


 レナがぽつりと呟く。


「たぶんな」


「何年も経ったのに、まだ慣れないね」


 マイクは肩をすくめる。


「いや、もう慣れたさ」


 レナは首を横に振った。


「違うよ」


 少しだけ寂しそうに笑う。


「私たちは慣れたんじゃない。ただ……反応しなくなっただけ」


 マイクは何も言えなかった。


 その通りだったからだ。


 今では、自宅のすぐ外で警報が鳴らない限り、人々は慌てもしない。


 行方不明者のポスターは駅中に貼られている。


 映画を見ていれば緊急速報が割り込む。


 子どもたちは、高等数学を学ぶ前に避難経路を暗記させられる。


 それが、この時代の「普通」だった。


 マイクは食事を終えると、小さく息を吐きながら立ち上がる。


 一日中立ち仕事だったせいで、全身が軋むように痛んだ。


 検問の影響で、コンビニは朝から大混雑だった。


 苛立つ客。


 空になった棚。


 何度も止まる決済システム。


 どこにでもある一日。


 それだけだった。


 食器を洗っていると、後ろからレナが声を掛ける。


「電気代、払った?」


 マイクの手が止まった。


「……明日」


 レナは深いため息をつく。


「つまり払ってない」


「つまり明日払う」


「それ、先週も聞いた」


 マイクは食器を拭きながら苦笑する。


「分かってる」


 再び静寂が流れた。


 怒っているわけではない。


 ただ、重かった。


 マイクは、この空気が嫌いだった。


 レナが責めるからじゃない。


 責めないからこそ、胸が痛んだ。


 叔父が元気だった頃は、全部あの人が何とかしてくれていた。


 血を吐くほど咳き込んでいても、最後まで心配していたのは家賃や生活費だった。


 病院の薬品の匂いが染み付いたコート。


 弱っていく背中。


 その姿は、今でも鮮明に思い出せる。


 叔父が亡くなってから、この部屋は変わってしまった。


 賑やかさを失ったわけではない。


 もっと静かな何か。


 まるで、この家から「誰かの温もり」だけが消えてしまったようだった。


 マイクはテレビの横にある小さな棚へ歩み寄る。


 そこには古びた写真立てが置かれていた。


 中央には叔父。


 その両隣には幼い頃のマイクとレナ。


 三人ともぎこちない笑顔を浮かべている。


 マイクは数秒だけ見つめると、静かに視線を逸らした。


 長く見続けることは、まだできなかった。


 やがてレナもノートを閉じ、大きく背伸びをする。


「もう寝るね」


「ああ」


「マイクも早く寝なよ」


「そのつもり」


「昨日も同じこと言ってたよね?」


「嘘だった」


「嘘をそんな堂々と言える人、初めて見た」


 マイクは小さく笑う。


 レナは苦笑しながら寝室へ向かった。


 扉を開ける直前、ふと思い出したように振り返る。


「ねえ、マイク」


「ん?」


「《変異者適性試験》、受ける気はないの?」


 マイクは一瞬だけ目を瞬かせた。


「……ずいぶん唐突だな」


「クラスの子のお兄さんが、この前覚醒したんだって」


「それで?」


「すぐギルドに入ったらしい」


 マイクは鼻で笑う。


「そうか」


「住む場所まで用意してもらえたんだって」


 その言葉に、マイクは黙り込んだ。


 レナは慎重に続ける。


「能力者って……やっぱり普通の人よりずっといい暮らしができるから」


 マイクは静かに答えた。


「その代わり、三十まで生きられない奴も多い」


「普通に働いてても、六十まで生きられる保証なんてないよ」


 二人の視線がぶつかる。


 レナは年下なのに、ときどき自分より大人びて見える。


 それが少し悔しかった。


「……もう寝ろ」


 マイクはぼそりと言った。


 レナは肩をすくめる。


「はいはい」


 そう言い残し、寝室のドアを静かに閉めた。


 部屋は再び静寂に包まれた。


 マイクはテレビの電源を切り、古びたソファにもたれかかる。


 部屋を照らしているのは、キッチンに残された小さな照明だけだった。


 窓の外では、検問車両がようやく走り去っていく。


 それでも――


 雨はなお、空へ向かって降り続けていた。


 マイクはゆっくりと目を閉じる。


 疲れていた。


 肉体ではない。


 もっと奥深いところが。


 まるで毎日が、終わることのないループを繰り返しているようだった。


 朝起きる。


 仕事へ行く。


 家へ帰る。


 請求書を払い。


 眠る。


 そしてまた同じ一日が始まる。


 マイクは両手で顔をこすった。


 その時だった。


 ――何かがおかしい。


 耳の奥で、小さな音が鳴った。


 キィィィ……


 金属を擦り合わせるような、かすかな耳鳴り。


 マイクは眉をひそめる。


 部屋を見回す。


 異常はない。


 それなのに。


 耳鳴りだけが少しずつ大きくなっていく。


 まるで遠くで流れるノイズのように。


 同時に、頭が急に重くなった。


 マイクはゆっくりと身体を起こす。


 耳鳴りはさらに強くなる。


 鼓動がゆっくりになったかと思えば、次の瞬間には激しく跳ね上がった。


「……なんだ?」


 激しい眩暈が襲う。


 視界がぐらりと揺れた。


 マイクは咄嗟にソファの縁を掴む。


 床が傾いたような感覚。


 キッチンの照明が、一度。


 そして二度。


 チカッ……チカッ……


 と不規則に明滅する。


 耳鳴りは、いつしか理解できない囁きへと変わっていた。


 誰かが何かを話している。


 言葉は聞こえる。


 意味だけが理解できない。


 呼吸が乱れる。


 目の奥に圧迫感が広がる。


 痛みではない。


 見えない何かが、頭蓋骨の内側から押し広げようとしているような奇妙な感覚だった。


 マイクは勢いよく立ち上がる。


 しかし足元がふらつき、危うく転びかける。


 その瞬間。


 部屋中の音が、おかしくなった。


 冷蔵庫の駆動音が異様に長く伸びる。


 流し台から落ちる水滴は、不自然なほど大きく響く。


 壁掛け時計の秒針も――


 カチ。


 カチ。


 カチカチカチカチ……


 狂ったように加速していく。


 マイクの胸が締め付けられた。


 そして――


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 誰かがすぐ耳元で囁いた気がした。


 『――聞こえるか――』


 マイクは勢いよく振り返る。


 誰もいない。


 部屋には、自分しかいない。


 そのはずだった。


 耳鳴りが爆発したように頭の中へ響き渡る。


 マイクは思わず頭を抱えた。


 ――次の瞬間。


 すべてが止まった。


 静寂。


 完全な静寂だった。


 照明は何事もなかったかのように安定し。


 時計は正常なリズムへ戻る。


 囁きも。


 耳鳴りも。


 跡形もなく消えていた。


 残っているのは、自分の鼓動だけ。


 速く。


 落ち着かず。


 胸の奥で激しく鳴り続けている。


 マイクはゆっくりと両手を下ろした。


 手のひらは、小さく震えていた。


 寝室の向こうから、眠たそうなレナの声が聞こえる。


「……マイク?」


 返事はしなかった。


 マイクはただ黙って窓の外を見つめる。


 夜空へ向かって降り続ける雨だけが、静かに世界の異常を物語っていた。

第一話を読んでいただき、ありがとうございました。


ここからマイクの運命は大きく動き始めます。


少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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